ちょうど1ヶ月後の2023年11月18日、

 

広島のアマチュアオーケストラであるグランツ管弦楽団の第3回目の演奏会があります。

 

せっかくなので、今回はこの演奏会の目玉であるシベリウスの『交響曲第2番 ニ長調 作品43』について紹介しようと思います。

 

 

 

①ジャン・シベリウス

ジャン・シベリウスは、フィンランドの作曲家であり、ヴァイオリニストです。

フィンランドの最も偉大な作曲家として知られており、当時ロシア帝国の支配を受けていたフィンランドが独立を勝ち得ようと戦っている中で、音楽を通じてフィンランド人としての国民意識を高めることに貢献したと評価されていることが多い作曲家です。

 

シベリウスは、1865年、フィンランドの首都ヘルシンキからおよそ北に100キロ離れたハメーンリンナで、3人姉弟の2番目、長男として生まれました。幼い頃から音楽に関心があったシベリウスは、10歳の時に叔父から譲り受けたヴァイオリンをとても気に入り、ヴァイオリニストを志すようになりました。

 

15歳の時から本格的にヴァイオリンを学び、また作曲も独学で身につけたシベリウスは、ヘルシンキ音楽院に入学。さらにその後ベルリンとウィーンに留学して、音楽家としての確かな技術を身につけました。 
デビュー作『クレルヴォ交響曲』で注目を浴びたシベリウスは、交響詩『フィンランディア』などの作品を発表し続け、やがては国の年金を受けて作曲活動により専念するようになりました。 
 

フィンランドの民族的な要素を素材としたシベリウスの作品は、当時ロシア帝国の圧政に苦しんでいたフィンランド国民によって支持され、シベリウスは国民の英雄として尊敬を集めました。また、海外にもたびたび足を運び、自作の演奏会を開いて大きな成功を収めました。
 

7つの交響曲を作曲し、ハイドンが確立しベートーヴェンが大成した「交響曲」というジャンルの手法や構造を踏襲するのではなく、「交響曲」の本質を見直し追求し、前例にとらわれない独自の新しい答えを示したシベリウスは、1920年代後半で新曲を発表しなくなりました。

1957年9月、ランチ中に急に脳出血で倒れ、その日の夜、91歳でその生涯を終えました。フィンランドの英雄の葬儀はヘルシンキ大聖堂で国葬として執り行われました。妻アイノはその後12年間を同じ家で暮らし、1969年6月に97歳で夫の後を追いました。現在も夫婦共に、シベリウスの家「アイノラ」の庭で眠っています。

 

 

 

②シベリウスの代表曲『フィンランディア』

シベリウスは交響曲と交響詩、中でも『フィンランディア』や『カレリア組曲』によって広く知られています。

特に『フィンランディア』は、フィンランドへの愛国心を沸き起こすとして、ロシア帝国政府がこの曲を演奏禁止処分にしたという話で有名です。

『フィンランディア』が作曲された1899年当時、フィンランドはロシア帝国の圧政に苦しめられており、独立運動が起こっていました。ロシアは、1899年2月15日の二月宣言(「フィンランド議会が行う立法は,ロシア基本法の制限下に置かれる。フィンランド議会には意見を申し述べる権利のみあり,ロシアはこれになんら関与しない」というもの。650年間のスウェーデン圧政から解放されて手にした自由は90年後にまたしてももぎ取られ、フィンランド国中が大騒ぎになった。)に端を発して、フィンランド政府の権限縮小と議会の廃止、ロシア軍への徴兵、ロシア語を公用語に加える言語宣言などの厳しい措置を講じていったのです。

これらの政策がとられていた1899年の秋、フィンランドではロシアへの反抗意識から芽生えた愛国独立思想が一層強まり、フィンランドの太古から現在に至るまでを描く舞台劇『歴史的情景』の上演が計画されました。シベリウスはこの劇付随音楽を作曲することになります。交響詩『フィンランディア』はこのうちの最終曲である『フィンランドは目覚める』が演奏会用に改作されて生み出されたものです。ちなみに、『フィンランディア』という曲名は、本来は『フィンランド』となるはずでしたが、ロシア帝国から目をつけられないようにするために、イタリア風の曲名になりました。

 

このようにして作曲された『フィンランディア』は、1900年7月、ヘルシンキで初演され、「何がなんでも独立を勝ち取り、自由を取り戻す!」というフィンランド国民の気持ちに火をつけました。

 

 

 

③『交響曲第2番 ニ長調 作品43』

『交響曲第2番 ニ長調 作品43』は、1901年に完成した交響曲です。シベリウスの7曲(『クレルヴォ交響曲』を含めると8曲)の交響曲の中では、最もポピュラーな作品でもあります。

 

この曲の最も早い時期のスケッチは、交響曲第1番の初演が大成功に終わった2ヶ月後の1899年6月に書かれたフィナーレの主題でしたが、作曲の作業がなかなか順調にはいかず、大幅に変えなければならなくなりました。

 

しかも、この時、悲しい出来事がありました。1900年2月、3番目の娘・キルスティを亡くしたのです。原因はチフスでした。

キルスティは、生後たったの15ヶ月で、旅立ってしまったのです。

ひどく落ち込んだシベリウスに、支援者のアクセル・カルペラン男爵は気分転換になればとイタリア旅行を計画。旅行のための費用のために知人や友人から集め、シベリウスに提供しました。

1901年2月から3月にかけて、シベリウスは家族を連れてイタリアへ長期滞在の旅に出ました。ジェノヴァ郊外のリゾート地・ラパッロに住まいと作業小屋を借りシベリウスはこの作品の作曲を進めました。シベリウスは、厳寒のフィンランドに比べ温暖なこの国を「魔法がかかった国」と評し、スケッチの筆は急速に進み、この国の様々な伝説や芸術作品も創造力を刺激しました。

 

しかし、イタリア滞在中にも、災難に見舞われることになりました。次女のルースが病気になったのです。その病気は奇しくもキルスティを失う原因となったチフスでした。実は、シベリウスは自身が2歳の時に父を亡くしていますが、その原因もチフスでした。旅先での娘の病気、それも大事な人を2人も亡くした原因の病気に、夫婦ともども精神的にも参ってしまいました。

ルースのチフスは幸い治癒しましたが、3度にわたって家族に襲い掛かる悪疫のショックは並大抵のものではなかったのです。

 

シベリウスは、娘の病気でとても作曲どころではなくなってしまいました。カルペランをはじめとする資金を提供してくれた人たちの期待に応えられないままイタリア旅行が終わるとなると、シベリウスの面目は潰れてしまいます。そんなプレッシャーから、家族をラパッロに置いたまま、ローマに単身逃避行。2週間後、ラパッロに戻り、交響曲が未完のまま、帰国することになりました。

イタリア滞在中に完成させることができなかったこの交響曲は、フィンランドに戻ってからも筆を入れており、1901年11月にカルペラン男爵宛に完成が近いと知らせ、一旦完成としました。その後、年末に再び大幅な改訂を行い、翌年3月8日に初演を行いました。

 

シベリウスの『交響曲第2番 ニ長調 作品43』は、愛する娘の死という絶望を南国の環境で癒している最中に災難に見舞われるという、まさに「絶望」というべき状況の中で作られた曲なのです。

 

 

④『交響曲第2番 ニ長調 作品43』の解釈

ここからは、僕の解釈です。シベリウスの視点で書いています。
「こんな感じ方もあるんだな」という感覚で見ていただけたらと思います。
 

第1楽章 Allegretto

今、私(シベリウス)はイタリアのリゾート地・ラパッロにいる。友人がイタリア旅行を計画してくれたのだ。ここは地元・フィンランドとは大違いだ。地元では考えられないほど暖かい。のどかな港町だけあって、海も美しい。穏やかに揺れる波。海岸壁には、鮮やかな家が立ち並んでいる。まさに、魔法がかかった国だ。
 
 

第2楽章 Tempo andante, ma rubato - Andante sostenuto

ルースが病気になってしまった。その病名はチフス。考えてみると、父も私が2歳の時にこの病気で死んだ。それも、医者としてチフス感染者の治療をしている最中でだ。父だけでなく、キルスティまでも、生後たった15ヶ月でこの病気で死んだ。ルースにも、チフスという名の刺客が不気味な足音を立てるかの如く訪れた(チェロ・コントラバスによるピッツィカート)。私はなぜ、これほどまでに精神的苦痛を味わわなければならないのか。
まるで地獄に落ちていくドン・ジョヴァンニ(※)のようだ(ファゴットによる主題)。
 
※ドン・ジョヴァンニ:男前で女遊びの激しい、スペインの伝説の遊び人。ジョヴァンニが貴族の娘を誘惑した際、彼女の父親を殺してしまう。その後、その父親の石像の前を通りかかったとき、ジョヴァンニが半ば冗談で宴会に招待すると、石像は本当に宴会に現れ、ジョヴァンニを地獄に引き込むという「ドン・ファンの伝説」に基づく。なお、「ドン・ジョヴァンニ」は、「ドン・ファン」をイタリア語にしたもの。
 
医師たちが懸命に治療してくれている。私には、祈ることしかできない。自分の力がこれほどまでに無力となることはあるのか。とてももどかしい。
もう、これ以上大切な人を失いたくない。どうにか、命は助かってほしい。
その思いが通じたのか、どうにか治癒した。大切な人を失わずに済んだ。
 
 

第3楽章 Vivacissimo - Trio. Lento e suave

ルースは助かったが、キルスティは助からなかった。キルスティを助けることはできなかった。この事実は変わらない。キルスティを助けることができなかったのは、私の責任でもある。まるで猛烈な風と非常に激しい雨、恐怖を感じるほどの暴風雨のよう。まさに、「絶望」とはこのことだ。今はとにかく現実逃避したい。
 
(中間部)
どこからか、キルスティの声が聞こえてくる気がする。私を慰めてくれているのだろうか。
 
(再現部)
キルスティのことを思い出すと、やはり悲しくなる。絶望。
 
(結尾部)
キルスティが慰めてくれているのだろうか。何かわからないが、暖かいもので包み込まれているような気がする。
夢でも見ているのか。いや、でも目は覚めている自覚はある。ぼやけている目の前の景色がだんだんと晴れてくる。
 
(切れ目なく、第4楽章へ突入する)
 
 

第4楽章 Finale. Allegro moderato - Moderato assai - Molto largamente

雲一つない真っ青な空。辺り一面の真っ白な銀世界。ここは故郷・フィンランドの、見慣れた雪景色のようだ。
目の前には、一人の少女が立っている。一体誰なのだろうか。
 
よく見てみると、どこかで見たことのあるような顔だ。どうやら、少し大きくなったキルスティのようだ。
自然と涙が溢れる。
 
今、ここにいるのは私とキルスティの2人のみのようだ。思う存分、好きなだけ、キルスティと遊んであげることができる。
 
だけど、キルスティは死んだはずだ。つまり、これは夢の世界だったのだ。
現実に引き戻されていく。
そうだ。死んだはずのキルスティが、この世にいるわけがないのだ。
 
そういえば、義姉のエリ・ヤーネフェルトも自殺した。享年33歳だった。早すぎる。
あの世では、抱えていた全ての悩みが解消され、安らかに休めることを祈る(木管楽器による非歌風の主題)。
 
キルスティも、今頃、あの世で遊んでいるのだろうか。
私は、思う存分遊んでやることができなかった。もっと、思いっ切り遊んであげられたらどれだけよかっただろうか。
 
どうやら、また夢の世界に来たようだ。
雲一つない真っ青な空に辺り一面の真っ白な銀世界。太陽の光が積もった雪に反射して輝いている(木管楽器の四部音符の刻み)。
 
キルスティと2人。思う存分、好きなだけ、キルスティと遊んであげる。
 
でも、やはり、これはあくまで夢の世界。現実に引き戻されていく。
キルスティが生後たった15ヶ月でこの世を去ったという事実は決して変わらない。
命というものが儚いということを身に染みて強く感じる。
現実は、容赦なく刺さってくる。
キルスティが生きている間、私は、思う存分遊んでやることができなかった。
もっと、思いっ切り遊んであげられたらどれだけよかっただろうか。
悔やんでも悔やみきれない。
 
だからこそ、今ここに残っている2人の娘とは、しっかりと遊んであげないといけないな。
そして、これから生まれてくる子たちとも、しっかりと思う存分遊んであげよう。
同じ後悔をしないためにも。
 
キルスティは、そのことを教えるために生まれて来てくれたのかもしれない。
いつまでも、落ち込んでいられない。落ち込んでいては、キルスティに顔向けできない。
おそらく、これからもキルスティの死というものに対して落ち込むこともあるだろう。
だけど、やはり立ち直らなければ、何も始まらない。
こういう時こそ、前を向こう。
 
キルスティ、気づかせてくれてありがとう。
(完)

 

⑤まとめ

フィンランドの指揮者であるロベルト・カヤヌス(1856〜1933)がロシア帝国の圧政に対するフィンランド人の独立への気概を代弁したと解釈したことから、現在でもそのように受け止められていることもあります。しかし、シベリウス自身は「ロシア帝国に対する独立の曲ではない」と否定しています。
 
むしろ、娘を亡くし、絶望を感じるほどの悲しみを感じているからこそ、この曲を通して、シベリウスが自分自身を奮い立たせようとしたのではないでしょうか。
 
そういった意味では、音楽初心者の方でも感情移入しやすく、とてもわかりやすい曲の1つではないでしょうか。
 
 
 
改めて、宣伝をさせてください。
 
2023年11月18日、広島市南区民文化センターホールにて、グランツ管弦楽団の第3回目の演奏会が開催されます。
僕自身、コントラバス奏者の1人として出演させていただきます。
 
入場料は無料。以下のURLから、チケットサービスteketのページに飛び、申し込みをしてください。会員登録しなくても、申し込み可能です。
https://teket.jp/3642/26780
 
会場にて、お待ちしております。