1世紀キリストの復活後、弟子達に約束された聖霊が降り、弟子のパウロはイスラエルを離れて、今のトルコ、テサロニケ地方、ギリシャ、別の弟子はバビロニア地方まで伝道活動を行っています。

 

伝道の対象者は初めは各地に住むイスラエル人を対象に行われたものですが、そのうち聖霊は異邦人達にも伝道を行うよう彼らを促します。

 

こうして異邦人への伝導も活発になり、彼らの内からも信仰を示す人々が出て来て彼らにバプテスマを施すと彼等にも聖霊が降るようになります。

 

彼らは自分達の住む場所の近くに仲間と集まる場所を作り、これがエクレシア(会衆、教会)とよばれるようになりました。

当時のエクレシアは聖霊を注がれた者たちとキリスト教に関心ある人々(信者)からなっていました。

 

こうした状況下でユダヤ人と他国の信者との間にある問題が生じたのです。

それは割礼の問題でユダヤ人の信者は、他の国の人が信者となるなら、彼らも割礼を受けるべきと主張し始めたのです。

 

現代人の私たちにとって、何故そのような事にこだわるのか、思われるかもしれませんが、イスラエル人の男子にとっておよそ2000年の間行われて来た割礼は、

神から特別に選ばれた印としての誇りであり、当たり前の習慣となっていたのです。

 

ユダヤ人はイエスによって古い律法からは解かれたとはいえ、この習慣は神に仕えるならこれは誰であっても守るべきものと主張しました。

 

この割礼の問題がユダヤ人と非ユダヤ人の間で大きな問題となってきたので、エルサレムにパウロやペテロ、そして主だった人々が集まり、この問題を考慮しました。

 

パウロやペテロの証言から、無割礼の人々にも聖霊が降った事は、神のご意志あることを皆が認め、新しい契約の下でイエスの弟子になる人々には割礼は必要ない事が決められて、この事は各地の会衆に知らされました。

 

ものみの塔の幹部たちはこの事例に倣って、エホバの証人の決定機関、すなわち統治体は決定機関として正当であると主張しています。

この主張は聖書の記述からみて正当性がありますか。

 

まずこの様な会合は聖書には一度だけしかありません。

各地の会衆への指示(手紙)はいくつか聖書には記されていますが、それはどこから送られて来ましたか。

 

その多くが各地に散って伝道していた使徒やその仲間が現地から送っています。

手紙に書かれた指示が、エルサレムで集まって検討された様子はありません。

 

聖書にはこうあります。「すなわち​真理​の​霊​が​到来​する​とき,あなた方​を​真理​の​全体​へ​と​案内​する​でしょ​う。彼​は​自分​の​衝動​で​話す​の​で​は​なく,すべて​自分​が​聞く​事柄​を​話し,来たら​ん​と​する​事柄​を​あなた方​に​告げ知らせる​から​です」。(ヨハネ16:13)

 

イエスが約束された聖霊は西暦33年以降、12使徒や主だった信者に降り、彼らは地方にいてもこの聖霊を通して理解が与えられ、その地から其々が手紙を書いて各地の会衆に送っています。

これは1世紀当時に統治体と言った管理監督する様なものはなかったことを意味します。

 

まして今日の統治体と名乗る人々は、自分達は油注がれた「聖なる者」であると主張します。

「聖なる者」の身分証明書は聖霊による奇跡です。

彼らにはそれがありません。

 

彼らの言い訳はコリント13:8の聖句「愛​は​決して​絶え​ませ​ん。それ​に​対し,預言[の​賜物]が​あっ​て​も,それ​は​廃さ​れ,異言​が​あっ​て​も,それ​は​やみ,知識​が​あっ​て​も,それ​は​廃さ​れ​ます。」と主張します。

 

この聖句で奇跡の賜物が彼らから除かれるのは、王国の支配が始まってからのことであり、ルカ21:15や啓示11:6に終末に奇跡の業を起こす事が記されています。

 

新約聖書を注意深く読むと、聖霊による奇跡が大きな働きを成している事がわかります。

もともと新約聖書は「聖徒」に対し書かれたのであり、彼らは創世記3:15に書かれている女の裔(キリスト)共に働く副次的な女の裔でもあるのです。

 

世界中の聖書研究者が誰も解明できなかった黙示録

をあらゆる聖句の整合性もって解明。

新刊本 「再臨するキリスト」下のURLからどうぞ

 

https://www.amazon.co.jp/dp/B0B5KQMWD7