ちょうど2ヶ月前の2021年9月27日、

 

「〈NHK〉2020応援ソングプロジェクト」による応援ソングの歌唱のために結成された混声ユニット「Foorin」が解散しました。

 

Foorinといえば、『パプリカ』ですよね!

 

 

以前からネット上でも話題になっていましたが、

この曲、

 

平和を祈って作られたと言われています。

 

 

 

作詞・作曲は米津玄師さん。

 

米津さんがセルフカバーしたバージョンのミュージックビデオが2019年8月9日に公開されました。

 

 

 

 

僕がまずこの曲を聴いた時に疑問に思ったのは、「そもそもなんで『パプリカ』という曲名なの?」ということでした。

 

「パプリカ」はピーマンに比べてサイズが大きくて肉厚で甘味もある植物です。

植物ですので、当然花があります。

「パプリカ」の花は、6月~10月頃に白くて小さな花を咲かせます。

また、花言葉は、「君を忘れない」。

 

このことを前提に、米津さんの『パプリカ』の歌詞を見てみましょう。

 

曲りくねり はしゃいだ道

青葉の森で 駆け回る

遊びまわり 日差しの街

誰かが 呼んでいる

 

夏が来る 影が立つ あなたに会いたい

見つけたのは いちばん星

明日も 晴れるかな

 

パプリカ 花が咲いたら

晴れた空に 種を蒔こう

ハレルヤ 夢を描いたなら

心遊ばせ あなたにとどけ

 

雨に燻り 月は陰り

木陰で泣いてたのは誰

一人一人 慰めるように

誰かが 呼んでいる

 

喜びを数えたら あなたでいっぱい

帰り道を 照らしたのは

思い出の かげぼうし

 

パプリカ 花が咲いたら

晴れた空に 種を蒔こう

ハレルヤ 夢を描いたなら

心遊ばせ あなたにとどけ

 

会いに行くよ 並木を抜けて

歌を歌って

手にはいっぱいの 花を抱えて

らるらりら

 

会いに行くよ 並木を抜けて

歌を歌って

手にはいっぱいの 花を抱えて

らるらりら

 

パプリカ 花が咲いたら

晴れた空に 種を蒔こう

ハレルヤ 夢を描いたなら

心遊ばせ あなたにとどけ

かかと 弾ませこの指とまれ

 

前述の通り、パプリカの花は夏に咲きます。

夏、特に8月は原爆が落とされた季節でもあります。

 

歌詞を書くとき、大事なところほど、あえて省略することがよくあります。

歌詞から、世界観を想像し、膨らませ、省略された言葉を考えてみましょう。

 

 

 

Bメロ

「夏が来る 影が立つ」

 

1945年当時の視点に立つと、このように想像できます。

「原爆が落とされる夏が来て、原爆が落とされ、熱線によって人影ができた。

その人影はあなた。

原爆によって亡くなり、一番星になったあなたに、明日もこうやって会えるかな…………」

 

サビも、言葉を補っていくと、

「パプリカ 花が咲いたら」→「パプリカの花が咲いたら、季節は夏。」

「晴れた空に種をまこう」→「空は全世界につながっている。晴れた空に、平和の種をまこう」

というように想像できます。

 

 

 

歌詞だけではなく、ミュージックビデオにも、秘密が隠されているようです。

 

米津玄師さんがセルフカバーしたバージョンのミュージックビデオを見てみると、女の子が2人、男の子が1人、計3人の子どもが登場します。

(米津玄師さん『パプリカ』ミュージックビデオのスクリーンショット)

 

 

実は、広島の平和記念公園にある「原爆の子の像」にも、3人の子どもの像がありまう。

中央に立っているのは金色の折鶴を掲げており、「平和な未来への夢を託す」という意味のある少女のブロンズ像。

そして、像の左右には、明るい未来と希望を象徴する少年少女の像。

 

ミュージックビデオに登場する子どもと「原爆の子の像」の子ども。

ここには、女の子が2人、男の子が1人という共通点があります。


 

 

「原爆の子の像」といえば、佐々木禎子さんです。

 

佐々木禎子さんについては、NHKが出版した『サダコ 「原爆の子の像」の物語』に詳しく書かれています。

 

佐々木禎子さんは、2歳の時に被爆。

奇跡的に無傷で、その後、運動神経抜群の少女に育ちました。小学校6年生の時にはリレーのアンカーも務めたほど。

しかし、小学校6年生の運動会も終わった10月。亜急性リンパ性白血病になり、入院生活を余儀なくされました。

原因は原爆による放射線。

中学生になっても、学校へ行くことができず、病院で闘病生活を送りました。

1955年10月25日の朝、容態が急変したとの知らせを受け、家族が病室に集まりました。

父の繁夫さんが何か食べるよう勧めると、禎子さんは「お茶漬が食べたい」と言いました。

大急ぎで準備をし、繁夫さんが一さじ食べさせました。

 

「おいしい」

 

それが最期の言葉でした。二口目を食べると眠るように息を引き取っていきました。

午前9時57分。12年という短い生涯に幕を閉じました。

 

禎子さんの死を悲しんだ同級生は、同じように若くして亡くなった多くの子どもたちのためにも、

募金活動をし、全国の中学校の校長先生にも呼びかけました。

 

そして、1958年5月5日、「原爆の子の像」が完成しました。

 

 

 

この話を念頭においてミュージックビデオを見てみましょう。

 

1番サビの終わり。

ミュージックビデオに登場する、赤いマントを着た少女が空を飛ぶシーン。

(米津玄師さん『パプリカ』ミュージックビデオのスクリーンショット)

 

女の子が大きく手を広げて空を飛んでおり、一緒に飛んでいるのは鶴です。

 

日本には古くから「鶴を千羽折れば、願いが叶う」という言い伝えがあり、

禎子さんはそれを信じ、「病気が治りますように」という願いを込め、

薬の包み紙や包装紙などでたくさんの鶴を折り続けました。

その数は正確にはわかりませんが、ご遺族の証言から、1300羽を超えると言われています(広島平和記念資料館による推測)。

 

「原爆の子の像」を囲むように、折り鶴を捧げるブースが設置されていますが、

そこには日本国内をはじめ世界各国から折り鶴が捧げられ、

その数は年間約1千万羽、重さにして約10トンにものぼります。

 

 

 

これだけではありません。

このミュージックビデオのYouTubeへの投稿日は、2019年8月9日です。

8月9日といえば、長崎に原爆が投下された日。

(米津玄師さん『パプリカ』ミュージックビデオのスクリーンショット)

 

ミュージックビデオに登場する街の景色は、坂も多く、山がちです。

長崎も坂が多く、山に囲まれています。

 

 

 

さらに、2番サビのシーンに出てくる花火。

(米津玄師さん『パプリカ』ミュージックビデオのスクリーンショット)

 

花火には「送り火」や「鎮魂」の意味もありますが、その形が彼岸花に似た形をしています。

彼岸花の花言葉は、「再会」や「悲しい思い出」です。

 

 

 

「原爆と繋げるのは、いくらなんでもこじつけじゃないの?」と思う方もいるかもしれません。

 

米津さんご本人は、あまり言及しておらず、むしろ「いろんな解釈があっていい」という考えのようですが、

この「パプリカ」という曲の制作の裏側をインタビューした記事があります。

 

 

 

『大人になればなるほど、今まで見てきたもの、理論的な思考回路に縛られてしまう感じがある』

『「普通そんなこと起こらない」って言ってしまう。本当は何でもやってもいいものに「それだとリアリティがない」とか「意味が通らない」って言ってしまう。そういうのって、危ういと思う』

 

つまりは、『想像する』ということ。

 

「平和」を語る上でも、「想像する」ということは、とても重要なことです。

「平和」をテーマにした音楽は数多くありますが、皆さんが1度は必ず聞いたことのあるような曲でも、

想像を膨らませていくと、意外なメッセージが込められていることがあります。

 

この「パプリカ」という曲も、「平和」への想いが隠れているのです。