迷走するサッカー解説~気持ちの問題って、んなわけないだろう・編~ | 白帯以前素人による「なんちゃってテコン島」

白帯以前素人による「なんちゃってテコン島」

独習しているテコンドーや子育てその他感じた事等駄弁を色々書きます。

 ヘローです。


 サッカーW杯始まりましたね。


でもって日本負けちゃいましたね、残念。


 しかし、あっしの立場としちゃ、勝ち負け以前に、


前回に苦言を呈したように、


「サッカーお祭り報道」には満腹なクチですから、


このシーズン少々キツイんですわ。



 で、その覚悟していた「騒ぎ」はまあ、我慢できるとして、


今回、日本が負けたお蔭で、「そう言えば……」と、


これまた以前から感じていたサムシングが一つ頭に


去来した、と。


 それはね、試合後の解説。


今回敗戦後にお昼の番組をいろいろ観る機会が


あったのだけど、いわゆるプロ出身の人が


いわゆる「気持ちの問題」みたいな解説に終始してるのに


気がついたわけ。


 それも一人や二人じゃない。



でも、こんな光景は今回が初めてじゃないんですな。


よくよく考えると、98年のフランスW杯で日本の予選敗退が


決まった時に、NHKだかなんだかで前代表の


ラモスが「愛国心が足りない!」みたいな事をホザイてから、


多少の差はあれ「ズーッと技術より精神論」ばっか、


大きなサッカー大会の度に聞かされてきた気がするんですな。


そんなこんなを思い出しつつ、今更ジロー(死語)ながら、


そうか、あっしとサッカーとの違和感は


こんなところに端を発してたのかもしれないと


妙な納得をしてしやいやした。


  あっしらの世代からすると、「W杯サッカー」なんていうのは、


大人になって、社会人になって突然出現した、


いわば「黒船」みたいなもの。



あっしらの世代はやっぱり野球だもの。


野球と言えば、そりゃアアタ、


中々簡単にはいきませんで。


打った、投げた、取った、ちゅうだけの


「土方のスポーツ(つかこうへい評)」とちゃいまんがな。



 ピッチャーとバッターの駆け引きだけに留まらず、


監督の戦略や選手同士の微妙な関係なんかも、


関わってくる、いわば組織論に根差した深いスポーツなんどす。


 そいだから試合の場面、場面でやる方だけでなく、


観る方にだってそれ相応の知識が要求される、


高度なスポーツなんどす(ナンチャッテ)。



とまあ、こんなカンジですから、昔も今も(多分)、


野球関係の評論や深読み思考は新聞、雑誌、TV、書籍と


メディア中に溢れかえってんですな。



 野球ファンはその中で揉まれて育っていきますから、


中級程度以上のファンが皆それなりに一家言持ってる、と。



 そんなファンに囲まれた野球選手たちがですよ、


例えば、日本シリーズ第一戦に負けたチームの、


主力がですよ、


「相手をリスペクトし過ぎたために負けた」とかぬかしたら、


アアタ、聞いた方は皆、ドリフのズッコケ(古)ですよ。


 解説だってね、例えば、プロ野球ニュースなんかで、


元野球選手が出てくればね口の上手い下手は関係なく、


素人を唸らせてくれる解説の一つ、二つはきちんと、


プロらしくやってくれますよ。



 しかし、サッカーは違うんですな。


敗因は、


「気持ちが下がった」とか、


「前を向けなかった」とか、


「いつものサッカーじゃなかった」とか。



だから、勝つためには、


「前を向け」、


「自分たちを信じろ」、とか、


「日本のサッカーをやれば勝てる」とか、


これ、全部元プロサッカー選手の言葉だからね。


はっきり言って、「なんじゃそれ」ばっかな解説ですよ。



思わず言いたくなりますよ、


おいおい、中学校の部活じゃねーぞ。



 プロの試合の解説をTVで大の大人が、


皆で「3年B組金八先生(古)」やってどうすんだ、と。



 でね、では、サッカー評論てすべてそんなカンジなの?


とくればね、勿論中には違う人もいる。



 ネットなんかでもよく探せば出てくるんだな、今回も。


ちゃんとプロの視点で書かれた分析が。



例えば、「日本のサッカーをやったのなら勝てたのでなくて、


相手が日本のサッカーを封じた」理由をちゃんと分析してたり。



ところが、こういうプロの解説がけっして、


「メジャー電波」に乗らないのが正にサッカーの7不思議(でも後6つは知らないんだが)。



とにかく、こんな「サッカー報道」に満腹しながら、


ふと、



「精神論、気持ちの問題……それでいて全国中で熱狂が起こる」


なんて事を考えると、あっしとしては嫌なことを思い出しちゃう。


思い出しちゃうなんて言っても、ホントは「経験」してないんだけど。


だって生まれてないから。


こう書くと、


 では、「お前さんが何を思い出してるんだ?」とお思いの方も


多くいらっしゃるとは思いますが、


あっしが思い出しているのが、「ある知識」。



 それは何かと言いますと、


「セ・ン・ゼ・ン、セ・ン・チュ・ウのニッポン!」。


とは言うもの、


  おおっと、考えすぎか、とすぐに自分に突っ込みは


入れてはいるんですがね。


  サッカーはサッカーなんだから、と。


 でもさ、サッカーと離れても、


そんな「全体主義の雰囲気」は、


今あちらこちらに感じられないですかね。



 それも考えすぎならエエんですが。



と、ここまで書くと、また、


「で、オメエは今日何が言いたいんだ?」と


お思いの方も多くいらっしゃるとは思いますが、


あっしの言いたい事はズバリ、



「日本を取り戻したい!」



おーっ、とこれじゃ誰かの台詞といっしょじゃんか!



パクリになるのかどうか知りやせんが、



 本当にホンネだったり、ナンチャッテ。



だってね、あっしが青春期だった70年代から90年代の、


あの「ちょっといいカンジの日本」は、


こんな「精神論が跋扈する国」じゃなかったもの。



 そんな「精神論を冷めて分析する目」がマスコミにも


どこそこにもあったしね。



ただでさえ、「和の国」で反対意見が言いづらい雰囲気を、


「世界の中の日本」という意識を基盤に、


少数意見を拾おうとする意識が教育の現場にもあっんだよ。



 あっしはそんな中学校、高校の先生をよく覚えてまっさ。



 ところが、最近息子の中学校の雰囲気や先生の意見なんて


聞くとさ、どうも違う気が。


  徹底した全体主義で個人の意見が言える雰囲気じゃない。



 



 国と違えど民族を違えど、


兎に角どこの世界でも全体主義を支えるのは


「精神論」だけなんだな。これは人類共通の普遍の法則。



 そんな「精神論」の温床となるのは、


「依頼心」なんですよ。例えば、


「先生の言う事を聞けばOK」


「親の言う事を聞けばOK」、


 そして最後は「自分で考えなくてもOK」というそれね。



でも、実際は、「考える子供を育てる」なんてのは容易じゃない。


目の覚めるような方法論があるわけでもない。



 でもね、あっしは思うんですよ。


少なくとも子供に接する大人たちの多くが、合理的な判断をし、


合理的な意見を吐くことに努めれば、


案外上手くいくんじゃないかって。


 子供たちから見れば、TVやネットでの「大人の意見」てのも、


十分に「先生たるもの」なんですよ、きっと。



そうなのに、そこで観た大人が「精神論」ばっかじゃ、


子供が合理的な思考を持つなんて不可能でしょ。



 と、またまた訳のわからない長文の苦言オブ駄弁を呈した


あっし。


 それでは、先日の日本対コードジボワール戦の時、


サッカーにまるで興味のない息子に何を言ったかと言うと、



「おいこら、暇あるとゲームばっかしやがって。W杯のサッカー


ぐらいこっちで一緒に観たらどうだ、今日本中が観てんだぞ」。



 何とも我ながら情けない「全体主義への好アシスト」ぶり


を発揮していた次第。


 ああ、哀しい現実よ。


  人生はかくも虚しく難しいものという事でアイ失礼。


ではでは。