「経済のための人間」から「人間のための経済」へ

 

8月23日(土)

 

近年、ウエルビーイング(ゆたかな生)という言葉が注目されるようになった。ウエルビーイングとは何か。どうすれば実現できるのか?この新しいゆたかさについて、「経済」を軸に考察したのが「ゆたかさをどう測るか」―ウエルビーイングの経済学―山田鋭夫著、筑摩新書、2025年2月発行)です。著者は名古屋大学名誉教授。

 

ウエルビーイングは1948年に発効した世界保険機関(WHO)憲章を「健康の定義」している。「健康とは、病気でないとか、弱っていないということではなく、肉体的にも、精神的にも、社会的にも、すべて満たされた状態」である。

 

戦後から今日に至るまで、経済活動の実績はGDP(国内総生産)によって評価されてきた。GDPは付加価値の総計を意味し、これを人口で割った「1人当たりGDP」(平均所得)が「国民のゆたかさ」の指標として利用されているのである。

 

しかし、GDPには落とし穴がある。1人当たりのGDPは、功利主義的な「効用」をもって「ゆたかさ」だとするに終わっていて、根本的なゆたかさ(広く深い相互扶助の絆、生活の質の向上など)を含まない。ウエルビーイングとの距離は遠いと言わざるを得ない。

 

第二次世界大戦後から1973年の石油ショックまでの30年間弱、主要な資本主義諸国は空前絶後の高度成長を実現し、人々は「ゆたかな富」を享受することになった。世にそれは「資本主義の黄金時代」「栄光の30年」と呼ばれる。

 

J・K・ガルブレイスは名著「ゆたかな社会」(1958年刊)で、「成長」「ゆたかさ」への重大懸念を表明し、成長はある種の「有害な傾向」を生み出していると警告している。つまり物質的貧困に代わって、ゆたかになるほど、ゆたかさを感じない精神的飢餓が定着すると予測したのである。

 

資本主義は20世紀末、新自由主義へと大きく方向転換し、それにより「新しい社会的リスク」と呼ばれる社会問題が前面に出てきた。グローバリゼーション、デジタル社会化、知識社会化のもと、労働編成や必要な技能が激変、これに対応する教育や職業再訓練の必要性が高まっている。

 

経済のための人間か、人間のための経済か

 

日本やいくつかの国では、少子高齢化や人口減少が進み、これに伴う年金財政の逼迫化、労働力不足、各種産業の衰退が深刻化している。他方、人口の都市集中と農村部の過疎化が同時に進行し、コミュニティは壊滅状態となっている。

 

こうした事態は、経済社会全体において、「経済のための人間」つまり人間の手段視が先行して、「人間のための経済」つまり人間的発展こそが目的なのだという観点がなおざりにされてきた結果である。

 

衣食住がある程度満たされた今日、医療・福祉・教育・文化に関わるサービスは、ウエルビーイングに必須のものとなった。だが、市場(第1セクター)や国家(第2セクター)は、そうしたサービスを提供できていない。そこで非営利団体(第3セクター)の出番である。

 

非営利セクターの活動は、医療、教育、福祉、文化の4分野に集中している。つまり人間形成的活動においてこそ、その持ち合いを発揮しているのである。人間形成という観点から現代経済において果たす役割は大きいのである。

 

例えば「介護」の場合、単に国家セクターや市場セクターに任せるのではなく、顧客ニーズに柔軟かつ互恵・協力の精神で対応しでき、「ゆたかな生」により多く貢献できる非営利セクターの介在が強く要請される。そうした人間形成的活動の成果はGDPでは表現しえない。

 

教育、福祉、文化による「人間形成」も、それによる人間的成長や社会的連帯が成果であって、それをGDP的に貨幣換算することなどは無意味なことだとされなければならない。そうなってこそ「人間のための経済」という社会が到来する。

 

そうした変革の先に見えてくるものこそ、諸個人の「ゆたかな生」すなわちウエルビーイング社会である。その意味でウエルビーイングへの道は、NPOなどの活性化なしにはあり得ない。非営利団体による共助の活動は、国家による上からの公助のあり方を改革していく可能性を秘めている。第3セクターは第2セクター、第1セクターをも変えていく可能性がある。(T OPPOINTから抜粋)

 

 

 

講演「学道論」

 

8月22日(金)

 

講演「学道論」を紹介しています。本講演は森先生が建国大学(満州)に赴任した年(44歳)、昭和14年12月25日に愛知県幡豆郡横須賀小学校で開催されました。本日は「感謝の念に徹しない限り、易行道において真の自発光は輝かない」と説いています。

 

真の絶対易行は絶対難行の功徳の結果として

 

然るに一般にはそれを比較相対の上で易行と心得ていますから、真の易行の一境を打開することが出来ないのであります。すなわち師の形骸の模写にとどまるのであります。実際世の中に甘い話などあろう筈がないのであります。

 

真の絶対易行は絶対難行の功徳の結果はじめて与えられるものなのであります。尤も易行の功徳はある意味でその人の努力を超えて恵まれる処があるのでありまして、これこそ真の功徳というものであります。

 

月は自ら光を発するものではありませんが、しかし太陽の光によって輝くのであります。輝くと言うとやや言いすぎますが、とにかく明るいのであります。これ太陽の功徳力の為であります。

 

我々人間も師匠先賢の難行苦行の結果遂に発見して頂いた易行道の功徳力によって、我々自身には難行を費やさずしてその功徳にあずかることが出来るのでると自覚する時、自ら難行はせずとも、そこに幽かながらも自発の自覚光が点ぜられるのであります。

 

この感謝の情、即ち我に一毫の努力なくして、しかも与えられたという感謝の念に徹しない限り、易行の道において真の自発光は輝かないのであります。即ちこれは単なる反射光にとどまるのであります。

 

一昨晩などは実に明るい月夜でありまして、まるで昼の如く感じられましたが、それでも月の光で本を読むというわけには参りません。反射光は結局反射光であります。反射光が自発光に転ずるのは、つまり感恩の自覚、即ち我に一毫の資格なくして、しかもこの功徳力にあずかるという一念の自覚から、反射光より自発光に転ずるのであります。

 

講演「学道論」

 

8月21日(木)

 

講演「学道論」を紹介しています。本講演は森先生が建国大学(満州)に赴任した年(44歳)、昭和14年12月25日に愛知県幡豆郡横須賀小学校で開催されました。本日は真の易行は絶対の難行を通してはじめて到り得ると述べています。

 

常に死を自覚しつつ生きることで

 

同時にこの問題は之をさらに一段と切り詰めて来ますと、自分の今後公職にある日がどれだけあるかということになるのであります。所が公職にありながらこの問題が常に念頭にないようでは、どうしても本当の力は入らぬと思うのであります。

 

自分は今後よほどうまく行っても、今後先ず何年しか公職に在り得ないということが日に一度位は浮かべられるようでなければ、真剣とか必死とかいうことの出ようはずがないと思うのであります。真に生きるということは、常に死を自覚しつつ生きることによってはじめて可能となるのであります。

 

もし自らの死に対する自覚が無かったならば、それは生命無き石塊や砂礫(されき)と選ぶところなしといえましょう。かくして死を自覚するところに、生あるものの最大の特権と同時に、また実にその最大責務がある訳であります。この点が大体日に一度位は思い浮かべられるようになって、はじめて人生の真の軌道に乗ったといえましょう。

 

それまでは謂わばトロッコを泥田の中をゴテゴテと曳き摺り廻すようなものであります。同時に一たび死の問題の自覚が始まりますと、これ迄泥田の中を引っ張り廻していたトロッコがレールの上を進み始めるようなものであります。

 

それはまさに天地懸隔する容易さであります。真の*易行道(いぎょうどう)は恐らくはこの趣を言うのではないでしょうか。易行ということは、単に相対的難易の上での易行であってはならぬと思うのであります。真の易行とは、絶対易行の謂いでなければならぬ。随ってまた絶対の難行を通してはじめて到り得るものでありましょう。

 

*易行道=阿弥陀如来の願力にすがって極楽に往生する教え。

 

講演「学道論」

 

8月20日(水)

 

講演「学道論」を紹介しています。本講演は森先生が建国大学(満州)に赴任した年(44歳)、昭和14年12月25日に愛知県幡豆郡横須賀小学校で開催されました。本日は自分がどれ位しか生きられないことを思い浮かべなければ、人生の意義は果たせないと説いています。

 

一番大事なものは一番手近なところにある

 

如何なる英雄豪傑も、否聖賢といえども、この鉄則から除外されることはないのであります。これほど古今に明らかな例外なき鉄則にもかかわらず、これに気づかぬということは、これはお互いに余程どうかしているという証拠であります。

 

これは丁度自分の顔を見ることが出来ぬというのと似ています。また空気の有り難さがよく分からないということと似ています。一番大事なものは一番手近な処にあるのであり、一番貴いものは一番低いところにあるのであります。

 

これに反して一番大事なものが高いころ、遠いところにあると考えているのは、これは肉眼で見ているからであります。つまり相対観で見ているからであって、未だ心眼が開けていない証拠であります。

 

自分の生命が今後よほどあてよく考えても、大体どれ位しか生きられまいということを、日に一二度は思い浮かべる処迄ゆかねば人生の意義も十分には果たせないと思うのであります。処が、実は私自身にも授業のない日は思い浮かべない日が多いのであります。

 

只教壇に立つ時は大体この点に想い到るのであります。ここに我々教育者にとって教壇というものの絶対性があると思うのであります。即ち教壇に立ちます時は、その前に思うか、立つ瞬間に思うか、乃至立ちつつあるさ中に思うか、とにかくどこかで少なくとも一度位は死の問題に想い到るのでありす。

 

まず私といたしましては、相当勝手よく考えましても、今後残るところ先ず二十五年そこそこのものでありましょう。父の亡くなった年齢、祖父の亡くなった年などから考えましても、私の残年は余程勝手よく考えましても、今後二十五年前後あったらよい方でありましょう。無論明日の日も分からぬ身であることは今更申す迄もありません。

講演「学道論」

 

8月19日(火)俳句の日。

 

講演「学道論」を紹介しています。本講演は森先生が建国大学(満州)に赴任した年(44歳)、昭和14年12月25日に愛知県幡豆郡横須賀小学校で開催されたものです。本日は「人生の問題はわが生命の意義を深刻に自覚するかの一点に尽きる」と、述べています。

 

自分の生命の貴重さを気づかしてもらう

 

島木赤彦は死期を宣言された為、晩年最後の著述「万葉集の鑑賞および其批評」の脱稿を急いだのであります。然るに医者の宣告以上に死期が早かったために、遂に上巻だけに終って、下巻は永遠に見ることを得ないのは、返えすがえすも遺憾なことであります。

 

恐らく後世においても遺憾とされることと思います。しかし人間は師の縁、法の縁、教の縁によりませんと、大体は先ず最後のところへ来るまで自己の生命の貴重さに対する真の自覚を得難いのであります。

 

世の中に何が有難いと言っても、自分の生命の貴重さを気付かして貰うほど有難いことはないのであります。これが師恩というものが古来尤も忝けなしといわれる所以であります。唯今私の事(つか)えております建国大学の副総長作田壮一博士が、時々冗談まじりに仰有るそうです。

 

それは卒業生の就職を世話してやると随分長い間それを徳とされるが、自分が生命をかけた講義に対してお礼を言われ、感謝されたことは殆ど無いと言う意味のことを仰有られるそうでありますが、これは実に面白いと思うのであります。

 

つまり我々は平素とかく教の恩というものを自覚しないのでありまして、只形の上での就職の恩というようなことは身に沁みるのであります。これ自己の生命の意義に真に目覚めないからであります。かくしてまた人生の問題も、結局はわが生命の意義を如何に深刻に自覚するかの一点に尽きるといえるのであります。

 

同時にまた学道論の眼目も之を措いて外には無いでありましょう。そもそも学問の事というものは、大抵は多少の例外とか目溢(めこぼ)しのあるものであります。然るに、この「生まれたものは必ず死ぬ」という鉄則だけは古往今来ただの例外もないでしょう。

講演「学道論」

 

8月18日(月)

 

講演「学道論」を紹介しています。本講演は森先生が建国大学(満州)に赴任した年(44歳)、昭和14年12月25日に愛知県幡豆郡横須賀小学校で開催されたものです。本日は一般的に「人生二度なし」に目覚めるのは死の瞬間だと説いています。

 

如何にして求道心を起こすことが出来るか

 

真に道を問題とすることは「道とは何ぞや」というような態度ではなくして、如何にしてこの求道心を起こすことが出来るかと、先ず求道心の問題から出発するということであります。前にも一寸申したように道元禅師はその著「学道用心集」を十項目に分けて説いておられますが、項目は必ずしも十とは限らないのであります。

 

が、同時に根本の一点は、発菩提心即ち求道心は如何にしたら起こるかの問題であって、すべてはこの一点に帰するのであります。私は未だ人絹工場を見たことはありませんが、何でも液体が微細な孔を出て空気に触れる瞬間に糸になるということであります。

 

どんなに長い糸でも結局それが糸となる急所はその微細な孔を出る一瞬のほかないのであります。同様にこの求道心こそ学道論の出発点であると同時に、また実にその帰結点であろうと思います。

 

求道心の問題は最も困難な問題ではありますが、ここに一つの切断面を開いて見ますと、その一つは「人生二度なし」ということから拓かれると思うのであります。実際考えて見れば私共は一番大事な生命を粗末にしているのであります。

 

処が我々人間がこの点に関して真に目が覚めるのは、普通に放って置きますと一生の間にただ一度あるのみであります。即ちそれは將に死なんとする一瞬であります。尤も特殊な例外の場合として医師がしっかりした人ですと、時には予め死を予告してくれる場合もあるでしょう。

 

しかしこれも当人が余程しっかりしないことには医師も言うてくれません。つまり死を予告しても間違いあるまいと医者に信用されないことには申しません。また当人はしっかりしても医師が平凡な俗人である場合には、人物を見損なって、やはり言うてくれないでしょう。

ストア派に学ぶストレスフルな時代を生きる考え方

 

8月16日(土)月遅れ送り火。京都五山送り火。

 

パンディミック、不平等、 SNSのいじめや増悪・・・。人として生きる不安に苛(さいな)まれる現代社会を心穏やかに過ごす知恵はどこにあるのか?その指針をギリシャからローマ時代のストア哲学に見出したというのが本書「心穏やかに生きる哲学」(鶴見紀子訳、ディスカヴァー・トゥエンティワン、2024年8月発行)の著者ブリジッド・ディレイニー(英国「ガーディアン」紙ジャーナリスト)です。

 

ストア哲学が誕生したのは、紀元前3世紀の初期、古代ギリシャのアテナイ。生活をあらゆる面から支えようとする考え方である。その教えが数百年後にローマに伝わり、セネカ、エピクテスト、マルクス・アウレリウスなどに影響を与えた。

 

「人生は短く、自分も他者も死ぬ定めにあると認識する」のがストア哲学の基本原理である。これを認識すると、悲しみや突然の喪失感がもたらす混乱、あるいは自分の死の定めを悟って生じる混乱を軽くしてくれるというのである。

 

セネカは「人生の短さについて」の中で書いている。「あなたは、自分が永遠に生きるべき運命づけられているかのように生きている。・・・だがそうしている間にも、何かに夢中になっている、まさにその日にもあなたは最後を迎えるかも知れない」。

 

「友人と過ごす時間を思い切り味わいつくそう。・・・なぜならこの特別の権利はいつまでも自分のものであるか分からないからだ」。この世で最後の1日と考える、「共に過ごせる時間には限りがあることを認識すると、信じられないほど貴重な時間になる」とセネカ。

 

エピクテストは「幸福になる唯一の方法は、自分の意志ではどうにもならないことで悩むことをやめる」。自分でコントロールできることは、「品性」「反応」「他者への対応の仕方」の3つである。逆にコントロールできないのは、「事故にあう」「病気になる」「経済の崩壊」「パンディミック」「物価の上昇」「戦争の勃発」など。

 

ストア哲学による人生の課題は4つの美徳

 

ストア派は品性、人徳、論理的な思考力を守り育てるためには格別の努力をすべきだとする。「好ましいが関心は持たないもの」の分類に富・健康・名声など。これらは失った時に嘆き過ぎないため、手に入れられるかどうかについては無頓着であるべきだと。

 

健康でなくなること、身体の自由が利かなくなる、体力が落ちてくる、これらに免疫をつけることは難しい。品性が損なわれないことが大事で、身体の健康は二の次と。健康は意志の力ではどうにもならないからである。

 

自分が持っているものは(健康を含めて)自分のものではなく、単に借りているだけでいつかは返すものだと考える。いつか自分のものではなくなった時、驚いたり憤慨したりしないだろうし、心の静けさを乱されないだろう。

 

ストア哲学による人生の課題とは、4つの美徳――正義・節制・賢明さ・勇気――自分の品性、他者への接し方に磨きをかけることである。物質的な所有物、健康、社会的地位はうつろいやすいため、外部からの力によって変化する。

 

心の静けさを何よりも重んじるストア派はこれを「不動心」(アタラクシア)と名づけた。不動心は「揺るぎない落ち着きで心が澄んでいる状態であり、苦悩や不安から解放されている」という意味である。では「不動心」を手に入れ、心を穏やかに保つにはどうしたらいいのか。

 

秘訣の1つは、他人の意見に振り回されないように気をつけることである。マルクス・アウレリウスは「自省録」の中で説明している。「他者の言葉、考え、行いを気にするのをやめると、心は穏やかになる。自分の行いだけを心に留めること」。

 

自分の恐れ、失敗、他の人の考えを払いのければ、あらゆることがもっと気楽で愉快になる。大らかに構えて生活すれば、あなたの行動にはもっと美徳が現れる。やたらと外からの刺激に反応することもなくなるだろう。

 

人生も生活環境も絶えず変化して、新しいものがどんどん流れ込む。しかし、自分が平静でいることを最優先すれば、心の穏やかさを守ることができるのだ。(T OPPOINTから抜粋)

 

 

 

 

講演「学道論」

 

8月15日(金)終戦記念日。月遅れお盆。

 

講演「学道論」を紹介しています。本講演は森先生が建国大学(満州)に赴任した年(44歳)、昭和14年12月25日に愛知県幡豆郡横須賀小学校で開催されたものです。本日は人間の眼は師匠を発見するところから開かれ始める、と述べています。

 

逢うべき時に会わしていただける

 

しかもその時期さえも最も適当な時にめぐり会うものであります。それ故、もしその方にめぐり会うことが遅かりしと思うならば、それはその人の生活にそれだけのゆるみがあった報いと心得るべきでありましょう。

 

また早過ぎると感じられるとしたらならば、即ちあの方にお会いするのが早過ぎたために、あの人の偉さを十分に受け取り得なかったと思うならば、これもまたその歩みがゆるんでいた報いであります。

 

しかし、これを大観いたしますと、人間は真実に歩んでいれば、一生の間に会わなければならぬ人には悉く逢い、しかもその時期さえも最も然るべき時に会わしていただけるものと思うのであります。この辺の消息が会得できないようでは、真に人間と生まれた甲斐はないと思います。

 

それではせっかく人間の生き方を与えられながら、相済まぬことと思うのであります。それ故、この問題はまさに心中深く会得して感謝すべき根本問題であると存じます。何と申しましても、人間の眼というものは師匠を発見するところから開かれ始めるのであります。

 

師を発見したということが、わが眼の見え出した最初ということであります。従ってこれが一切の基準となるのであります。かくして師縁を中心にして、人間生涯の歴程が見え出してきた時、はじめて人生の骨格を通観し得たということになるのでありましょう。

 

さて、また元へ立戻りまして真の求道心はどうしたら発(おこ)るか、この問題だけからも学道論の基礎論は限りなく展開するのであります。即ち学道論は如何にしたら志を起こさすことが出来か、という一事に尽きるといえるのであります。同時にまたこれが実に無限の問題であります。

講演「学道論」

 

8月14日(木)

 

講演「学道論」を紹介しています。本講演は森先生が建国大学(満州)に赴任した年(44歳)、昭和14年12月25日に愛知県幡豆郡横須賀小学校で開催されたものです。本日は一生の間にめぐり逢わねばならぬ方にはちゃんと逢えると説いています。

 

求める心なくして縁はできない

 

どなたでも恐らく自分だけの努力によって師匠を発見したと言い得る人はないでありましょう。そもそも縁というものは最少二つの要素が必要であります。第一求めるという心なくしては縁というものは結ばれないのであります。

 

その証拠には学校で等しく一人の卓れた先生に教わっていながら、或る人はそこに心の眼が開けて縁が結ばれるが、他の人はそれほどでもなくて過ぎ去るということは、世上一般の事実であります。今その相違を生徒自身の方から申せば、畢竟求める心如何の問題であります。

 

その学校へ入って、そこにその先生が居られたということは縁であります。今日の学校では先生を求めて学校を選ぶということは殆ど絶無と申してよいでしょう。そこで一つの学校に入って、一人の卓れたお方にお出会いするのは、与えられたことでありますが、しかしそこに縁が結ばれるか否かは、本人の求め心の如何によるのであります。

 

ところが今教育者の立場から申せば、相手の求めということも、実はわが身の責任ということであります。相手が求める心を起こすか起こさないかは、実は教師たる自己の全責任の中に入るのであります。

 

かくして今化他の立場からは、相手が求めるか否かは自己の責任でありますが、自己の求道の立場から申せば、師縁にめぐり逢うか否かは自己の責任に属するのであります。実際不思議なものであり、更には忝いことではありますが、人間真に精一杯で歩いておりますと、一生の間には自分のめぐり逢わねばならぬ方にはちゃんとめぐり会うものであります。

 

私はこのことを深く確信致しております。少なくとも私自身人生の半ばに至る今日までを顧みましても、絶対にそのことは間違いないと思うのであります。即ち人間自分に求める態度さえ失わないならば、自分のめぐり逢わねばならぬ人にはいつか悉くめぐり会うのです。

講演「学道論」

 

8月13日(水)月遅れ盆迎え火。

 

講演「学道論」を紹介しています。本講演は森先生が建国大学(満州)に赴任した年(44歳)、昭和14年12月25日に愛知県幡豆郡横須賀小学校で開催されたものです。本日は「求道心を起こす最も大きな縁は師匠の縁」と説いています。

 

自分だけの力では自発できない

 

さて、元に戻りまして、然らば求道心というものは、一体どうしたら起こるものであるかということが問題になりますが、厳密な立場から元来そういう問いに対しては答え得ない訳であります。けだしそれは人間の計らいだけでは到底期し難いことであります。

 

即ちこうしたならば誰でも求道心を起こさすことが出来るというように割り切れるものならば、人間界に困難なことは無くなる筈であります。何となれば一切の人間に真の求道心を起こさすことが出来るならば、地上一切の問題は容易に解消するからであります。

 

従ってまたこれを翻して申せば、世上のこと人生のこと、一切難問は凡てただこの求道心を起こさすことの困難さから来ることであり、凡ての問題は謂わばその現れにほかならぬとも言い得るでありましょう。

 

人間求道心を起こす最も大きな縁は師匠の縁でありましょう。これは先程の松明の例で考えてみてもよく分かることであります。自分という松明に火を点けるには、すでに燃えている松明のご厄介になるほか途はないのであります。自ら火を発するというわけにいかないのが松明の本性であります。

 

仏性を本具しながら、自分だけの力では自発することの出来ないところに、私共人間の愚かさと申しますか、その本源的有限性がある訳であります。本質としては内在しながら自発することが出来ない。燃えることをその本性としながら、しかも自ら発火するわけには行かないところに、地上の存在の一つとして松明の根本制約があるのであります。

 

が同時に師縁というものは、縁の一字が示しているように、単なる人為だけでは出来ないものであります。即ちそこには人為を超絶した因縁力ともいうべきものが働くのであります。