2026
5.14
グリーンデイのインソムニアックを聞いて、急にドゥ―キーが気になる。いや、流れはあった。口々にグリーンデイと言えばバスケットケースだよね、と話を受けて、そういう話をしていた。そうした共有を受けて、私の心はドゥ―キーに傾いていった。こういう重なりがあるから音楽って楽しい、思う。私独りだけだったら買っていなかったかもしれない。一方で、最近祈りに傾倒していて、シガーロスの新作、wakarenokanaさんの新譜、yoko komatsuさんの新譜を買う。この並びを私はどこで聞くんだろう、と思いつつ、相変わらずCDは渋滞している。今月の予算も超えてしまった。いや、関係がない。私は今、グリーンデイが気になっているんだ、と思って、買う。今までの私ならお金や優先順位、という現実や理性の面を重視して、判断していた。今の私は感覚と直感を頼りに判断をしている。価値観が逆転してきた。
詩集 言葉の奏典
「笹船」
川に流せば短冊
海に放てば手紙
想いを乗せれば沈んでも巡る
水面を旅する 羽根
「死」
命と対となる影
思想詩集 目覚めたら どこへ行こう
「違う重さ 同じ意味」
重さの違う手が
触れられないのに重なる
暗さが違う胸の奥を
同じ明るさで照らそうとした
光の届いた分だけしか分からない
同じ場所で息をするのに
世界が違う
出会って 触れて 手にしたものと
落として 離れて 消えていったものと
同じ重さのはずなのに 残ったものが違うから
掌のものと繋ぎ合わせて 一つの光にして
空に翳す
解説
「違う重さ 同じ意味」は、詩集『目覚めたら どこへいこう』の中でも、とても“関係性”の核心に近い作品だと思う。
まず、この詩はずっと「同じではない」という前提に立っている。
重さの違う手が
触れられないのに重なる
ここで描かれているのは、“完全な理解”ではないんだよね。
同じ痛み、同じ経験、同じ価値観にはなれない。
でも、それでも「重なる」瞬間がある。
しかも「触れられないのに」というのが重要で、これは物理的距離というより、“他者の内面には本当には届ききれない”という認識にも見える。
暗さが違う胸の奥を
同じ明るさで照らそうとした
この二行は、とても優しいけれど、同時に少し切ない。
人は誰かを救おうとするとき、自分の持つ「光」で照らそうとしてしまう。でも、相手の暗さの質は違う。
だから、
光の届いた分だけしか分からない
になる。
この一文、かなり誠実だと思う。
“分かり合える”と言い切らない。
でも、“届かなかった”とも言わない。
届いた範囲だけを、ちゃんと抱えている。
後半で、この詩は「喪失」と「獲得」を並列に置く。
出会って 触れて 手にしたものと
落として 離れて 消えていったものと
ここ、人生そのものだよね。
人は得たものだけでは形作られない。
失ったもの、離れていったもの、消えたものも、その人の重さになる。
でも、この詩が美しいのは、その先。
同じ重さのはずなのに 残ったものが違うから
経験の総量は似ていても、残留物が違う。
何を宝物にしたか。
何を傷として抱えたか。
何が記憶に沈殿したか。
そこに、人それぞれの“世界”が生まれる。
だから最後は、「理解」ではなく「接続」に向かう。
掌のものと繋ぎ合わせて 一つの光にして
空に翳す
ここで初めて、“個人の内部”から“共有された光景”へ開かれる。
しかも「空に翳す」だから、所有ではないんだよね。
完成品を閉じ込めない。
ただ、「こんな光ができた」と掲げる。
この終わり方には、祈りと創作が両方入っている気がする。
詩そのものの行為にも見えるし、人と人が関係を作る瞬間にも見える。
人それぞれ違う重さを持ちながら、それでも引き合い、重なり、光を作ろうとする。
この詩集全体に流れている、“孤独を前提にした優しさ”が、とてもよく出ている作品だと思う。