お久しぶりです。
今年も、9月20日に誕生日を迎え、歳をとりました。
7月後半から8月いっぱいの超過密スケジュールから解放され、精神的にも余裕ができました。
それまでの間は、「世界の記憶」やオーケストラなどのいろんなことが立て続けにあり、体力的にも精神的にもしんどい状況でした。
その中でも、特に辛かったのは、いつも乗っているバスでの出来事でした。
これは、8月6日の夜、帰宅中のバスで僕の身に実際に起こったことです。
昨年末にかかったコロナの後遺症で、かなり体力が落ち、今も完全には戻っていません。
そんなこともあり、現在は普段からヘルプマークをつけて生活しています。
この日も、バスの座席にヘルプマークを付けた状態で座っていました。
すると、とある男性の方が僕のすぐ横に来て「席を譲れ」と高圧的に言われました。おそらく50〜60代と思われる人でした。
ヘルプマークのこと、後遺症で体力的にしんどいことなどを説明しても、「みんなしんどいんだ。座りたいのはお前だけじゃない。お前だけ特別扱いしてもらおうとか、人としておかしい」などと言われました。
これまでも何度もこのようなことを経験しましたが、そのパターンも様々で、酷いときには「そんなにしんどいなら、バスを使うな。迷惑だ」と。
場合によっては、ヘルプマークを付けているだけで障害者と決めつけられたり(僕の場合は確かに発達障害と鬱を持っていますが…………)、酷いときは「それ付けとったら、チヤホヤしてもらえるんやね」「それ、どこで買えるん?」みたいなことを言われることも。
このようなパターンだけでなく、ある程度若そうな人でも、自分の勝手な思い込み・決めつけによる、正義感とは言えないであろう正義感を振りかざして言ってくる人も少なくありません。
ヘルプマーク自体全然知られていないのはもちろん、パッと見ただけではなかなかわからない症状などについても本当に理解がないのを感じます。
しかも、言い返す気力もないほど疲れてヘトヘトなときに限って、酷いことを言われ、余計に体力的にも精神的にもしんどくなり、鬱がより酷くなるということが多いのです。
バスや電車に乗ると、だいたい7割から8割くらいの確率でこのようなことになり、その度に落ち込み、生きていること自体が罰ゲームというか地獄に感じました。
8月6日という日の帰りに起こったからこそ、改めて考えなければならない問題だと思ったため、うまく文章もまとまっていませんがこうして書き込んでいます。
確かに戦争がない世界は、「平和な世界」と言えます。しかし、本当にそれだけでしょうか。戦争をしていなかったら、どれだけいじめや差別などが起こっていても「平和」と言えるのでしょうか。
少なくとも、いじめや差別が起こっている世界は、「平和」とは言えないはずです。
では、本当の意味での「平和」とは一体何なのでしょうか。
広島で過ごしていて感じることですが、8月6日8時15分だけ平和を祈り、それで一丁上がり、という雰囲気を感じます。
平和について考えるのは8月6日8時15分だけ。あとは自分さえ良ければどうでもいい。
そんなので平和になるわけありません。
改めて、本当の意味での「平和」とは何か、そのために自分にできることは何か、考えなければなりません。