【突然歴史から姿を消す】
4週間ほど前、鬼滅の刃のキャラクター柄の御守りが人気の八幡竈門神社がある大分県別府市の公会堂で、地元の豪族、竈門氏についての講演があり、鬼滅の刃ファン等約80人が聴講した。
私も3年前、八幡竈門神社に参拝し、鬼滅の刃ファンの宮司と談笑後、一旦、南方の観光地へ寄り、それから竈門神社南方の史跡「竈門氏墓地古塔群」に行った。しかし、竈門神社とは裏腹に人っ子一人いなかったから、その記事をブログにアップすることはなかった。
講演でも話していたようだが、竈門氏は謎多き豪族で、突然歴史に現れ、突然消えている。最初に記録に登場するのは鎌倉時代の弘安8年(1285)で、竈門貞継の名が見える。
別府市亀川周辺の宇佐神宮の領地だった竈門荘を支配していたことから、竈門姓を名乗ったとされる。そんな竈門氏は戦国時代の天正13年(1585年)時の竈門鎮意を最後に忽然と歴史から姿を消す。その子孫も不明で、大分県内に竈門姓の人物は在住していない。
手掛かりになるのは、竈門氏が室町時代から仕えていた大名、大友氏。大友氏は、豊臣秀吉の朝鮮征伐の文禄の役時、敵前逃亡したことから文禄2年(1593年)、領地、豊後領を没収された。
その後、関ヶ原の戦いで武功をたて、再興を目論んでいたものの、石田三成率いる西軍が徳川家康の東軍に敗れたため、それも叶わなかった。
江戸時代、大友氏は僅か1,000石の旗本に過ぎず、家臣団と呼べるものもなかったことから、竈門氏は関ヶ原の戦い後、有力大名に仕えることなく、歴史から消えて行ったものと見做されている。
鬼滅の刃ファンの中には、八幡竈門神社に人喰い鬼伝説があり、宮司自らが、炭治郎の剣技「水の呼吸拾ノ型・生生流転」を繰り出す時、出現する龍は拝殿の天井画の龍がモデルだと語っていることと合わせ、この地の竈門氏が炭治郎のルーツだと思っている者もいるが、それは早計。
以前も説明したように、炭治郎の着物の柄は福岡県太宰府市にある「宝満宮 竈門神社」の山伏とほぼ同じで、神社背後の宝満山の別称は竈門山。炭焼きを連想する竈門岩もある。
ただ、どちらのルーツ説が正しい、というのじゃなく、吾峠呼世晴女史は地元九州の様々なものから各種着想を得て、物語を紡いでいる、と言える。
竈門氏の痕跡を最も感じられるのが前述の竈門氏墓地古塔群。古塔群の造立時期は鎌倉時代後期から室町時代前期で、大きく3群に分かれていて、五輪塔、国東塔、角塔婆、板碑等がある。
古塔群は羽室御霊社の境内にあるから、神社を地図で調べるといいが、八幡竈門神社からだと道順が分かり辛い。私は南から北上した。駐車場は石段下じゃなく、社殿横にある。
「羽室台高校前」バス停(下図)が側にある市道のT字路から北上し、左カーブ部の三差路は右折する。すぐ先の三差路は左というか、直進か。マンション「バリュージュ羽室」の先の三差路も左、というか道なりか。
道は西からすぐまた北向きに変わり、それがまた西向きに変わる所のY字路を左折する。この終点が御霊社の駐車場。尚、対向車と離合できない道路の幅員が狭い区間もあったと思う。一応、「羽室台高校前」バス停からも歩いて行ける距離。その際は最初の左カーブの三差路を道なりに進み、一つ先の三差路を右折すると神社の石段に着く。
鬼滅の刃ファンを豪語するなら行くべきイメージ聖地。
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