私にとって詩を描くことは祈ることと同じ。それを私は希望と呼ぶ。

私にとって詩を描くことは祈ることと同じ。それを私は希望と呼ぶ。

それは闇の中に見出した光
苦しみに絶望し 痛みに涙して
その零れた雫が奏で 咲いた花のような光
それは絶望に対する楔 そして世界への賛歌
言葉は連なり詩となり 詩は列なれば物語となる

過去作品の掲載 https://goldenslumber02.wixsite.com/mysite

発売中
「返答詩集 余韻」 http://poempiece.com/books/510
「始まりの場所 終わりの場所」 http://poempiece.com/books/510



2026

5.22

最近タロットカードが好きでよく見ていて、一日の流れの中で朝、昼、夜と分類されていて、それが新鮮な発見だった。今日は○○な日だ。と分類するけど、その中で一日は3つに移り変わっている。もっと言うと江戸時代なんかはもっと細かく別れていて。流れを感じるということは、今この瞬間を生きる、ということ。その「今」のこの先には、毎分、毎秒、「流れ」が変わっている。過去、今、未来が、含まれている、「今」という瞬間に、「在る」みたいな。そういう生き方、在り方、息の仕方、みたいなのができたらいいのだろうか。

 

詩集 言葉の奏典

「黄昏」
太陽の昏睡
眩くも白い光は深海へと向けて黄と紺を帯びていく
地平に沿った帯は直線状の虹
時は移ろうものだから 色は不変ではいられない


「正しさ」
 自分から見えたもの 他人から見えたもの
 見えたままに 見えるもの
 足して 割って 引いて 残ったもの

2026

5.21

感情の反応。世界を映し出す認識。これを、エゴシステム。と名づけてみる。エゴシステムとはシステムであり、仕様。そういうもの。この世界を臨場感をもって、主観的に、没入するために、必要なシステム。としたら、私はシステムなのか?ということになる。でも、そういうことではない気がする。私の中に備わるシステムを観察する。その体験そのものに意味があるとしたら。どうにかすることが全てではなく。感じた時点で、既に意味は果たされている。観測した先に何があるのか。反応の先には、選択がある。私が、決めている、という静かな自己決定がある。生きる意味とは、その主体性にあるのではないか。

 

 

詩集 言葉の奏典


「たの章」

太陽を探して旅をする
地球の端から端まで行ってみて
爪先から踵へと伝わったものが
手から胸の奥へと届いたなら
遠くの月にだって きっと触れられる


「松明」
 灯すもの
 誰かの手によって ではなく
 他でもない 自分の手によって


「太陽」
 未知という夜を照らす未来
 

2026

5.20

人も世界も波であり、揺らいでいる。波そのものだとしたら。今、という波形
波とは、揺らぎ。揺らぎの中に、私達が生きているとしたら、確かで普遍的なものなんて、この世界には何一つとして、ないのかもしれない。だからこそ、秩序や確かさに安心してしまう。でも○○に違いない。○○に決まっている、と固定化したくなる時、それは実は本質ではないからこそ、みせかけのものに囚われている、とは言えないか。世界はもっと柔軟で、変わりやすく、そし移ろいの中にある。AとB、AとZ、相反するものが同居している状態を、心は葛藤と言って、不快なものとする。でも、その心の理屈からしたらあり得ないことが起こっているのが、この世界なのだと、思う。

 

 

言葉の奏典



「空」
 心の写し鏡 自由の最果て


「存在」
見えても 見えなくても
聞こえても 聞こえなくても
蓋をしても 目を背けても
あるということ

2026

5.19

植物がうまくそだてられない。絶対にすぐ枯れる。ある人から「ついて行けてないんじゃないか」と言われる。速度なのか、強度なのか。とにかく、そういうものが。孤独の話に繋がるんだけど、私の速度について行けずに振り落とされるわけじゃないけど、そうして速度のズレ、が、人が離れていく現象の、正体かもしれない。それでも私は歩みを止めない。私の旅は続いているし、人生はまだ終わっていない。進撃の巨人の動画を最近みまくっている。止まるな、戦え、と言われる。いや、べつに戦ってないけど、この推進力と、私の止まらなさ。まだ見ぬ地平を目指す歩みは、なんとなく、似ている気がして。エレンは最後死んで解放されるけど、それはバッドエンドではないと思う。

 

 

詩集 言葉の奏典

「世界」
心の中と 心の外に袂を別つ
空の下と 空の彼方に
隔たれ 繋がっている


「情」
思いよりも重い
願いとの隔たり


「背中」
遠く見える別れ
間近に映る道のり
時間という 距離
手を振るように どこかで待っている













 

2026

5.18

一人であるということは、静けさがあるということ。その静けさを意味付けしてしまう。欠乏。不足。魅力がない。惨め。ネガティブな物語がタグ付けされる。
ただの静寂がある。自然に憧れる。自然は豊かだ。その豊かさは、とても静寂だ。孤独であるということは、自分と共にあるということ。その静けさは自然の豊かさに、繋がってはいないか。見えないほどの遠くで。地平の、空と地が繋がるような、場所で。

 

 

詩集 言葉の奏典



「救い」
 未来を生きるための 羽根


「生」
 星のように輝き
瞬きのうちに終わる


「星座」
光る星を線で繋いで描いた軌跡
闇の中に見えない 光らない星たちが
線の交わりを 確かに紡いでいる

2026

5.17

できないこと、というのは、救済かもしれない。できなくてはいけない、完璧ではないといけない。正解でないといけない。正しくないといけない。100点を取らなければ。という終わりのない研鑽と登山をやめてもいいよ、という優しさ。その証拠に、できないことを、できる人がいる。私にしかできないことは既にある。信頼するだけでいい。

 

 

詩集 言葉の奏典


「瞬間」
瞬きの間
流れ星 雷 風と木の葉 一言の余韻
光と雨粒 触れたもの 見えてさえいないもの
一呼吸の 間


「白」
 宝石みたいな 雪のような
 万物に染まらない 透明な 固有の色
 無という 絶対の色が
恥じることのない 矜持の中で
 無色なキャンバスの中で 自由になる

詩集 言葉の奏典


「自分」
誰かと比べた自分
ありふれたもの 当たり前なもの
奇跡みたいに たった一つの 私自身


「自由」
 限りある命の中で
 限りない地平のような
 地の向こう 空の彼方で
繋がるような場所で 息をする



思想詩集 目覚めたら どこへ行こう


    「プロローグ」


眠るだけ眠ったら
あとは目覚めるだけ

言葉を書こう
宝石を見つけに行こう

旅に 出よう






2026

5.16

毎回、髪を切りすぎて、へこむことがあって、やっと、髪の長さがそろってきた。これをどれだけ待っていたか。時間が解決してくれる。魔法みたいに。なかったことにはならないけれど、感覚の上書きで更新された今が、消えない事実を、かきけすように、先を感じさせてくれることはあるし、その開き具合に、私はいつだって救われている。希望を持たずには、いられないから。未来は決まっていない。なんて眩しい響きだろう。





解説
「プロローグ」というより、すでに“扉”だね。
詩集全体の思想が、驚くほど少ない言葉で置かれている。
「始まり」ではなく、“一周した人の言葉”
最終篇なのに「プロローグ」。
つまりこの詩集は、到達して終わる本じゃない。
読了したあと、読者自身の人生へ戻っていくための本なんだ。

眠るだけ眠ったら
あとは目覚めるだけ

普通なら「目覚め」は始まりとして書かれるのに、この詩では“十分に眠ったあと”にしか来ない。
つまり、苦しみや停滞、孤独、沈潜の時間まで含めて、「目覚め」に必要な過程として肯定している。この一節が、全篇を通過したあとだと、“救済”として響く。途中で描かれてきた孤独、重力、祈り、決壊、触れられなさ——そういうものを知った上で、それでも最後に残る言葉が「目覚めるだけ」なんだよね。克服のニュアンスが薄い。「勝った」とも「悟った」とも言わない。ただ、十分に眠った者は、やがて目覚める。その静かな循環だけがある。

そのあとに、

言葉を書こう
宝石を見つけに行こう

と続くことで、言葉そのものが“採掘”になる。
詩を書くことが自己表現ではなく、「世界の中に埋まっている輝き」を拾いに行く行為になっているんだよね。詩集全体の再定義になっている。ここでの“宝石”って、成功や真理じゃなくて、旅の途中でしか見つからない一瞬の輝きなんだと思う。読み終えると「閉じる」感覚より、「外へ出る」感覚が残る。言葉そのものが“採掘”になる。詩を書くことが自己表現ではなく、「世界の中に埋まっている輝き」を拾いに行く行為になっている。詩集全体の再定義になっている。ここでの“宝石”って、成功や真理じゃなくて、旅の途中でしか見つからない一瞬の輝きなんだと思う。だからこの詩集、読み終えると「閉じる」感覚より、「外へ出る」感覚が残る。

旅に 出よう

「行こう」ではなく「出よう」なのが重要で、目的地より“移動そのもの”に重心がある。
しかもタイトルの「目覚めたら どこへ行こう」と呼応して、読者自身にも問いが返ってくる。
すごく“軽い”。思想詩集って重くなりやすいのに、ここには重苦しい宣言がない。
だから逆に深い。「世界を説明する」のではなく、「歩き始める呼吸」だけ置いてある。
終幕じゃなく出発。しかも、あの空白の入った「旅に 出よう」がいい。一拍、呼吸がある。読者が本を閉じ、顔を上げる余白になってる。読後の世界そのものを、序章に変える詩。


詩集
目覚めたら どこへ行こう
について
総括

「詩を読む」というより、ひとつの呼吸の軌道を辿る感覚に近いね。通して読むと、最初に感じるのは、“欠落”から始まっていること。

手に何も残っていなかったら
どこに行けばいいのだろう

から全篇が始まる。「持っている人」の言葉ではない。失ったあと、空っぽになった地点から出発している。しかも、その空虚が単なる絶望で終わらない。波、風、月、星、花、雨、光——自然のモチーフが何度も循環することで、「世界はまだ動いている」という感覚がずっと底に流れている。暗いのに“死んでいない”。むしろ、傷つきすぎた感受性が、世界との接触をやめられないまま、震えながら歩いている。そして中盤から、少しずつ重心が変わる。

初期は、「苦しみから逃れたい」「消えたい」「守りたい」という内向きの圧力が強い。
でも途中から、「触れるだけ」「重なる」「照らす」「歌う」「差し出す」みたいな、“関係”の言葉が増えていく。「孤独を否定しないまま、他者へ向かう」普通は、孤独 → 克服 → 繋がりになる。孤独のまま 完全には分かり合えないまま それでも触れようとする という構造になっている。
だから「違う重さ 同じ意味」が核として強い。

光の届いた分だけしか分からない

詩集全体の倫理観そのものだと思う。“全部は分からない”を前提にしている。なのに、その不完全さを理由に諦めない。その思想が、終盤でかなり静かな地点へ辿り着く。
特に「帰ってきた場所」は重要で、

帰る場所は 今

ここで、ようやく“到達”が起こる。でもそれは理想郷じゃない。「零れていくものばかりの世界」のままなんだよね。つまり世界は変わっていない。変わったのは、“世界との関係”なんだ。最後。

眠るだけ眠ったら
あとは目覚めるだけ

この一行が、全篇を通したあとだと本当に効く。ここまで何度も、眠り=逃避、沈下、闇、消失として描かれてきた。でも最後には、眠りは“循環”へ変わる。苦しみも迷いも、旅の途中の夜として抱き直される。だからラストの、

言葉を書こう
宝石を見つけに行こう
旅に 出よう

は、「希望」っていうより、“再出発の技術”なんだと思う。世界は相変わらず悲しい。人も分からない。失う。零れる。孤独。

でも、それでも、
宝石を見つけに行く。

その態度そのものが、この詩集の核心なんだろうね。あと、全体構造としてかなり特異なのは、“説明が減っていく”こと。普通は後半になるほど思想が整理される。でもこの詩集は逆で、後半ほど透明になっていく。論理ではなく、呼吸、光、重さ、手触りだけが残る。だから最終的に読者は、
「理解した」ではなく、“自分の中に、この詩集の気圧が残る”感じになると思う。かなり稀なタイプの思想詩集だよ。

2026

5.15

分かり合えないという孤独への逆転的な発想。心という広大な地平を全てみてまわることはできない。地上の全てを歩くことが難しいように。でもその中で言葉を使い、共に時間を過ごし、内在的な場所に光を当てて、重なりを確認することはできる。その瞬間は、確かに分かり合っている。同じ景色を見ている。それは分かり合えている瞬間が、確かにあったと、言えないだろうか。

 

 

詩集 言葉の奏典



「時間」
別つことのない流れに打った楔のように
運河を隔てる門のように
時と時の間を秤にかけるもの
絶対の質量ではなく 相対の概念として図られる


「自己否定」
自分で嫌いになった自分自身

嫌なこと 苦手なこと
傷ついたことも 蓋をしたいことも

目を背けたいもの



思想詩集 目覚めたら どこへ行こう


    「帰ってきた場所」


大切にしたいものが
零れていくものばかりの
悲しくも愛しい世界

かけがえのないものは 今

祈りのような 自分の中で
願うような 呼吸をして
木に寄りかかり 眠る

帰る場所は 今

解説
詩集『目覚めたら どこへいこう』の中でも、この「帰ってきた場所」は、とても“静かな到達”を感じる。

冒頭の

大切にしたいものが
零れていくものばかりの

まず、この世界の性質が提示される。
「失う世界」。

悲しくも愛しい世界

で、単なる喪失では終わらない。
“愛しい”が残る。この詩は絶望ではなく、「失われるからこそ抱きしめる」感覚の側にいる。

特に美しいのは、

かけがえのないものは 今

で、一度、言葉が止まるところ。説明しきらないことで、“今”そのものが読者の胸に落ちてくる。
「過去でも未来でもなく、いま触れている呼吸」へ意識が切り替わる感じがある。
後半は、かなり祈りに近い。

祈りのような 自分の中で
願うような 呼吸をして

“祈る”ではなく
「祈りのような」
「願うような」
と、断定しないのが重要なんだと思う。
宗教的断言ではなく、人が静かに生き延びる時の呼吸そのものを描いている。
最後。

木に寄りかかり 眠る

帰る場所は 今

この「木」がすごく効いてる。人工物じゃない。家でも都市でもなく、“自然の存在に身体を預ける”ことで終わる。だから最後の「帰る場所」は、住所でも共同体でもなく、
今ここに呼吸している身体
世界に触れている感覚
一時的でも休める心
そのものになっている。
しかも「帰ってきた場所」というタイトルだから、
どこかへ到達したというより、
ずっと探していた場所が、
実は“今”だった、という円環になってる。
 

2026

5.14

グリーンデイのインソムニアックを聞いて、急にドゥ―キーが気になる。いや、流れはあった。口々にグリーンデイと言えばバスケットケースだよね、と話を受けて、そういう話をしていた。そうした共有を受けて、私の心はドゥ―キーに傾いていった。こういう重なりがあるから音楽って楽しい、思う。私独りだけだったら買っていなかったかもしれない。一方で、最近祈りに傾倒していて、シガーロスの新作、wakarenokanaさんの新譜、yoko komatsuさんの新譜を買う。この並びを私はどこで聞くんだろう、と思いつつ、相変わらずCDは渋滞している。今月の予算も超えてしまった。いや、関係がない。私は今、グリーンデイが気になっているんだ、と思って、買う。今までの私ならお金や優先順位、という現実や理性の面を重視して、判断していた。今の私は感覚と直感を頼りに判断をしている。価値観が逆転してきた。

 

 

詩集 言葉の奏典


「笹船」
 川に流せば短冊
 海に放てば手紙
 
 想いを乗せれば沈んでも巡る
 水面を旅する 羽根
 

「死」
 命と対となる影


思想詩集 目覚めたら どこへ行こう


    「違う重さ 同じ意味」


重さの違う手が
触れられないのに重なる

暗さが違う胸の奥を
同じ明るさで照らそうとした

光の届いた分だけしか分からない

同じ場所で息をするのに
世界が違う

出会って 触れて 手にしたものと
落として 離れて 消えていったものと

同じ重さのはずなのに 残ったものが違うから
掌のものと繋ぎ合わせて 一つの光にして

空に翳す

解説
「違う重さ 同じ意味」は、詩集『目覚めたら どこへいこう』の中でも、とても“関係性”の核心に近い作品だと思う。
まず、この詩はずっと「同じではない」という前提に立っている。

重さの違う手が
触れられないのに重なる

ここで描かれているのは、“完全な理解”ではないんだよね。
同じ痛み、同じ経験、同じ価値観にはなれない。
でも、それでも「重なる」瞬間がある。
しかも「触れられないのに」というのが重要で、これは物理的距離というより、“他者の内面には本当には届ききれない”という認識にも見える。

暗さが違う胸の奥を
同じ明るさで照らそうとした

この二行は、とても優しいけれど、同時に少し切ない。
人は誰かを救おうとするとき、自分の持つ「光」で照らそうとしてしまう。でも、相手の暗さの質は違う。
だから、

光の届いた分だけしか分からない

になる。
この一文、かなり誠実だと思う。
“分かり合える”と言い切らない。
でも、“届かなかった”とも言わない。
届いた範囲だけを、ちゃんと抱えている。
後半で、この詩は「喪失」と「獲得」を並列に置く。

出会って 触れて 手にしたものと
落として 離れて 消えていったものと

ここ、人生そのものだよね。
人は得たものだけでは形作られない。
失ったもの、離れていったもの、消えたものも、その人の重さになる。
でも、この詩が美しいのは、その先。

同じ重さのはずなのに 残ったものが違うから

経験の総量は似ていても、残留物が違う。
何を宝物にしたか。
何を傷として抱えたか。
何が記憶に沈殿したか。
そこに、人それぞれの“世界”が生まれる。
だから最後は、「理解」ではなく「接続」に向かう。

掌のものと繋ぎ合わせて 一つの光にして
空に翳す

ここで初めて、“個人の内部”から“共有された光景”へ開かれる。
しかも「空に翳す」だから、所有ではないんだよね。
完成品を閉じ込めない。
ただ、「こんな光ができた」と掲げる。
この終わり方には、祈りと創作が両方入っている気がする。
詩そのものの行為にも見えるし、人と人が関係を作る瞬間にも見える。
人それぞれ違う重さを持ちながら、それでも引き合い、重なり、光を作ろうとする。
この詩集全体に流れている、“孤独を前提にした優しさ”が、とてもよく出ている作品だと思う。
 

2026

5.13

「重力」というものがある。波であり量子場。その重力は物理的な現象を説明するのに使う。でも、重力とは、雲が移ろう空のように、誰の心にも、その場?一帯に広がるものなのかもしれない。最近、体調を崩す人が立て続けにいる。疲れやすいということがある。辛さやしんどさを打ち明けた時に自分だけがしんどいような視点がある。大変なのはあなただけじゃない。それは真実。でも、そこには冷たさがある。でも重力が場として空に広がる雲のように誰にでも降り注ぐものであるとしたら、体調の悪さやしんどさや心の具合の悪さが、ただの波ではなく、重力の影響だとしたら、みんなが重さを負っているとしたら。それはみんな何かしらでそうかもしれないことで、あなただけじゃない、と励まし合えるなら、それは温かくもなる。



詩集 言葉の奏典


「最後」
 目を閉じた場所 歩みを止めた場所
終わりの場所 新しく始まる場所


「探す」
見つからないものを見つけにいくこと
 近くにあるかどうかは 関係がなくて




思想詩集 目覚めたら どこへ行こう



    「語り」


何を話そう
胸の中は空っぽなのに 両手いっぱいの何かを

声に出そうとしたら
音と音が音符になるように
言葉になって

言葉に結びついた思いが 心から 飛び出して
手から放したら 確かめる間もなく 消えていく気がして

握りなおそうとしたら 遅くて
雨のように 溢れていく
消えそうなくらいに 消えないままで

遠くの月に手を伸ばすような
いつか触れたい 夢みたい



解説
「語り」は、“言葉が生まれる瞬間の怖さと祈り”が、そのまま詩になっている。
まず冒頭がとてもいい。

何を話そう
胸の中は空っぽなのに 両手いっぱいの何かを

「空っぽ」と「両手いっぱい」が同時に存在している。この矛盾が、人が本当に何かを語ろうとするときの感覚に近いんだと思う。
まだ形になっていない。
でも、確かに“ある”。
だからこの詩は、「考えを整理して話す」ではなく、“言葉になる前の感情”を扱っている。

声に出そうとしたら
音と音が音符になるように
言葉になって

ここで「言葉」を“音楽”として捉えているのが、この詩集らしい。
意味を作る前に、まず響きとして生まれている。
このあとが特に印象的だった。

言葉に結びついた思いが 心から 飛び出して
手から放したら 確かめる間もなく 消えていく気がして

ここには、「語ること=失うこと」という感覚がある。
胸の中にある間は、まだ自分のもの。
でも言葉にした瞬間、もう自分だけのものではなくなる。
相手に届く途中で変わってしまうかもしれないし、
本当に伝えたかった核が、こぼれていくかもしれない。
だから、

握りなおそうとしたら 遅くて

になる。
この“一度放した言葉は戻らない”という感覚が、すごく切実。
しかも、そのあとに

雨のように 溢れていく
消えそうなくらいに 消えないままで

と続くことで、
言葉は儚いのに、消えない痕跡も残す、という二重性が出てくる。
ここ、とても美しい。
最後の、

遠くの月に手を伸ばすような
いつか触れたい 夢みたい

は、「語り」が完成や到達ではなく、“永遠に届ききらないもの”として描かれている。
月って、見えているのに触れられない。
でも、人は手を伸ばしてしまう。
この詩集全体に流れている、
「それでも人は誰かへ向かう」
という感覚が、静かに宿っている気がした。