ご無沙汰しております。

 

昨年は、被爆から80年という節目でもあり、その分バタバタしていたため、全くと言っていいほどブログも更新できていませんでした。

 

とはいえ、いろいろとあったので、ざっと近況報告をさせていただこうと思います。

 

 

 

①精神疾患について

昨年の4月頃、誰がどう見ても「躁状態だよね」とわかるレベルでの軽躁状態が見受けられたため、これまでは「鬱病」という診断だったのが「双極性障害」という診断に変わりました。

 

「双極性障害」とは、極端に気分が落ちる「鬱状態」と、極端に気分が高揚する「躁状態」を繰り返す、脳の疾患です。

「躁状態」と「鬱状態」、正反対である両極端な症状を繰り返すために「双極性障害」と呼ばれています。

少し前までは「躁鬱病」とも呼ばれていました。

 

躁状態のときの症状として、一般的には次のようなものが挙げられます。

・自信満々になる

・眠らなくても平気

・おしゃべりになる

・行動的になる

・考えが次々に浮かぶ

・注意力が散漫になる

・気が大きくなって高額な買い物をしてしまったり危険な行動をしたりする

 

他にも症状はありますが、僕の場合は、易怒性、散財、衝動性、過活動などが顕著です。

 

散財や衝動性が、元々持っているADHDと重なってしまった場合は、本当に最悪です。

場合によっては、クレジットカードの請求が20万近くになることもあるし、一晩中高速道路を車で走り回る(それも、距離にして300km以上に)ということもあったりします。

 

改めて考えてみると、大学卒業直後でのバイト先でパワハラ・モラハラ・差別を受けまくって自殺まで考えた人間が、急に平和活動を始めるようになったわけです。(詳しくは、以下のブログをご覧ください。)

https://ameblo.jp/primogyk/entry-12745431557.html

 

「いつ、どこで、どうやって死のうか」

そればかりを毎日毎日、四六時中考え、自殺の方法も調べたりしていたくらいです。

そんな人間が、急に平和活動を始めた。

 

やはり、これも「極度の鬱状態から、その反動で躁状態になった」と考えると、辻褄が合います。

 

つまり、このときはたまたま「鬱病」という診断だったけど、少なくともこのときにはもうすでに「双極性障害」だったのだろうと思います。

 

「双極性障害」は、非常に厄介です。

テンションが高い「躁状態」になってると思ったら、翌日、ヘタしたらその数時間後、数分後には気分が極端に落ちて「鬱状態」になっている、ということもあります。

また、場合によっては、「躁状態」と「鬱状態」の「混合状態」になることもあります。「混合状態」にあるときは、躁状態と鬱状態の両方の症状が出るため、「気分は落ち込んでいるが、落ち着かない、ソワソワする」という感じで、気分と行動に矛盾が生じている状態になります。

 

また、躁状態がなかなか見受けられず、現在の鬱状態から「鬱病」が疑われ、結果的に「鬱病」という診断になることも多いです。そのため、「鬱病」と診断された場合は「双極性障害」の治療ではなく「鬱病」の治療がなされます。

 

「鬱病」と「双極性障害」は、全く違う疾患です。

「鬱病」は、気分が極端に落ちる「鬱状態」が続くため、気分を高めるための治療をします。

それに対して、「双極性障害」の場合は、気分が極端に落ちる「鬱状態」と気分が極端に高まる「躁状態」を繰り返すため、その気分の差を抑えるための治療をします。

つまり、治療の仕方が真逆なのです。

 

だからこそ、「鬱病」と診断された結果、後に「やっぱり双極性障害だった」ということになり、治療の仕方が変わる、といったことはよくあることです。

 

当然ですが、「診断された病名が違うじゃないか」といって、医者が悪い、ということではありません。

それだけ、専門家でも見分けることが難しいということです。むしろ、抗鬱薬などの、気分を高めるための薬を飲んだ結果、躁状態になり、そこで初めて「双極性障害だった」とわかることも少なくありませんので、ご理解ください。

 

 

 

②「広島花幻忌の会」について

広島で被爆した作家・原民喜の文学作品やその資料の保全活動をしている「広島花幻忌の会」という市民団体があります。

現在、僕が2021年から関わっている「広島文学資料保全の会」とも連携しながら、活動しています。

 

原民喜は、1951年3月13日、当時の国鉄中央線の吉祥寺ー西荻窪間に身を横たえ、この世を去りました。翌1952年から、彼と親交の深かった遠藤周作や大久保房男たちが中心となり、命日の3月13日に集いを開いて民喜を偲ぶ「花幻忌会」が東京で誕生しました。この会の名前は、民喜の遺詩の4行詩『碑銘』の終章「一輪の花の幻」から命名したものです。

 

東京での集いは以来ずっと継続して行われており、現在は東京在住の進藤裕美さんが中心となってお世話をしてくださっています。

 

このような流れは民喜の故郷である広島でも引き継がれ、民喜33回忌に当たる1983年には「東京花幻忌会」メンバーが来広。故郷広島での集いが実現しました。この時には民喜の甥で著作権継承者の故・原時彦さんの案内で、『夏の花』に描かれた民喜たちの足跡を辿る会も実施し、メンバー全員で民喜が描いたヒロシマの惨劇を追体験しています。

 

民喜の言葉を後世に伝えていくため、没後50年を目前にした2000年9月には、親族や研究者らが中心となり、民喜の作品を継承・研究する「広島花幻忌の会」が結成されました。発足当時の世話人は元中国新聞社の海老根勲さん、詩人の長津功三良さんや御庄博美さん、ながとかずおさんら、沢山の方々で、時彦さんは顧問として携わってきました。今では当時の世話人の方々の多くがお亡くなりになってしまいましたが、生前は長く会を支えてくださりました。

 

2001年3月の旧日本銀行広島支店での展示会には、栗原貞子さんも車椅子のお身体でお越しくださいました。皆さんが民喜を偲び、民喜の残した平和への祈りの言葉を大切に伝えていきたいと思っていることをお話くださいました。

 

生誕100年に当たる2005年には袋町にある市民交流プラザ(ひと・まちプラザ)で資料展示会やヒロシマの作家・竹西寛子さんの記念講演も行ないました。

 

会はこの後も現在まで26年継続しており、命日3月の集いや生誕日11月15日前後には生誕祭の集い、機関誌や会報発行などさまざまな活動を行ってきました。

集いでは、朗読会、講演会や研究発表などを行う他、絵画や音楽、舞踊などとのコラボレーションなど新しい試みも色々と行ってきました。武蔵野美術大学の学生の皆さんの協力で童話を紙芝居として上演したこともあります。若い方々に少しでも関心を持っていただき、民喜の言葉、そして原爆文学を継承したいとメンバー全員で創意工夫を凝らしてきたものです。

 

また『夏の花』や『原爆被災時のノート』に記された、あの日の民喜の足跡を辿る「夏の花を歩く」会も継続。時彦さんは、これを自らのライフワークと位置付けられ、最晩年(2023年春)まで続けられ、会としても被爆の実相を伝える活動として大切にしてきた催しです。会のメンバーもその思いを引き継ぎ、時彦さん他界後も昨年のゴールデンウィークには東京からお越しになった方々に向けてのフィールドワークを実施しました。

 

時彦さんは、メンバーらと小学校や公民館などでの講話にも参加。少しでも多くの方々に民喜の残した言葉を伝え、核の恐ろしさや非人道性、平和の尊さを伝える活動を続けてきました。コロナ禍の時にも、広島市内の高校の教室にオンラインで民喜の言葉を伝え、平和への祈りをこめてメッセージを届けていました。

 

自らの被爆体験を最も早い時期に描いた民喜の言葉には、戦争や核の恐ろしさを伝えながら、人間の命の尊さ、心から平和を希求する気持ちが溢れており、非常に貴重な記録です。そして、民喜と同じように文学で平和を訴える文学者は、峠三吉、大田洋子、栗原貞子、正田篠枝などもいます。画家の四國五郎も、同じ志で多くの作品を残しています。

 

「広島文学資料保全の会」は、そういった方々の作品も大切に継承する活動を続けており、「広島花幻忌の会」も、毎年8月15日に開催している「反戦・原爆詩を朗読する市民のつどい」をはじめとする多くの催しに共催という形で長年参加しています。

 

2015年からは3度に渡り「ユネスコ世界の記憶」に民喜の残した小さな手帳を、「広島文学資料保全の会」の原爆作家たちの資料とともに共同申請しました。この手帳は『原爆被災時のノート』と呼ばれ大変貴重なものです。民喜は7日夜に避難した東照宮で野宿をしながら、その惨状を鉛筆で記したものです。今は字も掠れ見えにくくなっていますが、まさにリアルタイムで原爆の実相を記録しており、世界で最も早い段階で書かれた原爆の記録です。時彦さんは生前、この手帳を「世界の記憶」に登録し、核のない平和な世の中を創ることに役立たせて欲しいと強く願っておりましたが、願い叶わず未だ登録に至っておりません。

 

文学や芸術を通して戦争や核の悲惨さを伝え、平和の尊さを訴える。これが「広島花幻忌の会」や「広島文学資料保全の会」の共通した思いです。

 

前述のとおり、「広島文学保全の会」や「東京花幻忌会」とは、今でも連携を保ちながら活動を続けています。ささやかでも根強く続けていけば、きっと平和な世界を築く力になる、とメンバー全員確信しています。

 

この度、「広島花幻忌の会」のX(旧Twitter)、Instagramを開設しました。現在はまだ準備中ですが、民喜の作品の朗読なども投稿していく予定です。

各SNSについては、以下のリンクからご覧ください。

https://profu.link/u/hiroshimakagenki

 

また、原民喜の戦前の作品には故郷広島の戦前の街の様子や人々の暮らしを描いた作品が多くあります。

残念なことに、これらの作品は文庫にも入っておらず、手軽に読むことができません。

そこで、「広島花幻忌の会」では、会員らが協力し、2011年に原民喜初期作品集「死と夢・幼年画」を自費出版しました。

 

原民喜は19歳で上京していますが、彼が幼年期を過ごしたのは、明治末期から大正時代にかけての広島。まだ城下町の情緒が色濃く残る、川と緑に囲まれた牧歌的な広島です。作品集は幻想的な短編を収めた『死と夢』、また川や山に囲まれた自然豊かな城下町での幼年期を生き生きと描いた短編集『幼年画』を収録しています。

まだ在庫がございますので、ご希望の方には送料込み1300円で販売しております。ご興味のある方は会まで是非ご連絡下さい。

 

 

 

③就労について

2019年、大学卒業直後のバイト先でのパワハラ・モラハラ・差別がきっかけとなり、働くための「第一歩」を踏み出せずにいました。

しかしながら、このままでは当然、現状が良くなることはありません。

 

そこで、まだ一般的な就労は困難ではありますが、その「第一歩」として、今月から就労継続支援B型事業所に通所し始めました。

 

事業所では、イラスト制作、動画編集、音楽制作、ハンドメイドなど、多種多様な作業をすることができ、現在僕は主に動画編集を行なっています。

 

そこで、スタッフさんや利用者さんが制作したハンドメイド作品やイラストなどをSNSで発信しているのですが、この度、その広報をするために事業所専用の個人アカウント(X(旧Twitter)、Instagram)を作りました。

 

X(旧Twitter)

https://x.com/DRP_Sunrise

 

Instagram

https://www.instagram.com/departure.sunrise?igsh=MTUzcGtpMHY5aG1iZA==

 

ぜひ、フォローの上、拡散お願いいたします。

 

 

 

長くなりましたが、以上近況報告でした。

 

いろいろありますが、一応、前に向かって進もうとしているところです。暖かく見守っていただければと思います。