聖書を注意深く読むと、エフェソス、コロサイこれらのパウロが会衆宛に送った手紙の冒頭に、パウロが二つのグループに挨拶を送っている事がわかります。

その一つは「聖なる者達」、そしてもう一つは「忠実な者達」です。

しかし今日の多くの教会ではこの区別はほとんどありません。

今日のキリスト教会では洗礼か浸礼(バプテスマ)を受ければ、皆「聖なる者」になったとされている様です。

 

しかし、一世紀の「聖なる者」と呼ばれた人たちは、はっきりとした聖霊を受け、特別な奇跡的な力を持つという特徴を持っていました。

また「忠実な者」とは「聖なる者」の上に神からの聖霊が働いていることを認め、彼らのもとに集まってきた人々を示しています。

コリント第一12章、14章では、預言をする者、異言を話す者、異言を翻訳する者、教える業を持つ者、強力な業を行う者、癒しの賜物を持つ者、指揮する能力を持つ者等、様々な奇跡の賜物を持つ者が居たことが述べられています。

 

しかしパウロは、こうした聖霊の強力な賜物より優ったものについて13章で述べ、それが「愛」という特質であることに注意を向けているのです。

13章はキリスト教徒が培わなければならない愛を具象化した、愛の示し方について述べています。

愛は辛抱強く、親切です。愛​は​ねたま​ず,自慢​せ​ず,思い上がら​ず, みだり​な​振る舞い​を​せ​ず,自分​の​利​を​求め​ず,刺激​さ​れ​て​も​いら立ち​ませ​ん。傷つけ​られ​て​も​それ​を​根​に​持た​ず, 不義​を​歓ば​ない​で,真実​な​こと​と​共​に​歓び​ます。 すべて​の​事​に​耐え,すべて​の​事​を​信じ,すべて​の​事​を​希望​し,すべて​の​事​を​忍耐​し​ます。

(4〜7節)

 

又、この章の8節で「預言の賜物も異言の賜物も、それは廃される」とあります。

そして13節で「しかし信仰、希望、愛は残ります」とあります。

上記のことは、現在のキリスト教会の中に、奇跡の賜物を持つものはもう出ないと結論づけるものなのでしょうか。

 

このコリント13章は今日の体制の終わり以後、つまり「千年王国」からのことを述べているのであり、キリストとその仲間が支配する時代には、その様な奇跡の業は必要ないからです。

事実ルカ21:15/黙示録11:6を読むと「終わりの日」にも奇跡の力を持つ「聖なる者」が現れる事が記されています。

今日にキリスト教のどの組織を見ても、その様な奇跡を行う人達は見当たりません。

 

世界の中には異言を話す人が教会の中にいて、自分たちは確かに聖霊を受けていると主張するかもしれませんが、そうした異言は誰も翻訳できませんし、何も意味もありません。

中には、先程の聖句の「それは廃される」のこのところを強調し、奇跡的な力は与えられなくなったが、自分たちは確かに「約束の聖霊」を受けたと主張し、それは自分達の思いの中で働いていると主張する組織もあります。

 

しかし聖書を読むと聖霊は人にわからない様に働いたことはなく、モーセがイスラエルの指導者に任命された事が人々に分かる様に聖霊によって奇跡を起こす力を与えました。

ソロモンが神殿を築き、神に献納の祈りを捧げている時、天から火が降り祭壇の捧げ物を焼き尽くし、神がそれを是認したことを明らかにしました。

一世紀のペンテコステの日に、キリストを信じ集まっていた120人程の信者に舌のような形をした聖霊が降り、彼らは急に異国の言葉で語り始め、祭りのためにエルサレムに集まっていた諸国の人々に、彼らの国語で証言した事が記されています。

上記の記述は、「約束の聖霊」は人にハッキリと分かる様に働く事を示しています。

 

もともと教会とか会衆と訳されている元のギリシャ語はエクレシアですが、この言語の意味には「召された者」という意味があり、これは聖霊を受けた者(聖なる者)を表しているのです。

この「聖なる者」が居ないのであれば、それは神の組織とは言えないのです。

私の知る限り、未だこの地上に神の組織は出現していません。

今日の世界情勢を見るならば、終わり日は近いと考えられますが、私達は聖霊が降り「聖なる者」が現れるのを待つ事が必要でしょう。

ヨハネ14:26には「父が私の名によって遣わしてくださる助け手、つまり聖霊のことですが、その者はあなた方に全てのことを教え、私が告げた全ての事柄を思い起こさせるでしょう」と記されています。

それまで聖書を注意深く読むように心掛けて下さい。

 

 

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