ICAN(核兵器廃絶国際キャンペーン)国際運営委員、ピースボート共同代表の川崎哲さんが谷本清平和賞を受賞されました。

本日は、第33回谷本清平和賞贈呈式があり、出席してきました。

 

改めて、おめでとうございます。

 

 

 

さて、この平和賞の名前にもなっている谷本清ですが、みなさんはご存じでしょうか。

 

谷本清は、香川県坂出市出身の牧師です。

1909年、香川県坂出市の仏教徒の家に生まれた彼は、17歳の時にキリスト教徒となったのですが、仏教徒の家庭であることもあり、

父はそれを認めず、勘当の身となりました。

兄は彼を許し、韓国のソウルに招きました。1年後に帰国し、関西学院大学に入学、神学を学び、1934年に首席で卒業。

卒業後は、牧師になるため2年間修行し、1936年に鹿児島の教会牧師となりました。

その後、メソジスト教会による奨学金でジョージア州アトランタのエモリー大学に留学するため渡米。

1940年、大学院を修了し、翌年帰国。沖縄県那覇市で牧師を務め、1943年から広島の流川教会の牧師に就任しました。

 

1945年8月6日、谷本は友人の荷物を同じ屋敷に運ぶ手伝いをするため、爆心地から約3km離れたところにいました。

目的地に着いて庭先で休んでいた彼は、閃光を感じた直後、とっさに庭石の陰に隠れて爆風をやり過ごし、市街から立ち上る雲を見ました。

そして爆風でつぶれた家を後にして、教会があり妻子がいる市街中心に向かいました。

 

家族を捜すために街に戻ってきた谷本は、すれ違った人たちを助けられなかったことをとても悔やみました。と同時に、自分が目の当たりにした恐怖を伝えるために何かしなければならないと決意したのです。

 

エモリー大学時代の同級生のマービン・グリーン牧師が、広島への募金を集めるために手配したことで、エモリー大学とアメリカメソジスト教会外国伝道局の招請により渡米することになりました。

1948年10月から1949年12月まで、31州256都市を訪問し、教会や学校などで500回以上の講演を行いましたが、海外では「反核トラブルメーカー」、国内では「原爆牧師」と呼ばれ、非難されることも多くありました。

渡米中、核兵器が二度と使用されず、原爆による体験が国際研究の焦点になるような、「ヒロシマ・ピース・センター」のための覚書を起草。まさしく、今の「公益財団法人ヒロシマ・ピース・センター」のことです。1949年に設立された「ヒロシマ・ピース・センター」は、広く世界平和の運動を推進する母体として、1950年8月8日、財団法人として認可されました。

 

1982年に流川教会牧師を退任し、名誉牧師の称号を授与されました。

晩年は、広島市の外郭団体の広島平和文化センターの理事長などを歴任し、1986年に永眠。生前の功績を讃え、エモリー大学から故人としては異例となる名誉神学博士の称号を授与され、その式典には第39代アメリカ合衆国大統領のジミー・カーターも参列しました。

 

その翌年の1987年に、ヒロシマ・ピース・センターによって創設されたのが、この谷本清平和賞です。

 

 

 

実は、谷本清は、僕の母校であるエリザベト音楽大学とも関係のある人物です。

 

1945年8月6日、爆心地から約800mのところにあった広島流川教会は被爆。翌年から慈善音楽会を開き、人々を勇気づけ、癒やしました。

1947年5月、 谷本のもとに、留学時代の友人で米国シカゴの高校音楽教師となったリリアン・コンディットさんから葉書が届きました。「あなたのお役に立つようなものは何かあるかしら。お送りしますから言ってください。」との申し出に、教会員である太田司朗(音楽教師・声楽家)に相談し、「G.F.ヘンデルの『メサイア』の楽譜を送ってほしい」と答えました。その年の10月、ヘンデル「メサイア」の 楽譜30冊が届き、これを機に太田と谷本は聖歌隊を作り、被爆し会堂修復中の広島流川教会で、12月21日のクリスマス礼拝において、最初のメサイアが歌われました。

そして24日、広島市基督教総合会主催で、広島流川教会において第2回市民クリスマスが行われ、聖歌隊が「メサイア」の合唱を抜粋で演奏。その模様は、クリスマス特別番組『クリスマス音楽礼拝』として、NHKラジオで生放送されました。それ以来、今日まで被爆地ヒロシマで「メサイア」は歌い継がれています。

ちなみに、この時の合唱団の指導を太田司朗が担当しており、楽器を使わずに指導することもあったという記録が、谷本の日記に残っています。

 

一方で、幟町教会には、ベルギー人のイエズス会士であるエルネスト・ゴーセンスがいたのですが、当時のベルギーは敵国だったため、捕虜として捕まっていたため、原爆の被害を免れました。2年後、広島に戻ってきたゴーセンスは、原子爆弾による被害を目の当たりにし、心を痛め、どうにかして広島の人たちを癒してあげたいと考えました。神父であると同時にヴァイオリニストでもあった彼は、青少年に希望と励ましを、そして広島に文化の灯火をと、幟町教会の司祭館(司祭が寝泊まりする部屋)で小さな音楽教室を始めました。そこにはたちまち100人あまりが集まりました。

広島での音楽教育の必要性を感じたゴーセンスは、翌1948年、本格的な音楽学校、「広島音楽学校」を開設。その後、ベルギー国故エリザベト王妃を後援者としてその御名を賜り、1952年、エリザベト音楽短期大学となりました。以降、4年制大学、専攻科、大学院修士課程を有する大学へと発展し、1993年には私立音楽大学初の博士後期課程を設置しました。

 

広島音楽学校設立当初から、声楽を生徒に教えていた人物の1人が、太田司朗でした。太田は、平和公園の最北端、相生橋のたもとにある「平和の時計塔」から毎朝流れているチャイムのメロディーを作曲した人です。

このメロディーには、歌詞もついており、その作詞も太田司朗です。

 

平和の時計塔の歌

 

広島の平和の鐘

世界の果てまでも

鳴り響けよ 鳴り響け

 

谷本清と太田司朗。2人の功績は、広島の復興を支える柱の1つとなったことは紛れもない事実です。

2人は、音楽により「救い」を祈るだけでなく、音楽は平和の礎となると考え、音楽教育にも尽力を惜しまなかったのです。

 

 

 

今回の贈呈式に出席させていただき、改めてその想いを受け継ぎ、平和活動により一層力を入れていきたいと思いました。

 

川崎さん、改めて、谷本清平和賞受賞、おめでとうございます。