講演「学道論」

 

8月1日(金)弘前ねぷたまつり〜7日。盛岡さんさ踊り〜4日。

 

講演「学道論」を紹介しています。本講演は森先生が建国大学(満州)に赴任した年(44歳)の冬休み、昭和14年12月25日に愛知県幡豆郡横須賀小学校で開催されたものです。今月も引き続き森信三先生の講演「学道論」を紹介します。本日は「求道心の有無」によって、役立ち方に本質的な相違があると説いています。

 

真実の価値は求道心の程度に正比例する

 

現に私自身の今日までを顧みましても、固より真の求道心を発したなどということは無いのであります。すべて人間界の事柄は、その人の求道心の程度に比例すると申して間違いないでありましょう。

 

即ちまた人間真実の価値は、求道心の程度に正比例するともいえましょう。即ちそこに人間の真の内面的真価があるのであります。かように申しますと、それほどに言わなくてもよかろうと、何も求道心を起こさなくたって、世の中に役立つ事は沢山あると言われる方もありましょう。

 

もとより大観すれば左様であります。つまり内外あわせて観ずれば、世の中の多くの営みの中、真の求道心に発しているものは極めて少なく、したがって求道心を発さずとも世に役立っている事柄は沢山ある訳であります。

 

しかし同じく世の中の役に立つといっても、求道心の有無によってそこに本質的な相違があると思うのであります。今これを卑俗な例で申しますれば、ここに大きな甘薯(さつまいも)があるとして、求道心に基づく仕事の価値というものは、焼いたりふかしたり、とにかく火の入った甘薯のようなものであります。

 

これに反して求道心なくして役に立っている事柄というのは、いわば生のままでも必ずしも役に立たないといえないという程度の価値であります。甘薯を生のまま役立てるというのは、人間の食物としては先ずないことで、豚などの飼料となると生のままであります。

 

しかし豚の飼料となっても、役に立たないとは言えないのであります。何となれば、生の甘薯を飼料として育った豚の肉が、人間の役に立つからであります。

講演「学道論」

 

7月31日(木)土用丑の日。

 

講演「学道論」を紹介しています。本講演は森先生が建国大学(満州)に赴任した年(44歳)、昭和14年12月25日に愛知県幡豆郡横須賀小学校で開催されたものです。本日は道の世界は学問の世界より広大無辺で、学道論で一番大事なことは求道心だと述べています。

 

道の世界は学問の世界よりもさらに広大無辺

 

そうすると米の底に水があるという訳であります。もうこれ以上はあるまいと思いますが、まだその上があるのです。いま水と空気といずれが貴いかということになると、やはりどうしても空気と言わねばならぬ。

 

普通には空気などは一向問題にもしませんが、それは平成は其処まで突き詰めていなからでありまして、いよいよ突き詰めて求めてくると、水は終日飲まなくても我慢できますが、空気は五分間と吸わない訳には行かないのであります。

 

かくしてその価、最も高貴なるものは、その功徳甚大無辺際のものということになるのであります。そこで、人間普遍の大道を問題とする学道論は、学問論よりもはるかに難しいといえるのであります。それはまさに平面と立体の相違ともいえましょう。

 

しかしそれだけに、また所謂学問では救われない人々も、学道論では救われ得るのであります。その拡がりにおいてまたその浸透力において、道の世界は所謂学問の世界よりもさらに広大無辺であると思うのであります。

 

さて、以上は学道の立場というものを所謂学問との対比において考え、それを以て学道論に入る前置きと致した訳であります。さて、学道論において一番大事なことは何かと申しますと、それは求道心であると思うのであります。このことは道元の「学道用心集」にも十箇条の項目を挙げ、その最初が「発菩提心」、すなわち求道心を発するという問題で始めていることでも分かるのであります。

 

求道心ということは、之を儒教で申せば所謂立志という問題であります。そもそも人間生活において一番大事なことは何かと申しますと、恐らくはこの求道心というものであろうと思いますが、これを発すといことも実に容易ではないのであります。

講演「学道論」

 

7月30日(水)

 

講演「学道論」を紹介しています。本講演は森先生が建国大学(満州)に赴任した年(44歳)、昭和14年12月25日に愛知県幡豆郡横須賀小学校で開催されたものです。本日はダイヤモンド、米、水の中で一番貴いのは水だとしています。

 

米を取るかダイヤモンドを取るか?

 

しかもひとりそれのみに留まらず、道という時、私どもはさらに人界を超絶したこの宇宙実在の大生命というものを、やはりこの言葉によって憶念するのであります。かようにあらゆる角度から根本生命の相を道の一語によって包摂するのであります。

 

同時にここに学道論というものの至難なる所以があるかと思うのであります。が同時に世の中は実に公平なものでありまして、これを得るに困難なるものは、必ずその価もまた高いものであります。これはスピノザがその倫理学の最後を結んだ有名な言葉でありますが、やはり深い真理を現わしていると思うのであります。

 

同時にこの言葉の持つ真理性は、またこれを裏返していうことも出来る、と言えましょう。と申すのは何かといえば、「これを得るもの困難なるものはその値また実に高貴である」ということであります。その値高貴であるということは、つまりその功徳力が甚大であるということであります。

 

なるほどダイヤモンドは高価な物と申します。しかし、いざとなるとダイヤモンドよりも、米の方が貴いといことになるのです。つまりダイヤモンドの貴さというものは、米の貴さを踏台にした上に成立するものだからであります。即ち米が食べられる人間にとってこそ、ダイヤモンドは貴いと言えるのであります。

 

それ故今日食べる米もないという場合に、米をとるかダイヤモンドをとるかとなれば、どんな虚栄の強い婦人でもやはり米櫃をかかえるに相違ないのであります。さらにも一つ突きつめて、米と水といずれが貴いかとなると、今度は水ということになる。

 

平成そこまで突き詰められるような場合はないものですから。お互いそれ程に感じませんが、いよいよとなると水の方が貴いということになる。

講演「学道論」

 

7月29日(火)

 

講演「学道論」を紹介しています。本講演は森先生が建国大学(満州)に赴任した年(44歳)、昭和14年12月25日に愛知県幡豆郡横須賀小学校で開催されたものです。本日は「道というものは、最も具体的であると同時に、真に絶対究極的なもの」と述べています。

 

二つの要素が一つの生きた生命の中に含まれている

 

道に達するということになれば、どこか絶対を掴んでいるという趣が、理屈は別として感じられることだと思うのであります。が同時に他の一面、道というものは、単に静止している絶対ではない。一歩々々歩いて行くことに即して捉えられるものであり、さらに進む姿といえるのであります。

 

つまり道というものは、古人も屡々申しているように形の上から申せば、やはり道路というものが一番近いのでありまして、無限なる歩みということでありつつ、しかもその内どこか絶対という趣があるのでありす。同時に真の絶対の把握は、どうしてもこの形態に相違ないと思われるのであります。

 

大極論とか真如法性の論というものも、やはり絶対の把握であり説明ではありますが、しかしそこにはどこかまだ抽象的なところがあるのです。

 

今試みに仏教の上で申せば、天台とか華厳というような理に訴えて絶対な事細かに説明する教学の後に、それを一刀両断し去るような禅とか、乃至一念の帰命において絶対の生命に侵入する浄土教の思想などの出て来たのも、つまりはそういう処からだと思うのであります。

 

かくして道というものは、最も具体的なものであると同時にまた、真に絶対究極的なものである。即ち道という言葉の中には、これら二つの要素が一つの生きた生命の中に含まれているのである。

 

現に「道は近きに在り」と言われるように、私共は文字を書く上にも書道と言うて道という言葉を使って怪しまない。あるいは花を活けることさえも、これを華道といって道という言葉を使うのであります。かと思うと人倫はやはり人間の大道であって、人間の君臣父子夫婦兄弟朋友などの関係は、之を道と申すのであります。

講演「学道論」

 

7月28日(月)

 

講演「学道論」を紹介しています。本講演は森先生が建国大学(満州)に赴任した年(44歳)、昭和14年12月に愛知県幡豆郡横須賀小学校で開催されたものです。本日は道というものは絶対的な響きがあり、それだけに説明が困難だと述べています。

 

道は静止的なものではなく絶対的

 

では道というものはなぜその把握が容易ではないかと申しますと、以上に列挙したような「真如」とか「太極」、あるいは西洋哲学的に申せば「絶対」とか「実在」などという言葉は、なるほど究極絶対的なものでありますが、いわば静止の状態で捉えたものであります。

 

静止の立場でということは、やや適切さを欠くのでありまして、これら諸々の言葉の意味するものは、その本来は決して静止固定したものではないのであります。しかしこれを道という言葉との比較から申せば、やはり静止的色調をもつ言葉と思うのであります。

 

ところが静的色調を帯びるということは、実はそれだけ概念化されているということであります。したがって、これを説くということが割合に楽であります。何となれば、凡て説明するということは、概念に訴えて分析することだからでありあます。

 

然るに道というものは、そういう静止的なものではなくして、絶対的なるものを、動的な一歩一歩の現実の歩みに即して把握せんとするものだからであります。それだけ動的であり、行的であります。すなわち又それだけ非概念的、非超概念的であります。

 

したがって、これを概念的に訴えて説明するとなると、どうしてもそこに或る距離ができるのであります。もちろん絶対そのものも、これを説明するとなれば相対的なる概念に訴える外ないのでありますから(即ち絶対を相対化する働きによる外ないのでありますから)、必然そこに困難が伴うわけであります。

 

道となると更に一段と概念から遠ざかるのでありまして、同時に又それだけ説明に困難なわけであります。道の説明の困難さをもう一つの側から申してみますと、そもそも道という言葉にはどこか絶対という響きをもっているとお感じでありましょう。即ち道を単に相対的なものと考える人は先ず少ないだろうと思います。

幸せになるのに遅すぎることはない

 

7月26日(土)

 

「幸福な人生」に必要なのは、お金でも名声でもない!長年の研究で、幸せになるためのカギは「よい人間関係」であり、その育み方を説いたのが「グッド・ライフ」(ロバート・ウォールデンガー/マーク・シュルツ著、児島修訳、辰巳出版、2023年発行)。

 

著者ロバート・ウォールデンガーはハーバード大学医学大学院・精神医学教授、「ハーバード成人発達研究」の現責任者。マーク・シュルツは副責任者で、プリンマー大学心理学教授。

 

人の生き方に関する史上最長(1938年から)の縦断研究プロジェクト、「ハーバード成人発達研究」によると、健康と幸福を維持する決定的な因子は、社会的成功や運動慣習、食生活ではなく、「友好的な人間関係を育む」ことだというのが本書の結論です。

 

人間は心の通う関係が必要不可欠

 

誰かを愛しく思う時に身体で感じる感覚、ぬくもりと安らぎを思い浮かべてほしい。「人間には心の通う関係が必要不可欠だ」という言葉はきれいごとではない。数々の科学研究が繰り返し伝えてきた事実があるーー人間には栄養、運動、仲間が必要なのだ。

 

人間関係の実利的価値は、近代以降、正当に評価されていない。人間関係は人生の基礎であり、人間の行動と存在の中心をなすものである。「ソーシャル・フィットネス」は、人間関係の健全度を示す言葉である。人間関係は筋肉と同じで、何もしなければ衰えていく。

 

「ソーシャル・フィットネス」を高めるには、人間関係の振り返りが必要で、自分が幸せをもたらすつながりを大切にしているかどうか、素直に見直す必要がある。自分をとりまく人間関係を捉えるには、まず自分の人生には誰がいるかを考えること。

 

よくも悪くも自分に影響を与えている人をリストアップする。次に「これらの人間関係の特徴は何か」を、交流の「質」と「頻度」の両面から把握する。人間関係全体をどう感じているかは、他者から何を受け取り、何を与えているかに直結している。

 

自分に大きな影響を与えている人間関係から、自分が大事だと思う支えが得られているかどうかを、下記の項目で振り返ってほしい。

 

・自分が新しいことに挑戦する時、人生の目標を追い求める時に応援してくれる人は?

・落ち込んでいる時に電話して、自分の気持ち率直に話せる相手は?

・一緒にいるとリラックスして心が落ち着き、絆が感じられる人は?

 

こうした振り返りを行うだけでも、自分が目指したい方向が見えてくる。しかし、それが分かっていても、最初の第一歩を踏み出すのは容易ではない。だが、一歩を踏み出すには、まず順調な関係に注目し、相手に心からの感謝を伝え、その理由も伝えよう。

 

人間関係で最も価値ある資産は「注意」と「気配り」

 

80代の夫婦にこれまでの人生を振り返ってもらった。「子どもたちに十分な注意を払ってあげられなかった」「重要でないことに時間を費やしすぎてしまった」、という思いを抱く人が多かった。時間と注意には言葉が意味するものを超える、かけがえのない価値がある。

 

さて人間関係で最も価値ある資産は「注意」と「気配り」である。相手に注意を向け、気を配ることは、今の瞬間を生きている相手を尊重し敬意を払うことである。注意を向けることは「愛の最も基本的な形」だと言われるほどである。

 

大切な人に対して十分な注意を向けているかどうかを確認するには、自分自身をよく観察する必要がある。ここでは簡単な方法を3つ紹介しよう。1つ目は、人生を豊かにしてくれる人間関係を1つか2つ思い浮かべ、相手に今まで以上の注意を向けることである。

 

2つ目は、1日の過ごし方を少し変えることである。特に大切な人と一緒にいる時には、注意が途切れない時間をつくること。夕食にスマホを持ち込まない。あるいは決まった相手と毎週または毎月、定期的に会う時間をつくる。

 

3つ目は、誰かと過ごす時には好奇心を忘れないこと。よく知っている相手には特別に意識してみよう。「今日はどうだった?」という会話を終わらせず、真摯な関心を寄せることである。自分が将来たどりつきたい場所を確認すれば、最も注意を向ける相手も見えてくる。(T OPPOINTから抜粋)

 

 

 

講演「学道論」

 

7月25日(金)

 

講演「学道論」を紹介しています。本講演は森先生が建国大学(満州)に赴任した年(44歳)、昭和14年12月に愛知県幡豆郡横須賀小学校で開催されたものです。本日は「道という言葉ほど説明するのに困難な言葉は、他には見出し得ない」と述べています。

 

「絶対」真如」「実在」「本体」「太極」なども難しい

 

それ故、今私という一個の人間を離れて日本民族全体の歴史的展開の上から申せば、どうしても今や新たなる形態における日本民続の学道論というものが、生誕しなければならぬ時期と思うのであります。

 

それでは道を学ぶという、その道とはそもそも如何なるものであるかということになるのでありますが、これは最も難しい問題だと思うのであります。もちろん凡て精神界の問題はこれを説くのは夫々に難しいことではありますが、しかし道という言葉ほど之を説明するのに困難な言葉は、恐らく他には見出し得ないでないかと思います。

 

なるほど「絶対」という言葉も之を説くことは決して容易ではないでしょう。また「真如」という言葉も之を説くことは必ずしも容易とはいえないでありましょう。また「実在」とか「本体」などという言葉も必ずしも容易ではない。

 

さらに儒教においても、「太極」という言葉は古来最も難問とされてきた言葉であります。随ってこの「太極」の一字さえ真に分かれば、儒教の一切を会得したとも言い得るでありましょう。

 

あるいは儒教の「性」とか「理」という言葉もなかなか容易ではなく、さらに「気」という言葉なども、ある意味では「理」とか「性」以上に厄介な言葉かと思うのであります。

 

そもそも説明が容易ではないということは、之を把握することの容易ではないということに外ならぬのであります。即ち説明が難しいということは、実は把握が難しいということの投影であります。それ故、本体は把握の困難ということであって、説明が難しいということはその投影にすぎないのであります。

 

講演「学道論」

 

7月24日(木)京都祇園祭(後祭巡行)

 

講演「学道論」を紹介しています。本講演は森先生が建国大学(満州)に赴任した年(44歳)、昭和14年12月に愛知県幡豆郡横須賀小学校で開催されたものです。本日はご自身が「道の世界」へ一歩を踏み出そうという気持ちでお話ししたいと述べています。

 

「学道用心集」は引っ掛かるところがある

 

さて、用意にかかって見ますと、先ほども申し上げたように、大事な処は何人にも直ちにすらりと分かり、また之を皆様方にお伝えするにも一応の処は左迄に困難を感じないのであります。

 

これに反して、自分の諒解としても、皆様方にお伝え申す上においても、引っ掛かって苦しむところは、むしろ枝葉末節の箇所であります。そこで「学道用心集」を講本に用いますと、大事な処では引っ掛からないで、それほどでもない処で引っ掛かることになるのであります。

 

序でではありますが、この引っ掛かるということは恐ろしいものでありまして、たとえ釘一本でも時としては人間一人の身体が引っ掛かるのであります。人が高い建物から飛び降りた際、僅か四五寸の釘に着物の端が引っ掛かってそれでやはり宙ぶらりんになるのであります。

 

かように引っ掛かるというということは、実に恐ろしいことであります。特に「学道用心集」は、ご承知のように禅の立場から書かれたものであります。勿論禅は古来我々日本人の絶対把握の上において、最も重要な一つの役割をして参ったものであります。

 

道元禅師のご努力は、その中でもまた特に讃歌すべきものと思うのでありますが、しかし、同様にお聴き下さる方々が、悉く曹洞宗を奉じておられる方という訳ではなく、また私自身曹洞宗によって眼を開かれたというものでもありません。

 

そこで用意を致しております中に、どうも「学道用心集」によってお話するということは、却ってまずい結果になりますまいか、と感じ始めたのであります。そこで、遂に中途から最初の計画を抛擲(ほうてき)して全くの素裸で、私の持っているものというのではなく、まさに私自身がこれから道の世界へ一歩を踏み出そうという気持ちでお話申しあげあたいと、かように考えるに到った次第であります。

講演「学道論」

 

7月23日(水)

 

講演「学道論」を紹介しています。本講演は森先生が建国大学(満州)に赴任した年(44歳)、昭和14年12月25日に愛知県幡豆郡横須賀小学校で開催されたものです。本日は「学道」で参考になるのは、道元禅師の「学道用心集」であろうと述べています。

 

根本は現実の天地人生の実相を基準に

 

私のような道を歩んで参った者には、どうしてもそうとしか思えないのであります。尤も斯様なことを申すに至りますと、ある意味ではいつしか学問から学道論の立場に転じて来ているとも言えましょう。

 

しかし茲に大事なことは、真の学問はどうしても学道論を基準にしなければ真実には立たないということであります。でないと結局宙に浮いた概念の楼閣ということになると思うのであります。

 

さて学道論というものを考えるに当たって、勿論根本はこの現実の天地人生の実相というものが基準になるということは申すまでもないことです。しかし、愚かなる私共には素手で直下にこれを把握するという訳には行きかねるのであります。

 

丁度それは我々が手をもって掬い得る水量は極めて僅かであって、多量の水を得るには然るべき器を用いなければならないのと同様であります。そこで道を学ぶ場合の真の対象は、どこ迄もこの現実の天地人生そのものでありましょう。

 

しかしいざ之を把握するとなると、どこにどうしても幾多先賢の方々のご努力の跡を見、その光に照らされなければ本当に押し進めなにのであります。そういう意味において、先哲の書物の中、特に学道ということを謳い出されたものは、ご承知のように道元禅師の「学道用心集」であろうと思います。

 

人間の学道の態度を、あれほど端的明白に、しかも深遠な立場からお説きになったものは、先ず他にはあるまいと思うのであります。それ故、実は今回も、最初はこの「学道用心集」を請本に使って、些か私の諒解を申し上げようと思ったのであります。

 

講演「学道論」

 

7月22日(火)大暑。

 

講演「学道論」を紹介しています。本講演は森先生が建国大学(満州)に赴任した年(44歳)、昭和14年12月25日に愛知県幡豆郡横須賀小学校で開催されたものです。本日は世界観と人生観の統一を求める学問も、その根底は何人にも明らかな大道でなければならないと説いています。

 

学問のみが人生ではない

 

もし学問にして、真に天人合一の境涯を目指して、所謂世界観と人生観との真の統一を求めるものであるならば、その基底を為すものは、どうしてもこの何人にも明らかなるべき大道でなければならぬと思うのであります。

 

もちろん今日学者と呼ばれている人々が専門家を基準にして学問をせられるということは、一面からはまさに然かるべき事柄というべきでありましょう。と申しますのは、実相の機微を把握する為には、やはり卓越した才能者の刻苦精励に俟たねばならぬからであります。

 

またそこまで到るのでなければ学問も真の仕上げとは言えないからであります。荒砥で刀の仕上げ出来ない。否、荒砥ばかりでなく、細かい砥でも刀の仕上げにはならない。やはり砥の粉というものでないと最後の仕上げは出来ない。同様に道も精緻を極めるというところまで行かねば、真の仕上げとは言えないのであります。

 

同時にまた大道というものは大きな方向としては、やはり何人にも明らかなものでなければならぬ。而して、そこに自ら本末の別があるわけであります。

 

今日学問を専門とする人々が専門家としての立場から、精細綿密ということを学の基準にされることは一応尤もなことでありますが、同時にまた何も学問のみが人生ではないのであり、学者だけが人間ではないのであります。

 

それ故、学問をするものは常に自己の専門とする領域を超えて人生の全体を照らして見なければならない。そういたしますと、どうしても何人にも明らかなる大道こそ、学問の真の基準でなければならない。愚婦愚夫といえども、苟くも心を持てる以上は、何人の心にも貫通するものにして初めて真の学問の基準といえましょう。