講演「学道論」

 

8月12日(火)徳島阿波踊り〜15日。

 

講演「学道論」を紹介しています。本講演は森先生が建国大学(満州)に赴任した年(44歳)、昭和14年12月25日に愛知県幡豆郡横須賀小学校で開催されたものです。本日は「真の化他の行は、他へ向かうことでなく内へ向かう」と説いています。

 

化他のはたらきは自己の内面を深める

 

化他も自証の内面に在る時、化他のはたらきは初めて本質的となる。そこで真の化他の行は他へ向かうことでなくして、実は内へ向かうことであります。之を他へ向うと見るのは、それは外から見るからであって、化他のはたらきそのものが、実は自証者自身がさらに一歩を自己の内面に深めるはたらきであります。

 

もしこの消息が分からないならば、教育というも実はお節介に堕するのであります。即ちそこに自己生命の分裂が起るのであります。すべての教育者、宗教家というような教化の道に携わる者の最も警(いまし)むべき危険は、実はこの一点に存すると思うのであります。

 

化他の行が自証のさらに一段の内展としてはたらく時、そこに初めて教育教化は行われるのであります。今このことを具体的に申せば、教師は只教えるというだけでなくして、生徒から学ぶところがなくてはならぬということであります。

 

私どものように、多くの立派な方を相手として話をするという場合には、常に聴衆の方によって自分が教えられるということを心中常に忘れぬということであります。即ち基準を聴衆の裡に求めて、その基準に照らして自己を見てゆく。

 

自分の考えが聴衆の本心に果たしてどの程度に契合し得るかどうかと考えゆくということであります。かくして、初めて外形においては化他と見えるものも、自証者自身においては、自証の更に一段の深化となるわけであります。

 

この一点を踏み違えますと、なまじいに教育とか、宗教というような教化の行に従事することが、却って普通の俗事に従っている以上、その精神的堕落を招く危険があると思う次第であります。

 

講演「学道論」

 

8月11日(月)山の日。

 

講演「学道論」を紹介しています。本講演は森先生が建国大学(満州)に赴任した年(44歳)、昭和14年12月25日に愛知県幡豆郡横須賀小学校で開催されたものです。本日は「自証と化他」を政治なら、己を修める深さと拡がりが、自ら治人の結果を生むと説いています。

 

教育のはたらきは自証の拡大深化

 

自分の松明に火がついたからとて、その火を近くの松明に移さなければならぬということはない。それは物好きだと思われる方があるかも知れません。しかしそれは概念で考えるからであります。今闇の中を一隊の軍隊が進むという場合、あやめもわからぬ道である。その所々に溝もあり、壊れかかった橋もある。

 

この時民家から狩り集めて10本の松明を得たとしたとき、ただ一本に火を点じただけで、余りは火を点ぜずに置けるものでありましょうか。問題を現実にもってくれば、先ほどのような戯論は一瞬にして消え去るのであります。

 

闇を照らさずには置けない絶対必至の現実に当面するならば、点さずにはおれない訳であります。それ故この必然性、必至性のわからぬということは、結局自らの闇を知らないからであります。更に突きつめて申せば、自らの松明に火が点いていないからであります。

 

そこで化他の行としての教育のはたらきは、結局は自証の拡大深化のほかないのであります。そもそも自証の立場から化他の立場へ転ずるということは、実は外側から他人の見た沙汰であります。今如実に自証の立場に立てば、ただ自証の深化拡大あるのみであります。

 

それ故先に二段階あると申したのは実は便宜のため、方便として申したに過ぎないのであります。さて、この問題を政治の上で申しますと、所謂修己治人の問題になるのであります。今現象的時間の展開からいえば、己を修めて然る後人を治めるのであります。

 

しかし内面の本質の立場から申せば、真の治人は実は修己の中に包摂されるのであります。即ち己を修めることの深さと拡がりとが、自ら治人の結果を生むのであります。自証の中に包摂された自証と化他との関係、即ち自証から化他に向かう関係、これを真の慈悲心と呼ぶのであります。

人生は50代で必ず好転する

 

8月9日(土)高知よさこい祭り〜12日。

 

人間の幸福感は年齢に影響され、40〜50代前半はわけもなく谷底に落ち込みやすい。そうした中年期特有の幸福感の低下、スランプから脱出する方法を解説するのが「ハピネス・カーブ」(ジョナサン・ラウシュ著、多賀谷正子訳、 CCCメディアハウス、2019年発行)。著者はブルッキング研究所シニアフェロー、ジャーナリスト。

 

年齢は幸福度と明らかに関係がある

 

中年の危機を自分でも経験した私が最も知りたかったことは、年齢そのものが明らかに幸福度に影響を与えるのかどうかである。答えは「イエス」である。ギャラップ調査は160カ国以上で行われ、世界人口の99%の意思を測定できると言われている。

 

そのデータから年齢と生活満足度との関係を示すグラフは「U字曲線」(ハピネス・カーブ)を描いている。年齢が幸福度と明らかに関係があることが分かったのである。「ハピネス・カーブ」は、中年期に満足感を得ることは、他の時期に比べると難しいということである。

 

「ハピネス・カーブ」について、ドイツのエコノミスト、へネス・シュワントも、あるグループの13年にわたる追跡調査から、「年齢と幸福度との関係を示す『U字曲線』は、将来に対する期待と関係がある」という研究報告を発表している。

 

このシュワントの報告書でも、生活満足度のグラフはU字曲線になり、最も低くなるところは50歳前後になっている。若者は常に将来の満足度を過大評価するが、時が経つにつれ過大な期待は消えていく。何度も失望感を味わうことで期待値が下がるのだろう。

 

50代を見ると、ここでU字曲線は上向きに転じ、期待値と実際の満足度との差が少なくなる。さらに、それ以降の生活満足度は高くなっていく。人生の前半は期待値を高くしすぎて大きな失望感を味わうが、人生の後半ではそれもなくなり、流れが変わるのだ。

 

研究を続けていくうちに、歳をとると「精神面も肉体面も衰えていく」という考えは正しくないということが分かった。たとえば、50代〜70代の人のストレスは、年齢と共に減っていき、感情のコントロールもうまくなるのである。

 

歳を重ねると、落ち込んだ時や不運な出来事か起こった時の対処の仕方がうまくなる。うつ病については間違った固定観念があるが、精神科医のダン・G・プレイザーの調査では、高齢者のかかる割合は1年間で1〜4%程度と低い。

 

今のことだけを考える!

 

幸福の経済学者として著名なジョン・ヘリウエルは述べている。「ストレスを感じるような物事が集中するのが中年期。生活の中でのストレスが軽減していくと、主観的満足感が増していくという証拠もあります。年齢が上がると、悪い出来事もそれなりに意味があると考えられるようになったり、いい出来事を大切にすることができるようになったりします。」

 

中年期のスランプから自力で抜け出す方法には、次のようなものがある。悩みの最大の要因は、他人と自分を比較することである。幸福になる秘訣は、自分より成功している人と比較しないこと。だが、これがなかなか難しい。私は「比べない!」と呪文を唱えた。

 

「マインドフルネス」は「今のことだけを考える」ことである。先のことを期待したり、過去のことを再評価したりしないことを意味する。この状態を保つために行われてきた方法が「瞑想」である。雑念を捨て、目の前のことに意識を向ける。不安感が減り、ポジティブな感情が増すという。

 

リストラされた時などのつらい時期を1人で乗り切るのはよくない。人間は本能的に誰かに助けを求めるものだ。1人で抱え込まずカウンセリングでもセラピーでもいい。「カウンセリングは、自分自身について学びにいくようなものだ」という。

 

「必ず上向く日がやってくる」と思うことが、何よりも大切な知恵だが、「待つ」というのは何よりも難しい。最善の道は、そこを通り抜けることだ。多くの人にとって、中年期のスランプは厄介なものだが、深い傷を残すような悲惨なものではない。(T OPPOINTから抜粋)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

講演「学道論」

 

8月8日(金)

 

講演「学道論」を紹介しています。本講演は森先生が建国大学(満州)に赴任した年(44歳)、昭和14年12月25日に愛知県幡豆郡横須賀小学校で開催されたものです。本日は志を立てさせるには、教師自身が松明の火を点さなければならない。いわゆる「自証」と「化他」に入っていきます。

 

松明に火を点ずるには松明の火が必要

 

その根本の一点を衝かない限り、如何にお節介してみても、こちらを押せば向こうが飛び出し、あちらをつくろえば向こうが綻びるという調子で、結局モチャモチャしている間に時間が経って卒業となるのであります。

 

ところが、この志を立てさすに一番大事なことがこれまた唯一つしかないのであります。それはこちらがまず志を発することであり、道を求めるということであります。これも実に明白なことであります。松明に火を点ずるに必要なことは唯一つであります。

 

それは、こちらも自分の松明に火を点じているということであります。何が必要といっても、松明に火を点すには火のついた松明をもって行く以外に途はないのであります。その問題の前には正宗の名刀も菜切包丁と選ぶところなく、金剛石も路傍の小石と何ら異なる所はない訳であります。

 

事実松明に火を点ずるには燐寸では困難であります。また蝋燭でも容易ではありません。時には怪我の功名で点く場合もあります。そうしてまたそこに教育の面白味もありますが、根本的に申せば松明に火を点ずるのは結局松明の火を移すということでなければなりません。

 

さて松明に火を点けるに当っては、そこに二つの段階が必要となるでありましょう。第一はまずこちらの松明に火をつけるということであり、次には火のついたこちらの松明を向こうに持って行って先方の松明に点けるということであります。

 

これ即ち自証と化他の二段階であります。即ち先ず自ら明らかにするということと、明らかにしたものを更に相手に伝えるという二段階であります。本当に火が点いたら近くに松明のある限り、それに火を点けずにはいられないのであります。

講演「学道論」

 

8月7日(木)立秋。

 

講演「学道論」を紹介しています。本講演は森先生が建国大学(満州)に赴任した年(44歳)、昭和14年12月25日に愛知県幡豆郡横須賀小学校で開催されたものです。本日は教育の本質は志を立て、求道心を発することにあると説いています。

 

松明は火を点じて闇を照らす

 

さて、無上ということは唯一ということであります。志を立てさせ、求道心を発(おこ)さすということは、比較上最も大切なことであるのみならず、真に活眼を開いて見ればそれ以外に為すべきことはないのであります。

 

それ以外に為すべきことはないというのは、それ以外のことは皆この一事に裏付けられて、はじめて真の意味を将来するからであります。なるほど松明をほどいて、便宜的にこれを折って箸に使って使えぬこともないでしょう。

 

しかし、それは已むを得ざる場合のことであって、決して松明の正しき用法とはいえません。或いは松明をほどいて筆の軸とする、それも使って使えぬことはないかも知れませんが、しかし正しからざる用法たることにおいて前者と異なるものでありません。

 

松明の正しき用法はただ一つ、火を点じて周囲の闇を照らすほかないのであります。同様に今人間教育において、諸々の面が現象の眼に映じはしますが、しかし一番本格の道は、立志すなわち求道の心を発さすほかはないのであります。

 

この一点が明確に見えて来ない限り、たとい幾十年教育致しましても、結局それは現象虚仮(こけ)の営みに止まるのであります。それは丁度松明にさわって見たり、松明に雑巾をかけて見たりする程度のことであります。松明に対して為さるべきただ一つのことは、火を点ずるということだけであります。

 

同様に人間教育に当たって唯一の根本問題は、結局その眠れる魂を呼び覚ます外ないのであります。そえさえすれば、他の事は何もこちらでお節介しないでも、向こうで着々とやって来るのであります。

 

講演「学道論」

 

8月6日(水)夏の土用明け。仙台七夕まつり〜8日。

 

講演「学道論」を紹介しています。本講演は森先生が建国大学(満州)に赴任した年(44歳)、昭和14年12月25日に愛知県幡豆郡横須賀小学校で開催されたものです。本日は一般教育では志を立てることから出発するほかはないと述べています。

 

「無上」は内容的にいえば「無私」

 

相手の資質が各種各様である今日の一般教育では、先ず志を立てさすという程度で出発するほかはないと思うのであります。教育の根本題目はどうしてもこの立志ということのほかには無い。

 

それは丁度松明というものは、結局火を点けるほかこれに対する本当の態度はないということと等しいのであります。実際松明に対して一番正しく同時にまた唯一の道は、火を灯して周囲の闇を照らすということのほかはないのであります。

 

一番よい、と申しますのは相対の面から言うたことであり、唯一の、と申しますのは絶対の面から申すことであります。したがって一番よいというだけでは只比較の上での最上というだけで、最後の止めが刺さらないのであります。

 

かくして真の最上は、同時に無上でなくてはならぬのであります。最上は比較相対の上での絶頂であり、無上は比較を絶した上に開かれる世界であります。無上はこれを内容的にいえば無私ということになるでありましょう。

 

仏教は相対棄却の道でありますから、必ず一度ひっくり返してその内容を自ら入れて見ないことには、ともすれば空語に終わるのであります。言葉が超絶しているだけ、それだけうっかりすると内容空疎になる危険があるのであります。

 

同時に儒教は内容的な教えであるだけに、よほど気をつけて努力しても、なお相対超絶の一境が捉えにくいのであります。そこで支那でも、孔孟の儒教だけではとかく最後のかきがねが外れ難い処から、仏教と相通ずる老荘の教というものがその背後を裏づけて用いられる次第であります。

 

講演「学道論」

 

8月5日(火)山縣花笠まつり〜7日。

 

講演「学道論」を紹介しています。本講演は森先生が建国大学(満州)に赴任した年(44歳)、昭和14年12月25日に愛知県幡豆郡横須賀小学校で開催されたものです。本日は青少年には立志、三十がらみにはやはり求道心がふさわしいと説いています。

 

立志と求道の違い

 

さて、立志と求道心ということの関係は根本において同じものでありますが、しかしまたそこには多少趣の相違があるとも言えましょう。すでに求道心と申します以上、そこには絶対としての道を求めるということが自覚せられるのであります。

 

つまり自覚的に本腰を決めて絶対の生命を求めるということであります。それに対して立志という場合には、なるほどそこには絶対を求めるということが内在してはおりますが、それが必ずしも自覚的に目覚めていなければならぬということは無いのであります。即ち必ずそれを条件とすると迄は到らないのであります。

 

ではこの相違はどこから来るかと申しますと、結局それは仏教と儒教との建前の相違から来るというべきでありましょう。つまり仏教というものは、一切の相対を捨離して本腰になって道を求めるものであります。

 

これは釈尊のご生涯そのものが如実にこれを物語っているのであります。これに対して儒教の立場は、日常人倫の中におのずから絶対の生命を内含せしむるものであります。そこに互いに特色を持ちつつ、相互にその長短を異にするわけであります。

 

そこで青少年に対しては発菩提心を教えるよりも、やはり立志と教える方が大体においては相応しいでありましょう。同時に三十搦(がらみ)になった人々には、立志というのではもう一つ足りない感じがする。足らない訳ではありませんが、立志と求道心とを並べて見ますと、やはり求道心という方がより相応しくなるのであります。

 

もちろん青少年と雖も、その資質にして真に卓越絶倫なる者ならば、最初から求道心でぶつかって行ってもよい場合もありましょう。しかし賢愚をあわせて一人も漏らすことなき国民教育においては、最初から求道心でゆくということは、多少無理であろうかと思います。

講演「学道論」

 

8月4日(月)

 

講演「学道論」を紹介しています。本講演は森先生が建国大学(満州)に赴任した年(44歳)、昭和14年12月25日に愛知県幡豆郡横須賀小学校で開催されたものです。本日は求道心との関係で、大阪時代の「修身教授録」の根幹は「立志」の一事に尽きると述べています。

 

根本は求道心というほかはない

 

豚の食物にたとえてはひどいようでありますが、真の人生に貢献するという点からは、求道心を持たない人の仕事はそういう間接性をもつと思うのであります。生の甘薯を食べて育った豚の肉が、人間の口に入る、――そういう関係性をもって役に立つのであります。

 

今こう考えてくれば世上一物として無駄なものはない訳であります。しかも大切なことは、斯様に求道心をもたない人のはたらきも、間接には凡て意味ありとする一切肯定の知見そのものが、実は求道心によって初めて開かれるということであります。

 

即ち一切の相対的仮幻を捨て去って求道の一路に徹することにより、却って真に一切を包摂する世界が開かれるのであります。ここに道の妙功徳力というものがあると思うのであります。して見ると、やはり根本は求道心というほかはない訳であります。

 

今回芦田先生のご懇情によりまして書物にして頂くことになった私の大阪時代の修身教授の記録は、実は内容としては極めて簡単なものでありまして、成程その題目は色々と変わっておりますが、その根幹を為すものは、結局は立志という一事に尽きるのであります。

 

即ち求道心の一語に帰着するのであります。色々と題目の変わりますのは、生徒の心の松明に火をつけるに当たって、こちらの側から手をさしのべても、あちらの側からつけてみても仲々手応えがはっきりしない為に、たった一つの事を目指しつつ、つい堂々廻りをした謂わばその足跡というものであります。

 

随って根本の一点に至っては畢竟意志を立てさすという一事の外ないのであります。「修身教授録」についてもよく何年生の分と何年生の分とがあるか、というお尋ねを受けるのでありますが、それを聞かれるたびに心中ひやりとするのであります。志を立てさすということ以外には何も狙っておりませんから、学年は違っても程度の差はないのであります。

限りある時間を後悔なく生きよう 

 

8月2日(土)青森ねぶた祭〜7日。

 

中年以降は、高度なスキルを持つ人ほど、成果も幸福度も落ち込む。その原因を解説すると共に、年齢を重ねると向上する知識・スキルを紹介し、人生後半を幸せに生きる秘訣を解説したのが「人生後半の戦略書」(アーサー・C・ブルックス著、木村千里訳、 ソフトバンククリエティブ、2023年発行)。

 

「流動性知能」と「結晶性知能」

 

2012年、私は順調な人生を送っていた。一流のシンクタンクの会長で、業績は上々。講演をすれば人が集まるし、数冊ある著書はベストセラー。でも、幸福ではなかった。なぜか?その答えを求めて9年間、多種多様な文献を調査し、「ストライバー」の研究に没頭した。

 

仕事で成功を収めた人の多くは、中年期に入るとキャリアの落ち込みに怯え、人間関係の希薄さに悩み始める。このような密かな苦悩を「ストライバーの呪い」と呼びたい。では、なぜこのような下降が始まるのだろうか?

 

有力な説として、中年期に入ると脳の組織が変化し、特に前頭前皮質(額の裏側に位置する部位)でワーキングメモリーや実行機能などを担う中枢機関の働きが落ち始めるからである。そのため、素早い分析や創造的な発明、マルチタスク処理などが以前より困難になる。

 

心理学者のレイモンド・キャッテルは、「人には2種類の知能が備わっており、各知能がピークを迎える時期は異なる」(1971年)と提唱したのである。1つ目の知識が「流動性知能」。推論力、柔軟な思考力、新しい問題の解決力で、30代〜40代に低下し始める。

 

もう1つが「結晶性知能」である。これは過去に学んだ知識の蓄えを活用する能力で、50代、60代と年齢を経るほどに向上していく。若い時は地頭に恵まれ、歳をとったら意味や使い方の知恵に恵まれるという発見である。

 

「流動性知能」の落ち込みを経験しているなら、「結晶性知能」へ飛び移る時がきたということである。50代〜70代で大きな幸福感、満足感を抱いている人たちは、例外なく「結晶性知能」を活かせる仕事(たとえば教育者など)へ飛び移った人たちである。

 

人間は単独の存在のようでありながら、実際には家族、地域社会、国など、1つの大きな根系を形成している。にもかかわらず、多くのストライバーが「1人で生きている」という幻想で成人期を過ごし、今になりその結果に苦しんでいる。特にトップに立つ人が孤独なのは、立場上、職場で深い人間関係が築けないからである。

 

人生とキャリアを再構築するには?

 

中年になると、宗教と精神性への関心が高まるのは一般的な現象である。年と共に人生は割り切れないところだらけだと気づき始める。そうなると、宗教のあいまいさと矛盾を許容できるようになり、精神性や超越性がわかるようになってくるのだという。

 

ストライバーはこの変化に無防備である。多くの場合、精神生活にはほとんど投資してこなかったからである。しかし、宗教や精神性を重んじる人は、信仰を持たない人よりもおおむね幸福で、うつ病になりにくいことを示す研究が山ほどある。

 

私たちは毎日、自分のことばかり考えている。だが信仰を実践すれば、焦点が宇宙へと移り、真理の源、生命の原点について考えさせられる。心身が生き返り、気分転換にもなる。新しいものへ挑戦するきっかけが欲しいなら「散歩」をしよう。

 

主要な宗教には例外なく巡礼がある。イスラム教徒にはメッカ、仏教徒にはブッタガヤ、キリスト教には「サンティアゴ・デ・コンポスーラの巡礼路」。人はなぜ巡礼するのか?1つに歩くことは優れた運動だからである。健康と幸福を実現するには特に効果的である。

 

「70億人のうちの1人」、これはダライ・ラマの言葉である。それが意味するのは、人生、仕事、人間関係を狭い視野から捉えるのは止めようということだ。歩きながら、自分が70億人の1人であることに思いを馳せると、何もかもたいしたことではない。

 

もう1つ忘れてはならない瞑想の効果がある。それは感謝である。歩きながらポジティブな出来事に意識を向けると感謝の気持ちが増し、幸福を味わいやすくなる。あなたの道を歩き始めれば、あなたは変わるかもしれない。(T OPPOINTから抜粋)

 

 

 

 

 

 

講演「学道論」

 

8月1日(金)弘前ねぷたまつり〜7日。盛岡さんさ踊り〜4日。

 

講演「学道論」を紹介しています。本講演は森先生が建国大学(満州)に赴任した年(44歳)の冬休み、昭和14年12月25日に愛知県幡豆郡横須賀小学校で開催されたものです。今月も引き続き森信三先生の講演「学道論」を紹介します。本日は「求道心の有無」によって、役立ち方に本質的な相違があると説いています。

 

真実の価値は求道心の程度に正比例する

 

現に私自身の今日までを顧みましても、固より真の求道心を発したなどということは無いのであります。すべて人間界の事柄は、その人の求道心の程度に比例すると申して間違いないでありましょう。

 

即ちまた人間真実の価値は、求道心の程度に正比例するともいえましょう。即ちそこに人間の真の内面的真価があるのであります。かように申しますと、それほどに言わなくてもよかろうと、何も求道心を起こさなくたって、世の中に役立つ事は沢山あると言われる方もありましょう。

 

もとより大観すれば左様であります。つまり内外あわせて観ずれば、世の中の多くの営みの中、真の求道心に発しているものは極めて少なく、したがって求道心を発さずとも世に役立っている事柄は沢山ある訳であります。

 

しかし同じく世の中の役に立つといっても、求道心の有無によってそこに本質的な相違があると思うのであります。今これを卑俗な例で申しますれば、ここに大きな甘薯(さつまいも)があるとして、求道心に基づく仕事の価値というものは、焼いたりふかしたり、とにかく火の入った甘薯のようなものであります。

 

これに反して求道心なくして役に立っている事柄というのは、いわば生のままでも必ずしも役に立たないといえないという程度の価値であります。甘薯を生のまま役立てるというのは、人間の食物としては先ずないことで、豚などの飼料となると生のままであります。

 

しかし豚の飼料となっても、役に立たないとは言えないのであります。何となれば、生の甘薯を飼料として育った豚の肉が、人間の役に立つからであります。