聖書の神(創造者)はその本質において愛の神です。
最初の人類をエデンの園に置かれた時、創造者は最初の人間アダムに対し、「園の真ん中にある木か食べてはならない。それを食べるなら人は死ぬからである」と述べておられたにもかかわらず、妻のエバはヘビ(サタン)に唆され、その実を食べてしまい、また夫アダムにもその実を勧めました。聖書は「アダムは欺かれませんでしたが、女(エバ)は全く欺かれて違犯に至った」(テモテ第一2:14)とあります。
しかし、この事は人類全体に大変な影響を及ぼす事になり、二人の子孫は皆この罪を受け継いでゆき、人は七、八十年でその寿命を終えななければなりません。
このブログの主題からは少し外れますが、本質が愛である創造者がどうして一本の木から実を取って食べた事で、死を宣告されなければならないのか、という疑問を持たれる事でしょう。
この疑問は多くの人が懐くことですが、しかしこれをしっかり理解してないと、死んで復活してきたとしても、また同じ罪を犯してしまうでしょう。
創造者はエデンの園に多くの植物を実らせ、アダムとエバにとっては何も不自由なことはなかったはずです。
その中に一本だけ食べてはならない「善悪の知識の木」を置きました。(実際はもう一本命の木もあり、これも又食べてはならないと言われましたが、これについてはこのブログのシリーズの終わり頃に説明します)
さて園の真ん中に置かれた「善悪の知識の木」は一体何のために創造者は置かれたのでしょうか。
これは人間にとって、その命、そしてその命を支えるたくさんの食物、人を楽しませる花や鳥の鳴き声、可愛らしい動物達、気持ちを爽やかにする水のせせらぎ、これら命を支え、人に喜びや楽しみを与えるすべての物は皆、創造者から与えられたものであり、被造物である人間は、まずは何をするにしても創造者に深い感謝と敬意を表すべき象徴として、置かれた木という事ができます。
残念ながら、アダムはその点で失敗しました。
創造者は人を規則で縛るような方ではありません。
人にあたえた規則はただ「二本の木から食べてはならない」というだけの規則です。
人は創造者から与えられた「愛」という特質を持って自分達で自由にルールを決める事ができました。
つまりアダムはつまり命や妻やあらゆるものを与えてくださった創造者の言葉より、与えてくれた妻の誘いの言葉を優先し、創造者の言葉に敬意を払いませんでした。
この時から人に罪が入り、人は皆利己的な傾向から逃れる事ができなくなったのです。
使徒パウロも「自分では正しいことを願うのに、悪が自分の内に悪がある」(ローマ7:21)ことを認めています。
皆さんはこの利己的な精神が、戦争や犯罪、多くの争いを引き起こし、その傾向が益々大きくなっている事にお気づきではないでしょうか。
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