『 厨房理論 』
私は経営の中で、長年ひとつの考え方を持っている。
それを私は「厨房理論」と呼んでいる。
例えば、あなたが飲食店を経営しているとしよう。
調理人が5人、ホールスタッフが数人いる。
しかし、開店してみると客数は伸びない。
売上は目標に届かず、赤字が続く。
そこでオーナーである社長が従業員を集めてこう言う。
「もっと流行を勉強しろ。」
「今の時代に合ったメニューを考えろ。」
「このままでは店は潰れるぞ。」
すると調理人の一人が反発する。
「社長は料理ができるんですか?」
「食材の知識はあるんですか?」
「厨房に立ったこともない人に、そこまで言われる筋合いはありません。」
周囲の調理人たちも同調する。
「そうだ。」
「現場を何も分かっていない。」
そして組織は崩壊する。
この店が潰れた原因は、料理の味だけではない。
社長が現場を理解していなかったことにある。
もちろん、経営者が調理人になる必要はない。
料理人より料理が上手くなる必要もない。
しかし、一度も厨房に立ったことがない人間と、
少しでも厨房に立ったことがある人間では、
見える景色がまったく違う。
これが厨房理論である。
私はもともと金融機関勤務だった。
教育事業の経験はゼロだった。
にもかかわらず、建設業向け教育事業を創業した。
もし、
「教育事業の経験がなければ建設業向けの教育事業などできない」
という理屈なら、
私は最初から起業できなかったことになる。
だから私は現場に入った。
営業をした。
経理をした。
総務をした。
教材を作った。
クレーム対応もした。
そしてホームページも作った。
当時の私はHTMLの知識など全くなかった。
ホームページビルダーを買い、
試行錯誤しながら申込フォームや資料請求フォームを作った。
完成したときは達成感があった。
だが後になって分かった。
ホームページは作って終わりではない。
そこからが本当の勝負だった。
どんなボタンなら押したくなるのか。
どんな文面なら反応するのか。
どこに配置すれば申し込みが増えるのか。
今で言う導線設計である。
当時はアクセスカウンターを設置するホームページが多くて、数字の数が集客力を示すバロメーターになっていた。
毎日自分で何千回もクリックして帰宅したことさえある。
それだけで1時間はかかる作業だ。
今思えば笑い話だが、
その過程で私はWEBマーケティングの本質を学んだ。
そして驚くことに、
二十数年前に身につけた原理原則の多くは、
AI時代に変わろうとする現在でもほとんど変わっていない。
ツールは変わる。
技術は変わる。
しかし、
「人がどう動くか」
という本質は変わらないからだ。
経営者は全ての専門分野のプロになる必要はない。
だが、
少しは厨房に立たなければならない。
少しは営業をしなければならない。
少しは経理を見なければならない。
少しはシステムに触れなければならない。
その経験があるからこそ、
顧客目線で考えられる。
その経験があるからこそ、
現場で何が起きているのか理解できる。
その経験があるからこそ、
専門家との議論についていける。
そして何より、
その経験があるからこそ、
社員は経営者の言葉に耳を傾ける。
人は、
自分の仕事を理解しようともしない人間には従わない。
逆に、
たとえ未熟でも現場に立った経験がある人間には敬意を払う。
厨房理論とは、
「経営者は専門家になる必要はない。しかし、現場を少しでも経験しなければ、本当に見るべきものは見えない」
という考え方である。
そして私は、
経営者の仕事とは、
厨房に立ち続けることではなく、
厨房が見える場所に立ち続けることだと思っている。
『 創業当時 』
創業当時の私は、完全に“現場の人間”だった。
朝は誰よりも早く出社し、オフィスのごみを捨てる。
そしてスタッフが出社してくる前に、その日に発送するダイレクトメールの準備をする。
準備が終わると、電話営業を始める。
リストは電話帳だった。
「当社の教育はいかがですか」
そのトークを、一日中繰り返す。
昼になると銀行へ行き、振込を行い、小口現金を引き出す。
会社へ戻れば、
「パンフレットが足りない」
と気付き、印刷会社へ納期短縮の交渉をする。
夜になると、今度はホームページ作りだった。
当時の私は、ホームページの知識などゼロだった。
Yahooがまだ登録型のポータルサイトだった頃である。
それでも、
「これからは確実にインターネットの活用がビジネスでも必須になる」
そう確信していた私は、ホームページビルダーを使い、自社のホームページを作り始めた。
HTMLなど分からない。
それでも、とりあえず作ってみた。
いや、自分としては、特にトップページの出来はなかなかのものだったと、今でも思っている。
WEBマーケティングに答えはない。
トップページのボタンを赤にするのか白にするのか。
それすら、やってみなければ分からない。
だから、とにかく触る。
分からないことがあれば調べる。
試す。
失敗する。
またやり直す。
その繰り返しだった。
そんな中、完成した自社ホームページをYahooの「資格」カテゴリーへ登録申請した。
当時、Yahooに登録されることは、東大に入るより難しいとまで言われていた。
そして申請から約1週間後。
Yahooから一通のメールが届いた。
登録承認の通知だった。
思わず何度もメールを読み返したのを覚えている。
今にしてみれば、検索される土台に乗っただけの話かもしれない。
しかし、その時の私は確信した。
「建設業に特化した教育事業は成功する」と。
もちろん根拠などない。
だが、ネット社会の到来を感じていた。
そして何より、自分自身の力でゼロからホームページを作り上げたことが大きかった。
中でも最も苦労したのは申込フォームだった。
今思い返しても、なぜ自分にあれが出来たのか分からない。
約3カ月間。
試行錯誤を繰り返しながら取り組み続けた結果、専門知識のない自分でも形にすることができた。
その事実が私に教えてくれた。
限界はない。
あるとすれば、それは自分自身が勝手につくり上げているだけなのだと。
夜更け。
誰もいなくなった50㎡ほどの小さな事務所で、一人そんなことを考えていた。
これは設立から3年目頃の話だが、私の毎日は総務、営業、経理、ホームページ更新。
時にはパートやアルバイトの方の文房具が足りなくなれば、新橋の文房具店まで買いに走った。
会社運営に必要なほぼ全ての業務を担当していた。
その日やるべき仕事が全て終わる頃には、終電がなくなっていることも少なくなかった。
そんな日は会社に泊まった。
ドン・キホーテで買ったパイプベッドが私の寝床だった。
土日になると教育セミナー会場へ向かう。
机を並べる。
受付をする。
司会をする。
講義の準備をする。
朝から晩まで働き、土日も現場に出る。
休みという概念は、ほとんどなかった。
今振り返れば、完全に“馬車馬”状態だったと思う。
よく身体が壊れなかったなと思う。
丈夫な身体に育ててくれた両親には、感謝しかない。
だが、不思議と苦ではなかった。
成功したかった。
そして、自分の中にずっとあった問いがあった。
――金か、心か。
人生において本当に大切なのは何なのか。
その答えを、自分自身の人生で確かめたかった。
だから働いた。
朝も、昼も、夜も。
誰に言われたわけでもない。
ただ、自分で決めた道だった。
それだけで十分だった。
その頃の私は、まさか28年後に年間9万人近い受講生を抱える会社になるとは想像もしていなかった。
ただ目の前の一日を必死に積み重ねていただけだった。
Vol.32:第5章:生かされた日
疑いがあるという病気について徹底的に調べた。
治療期間は、約半年。
その文字を見た瞬間、
目の前が真っ暗になった。
当時の私は、完全なプレーイングマネージャーだった。
後継者育成。
事業承継。
組織化。
そんなものに、本気で向き合えていなかった。
毎日、自分が先頭に立って走ることで、会社を回していた。
もし、自分が半年経営から離れたらどうなるのか。
いや、もし死んだらどうなるのか。
その瞬間から、頭の中では緊急対応が始まっていた。
社員にはどう説明するか。
銀行には何と言うか。
資金繰りはいつまで持つのか。
当面の指揮は誰が取るのか。
次の社長はどう決めるのか。
家族は大丈夫か。
相続で混乱しないためには何を準備するべきか。
私は、成功ばかりを考えていた。
目標。
夢。
成長。
挑戦。
金と心。
それだけを見て走ってきた。
だが、そのとき初めて思い知らされた。
会社は、社長の健康ひとつで崩れることがある。
夢だ、目標だと言いながら、
自分はどこかで、
「目標のためなら、多少身体を壊しても仕方がない」
「二日酔いでも走ればいい」
そんな甘い考えを持っていたのだと思う。
だが、それは違った。
経営とは、成功を目指すことだけではない。
会社のステージに応じて、
組織化し、
権限委譲し、
次を準備していくことでもある。
それを、自分は後回しにしていた。
まさか、自分自身の健康が原因で、
すべてが崩れかけるなど、考えたこともなかった。
その現実を前にして、
私は初めて、自分の未熟さと向き合うことになった。
Vol.31:第5章:生かされた日
ー 生への執着 ー
「悪性リンパ腫が強く疑われる」
何も考えられなかった。
会社に戻る途中、道がわからなくなった。
頭が整理できない。
妻に伝えた。
両親に伝えた。
あまりに突然のことであり、泣き言を言ったのだ。
そのとき、自分の中にあった感情はひとつ。
「まだ死ねない」
それだけだった。
事業も、成功も、まだ何も決着していないじゃないか。
ただ、生への執着心だけは失わず、
それだけを強く願っていた。
だが、その一方で、
私は別の恐怖にも襲われていた。
もし、本当に治療が始まったらどうなるのか。
まず、自分の病気について徹底的に調べた。
5種類の抗がん剤治療。
免疫力低下。
感染症対策。
長期療養。
治療期間は、約半年。
その文字を見た瞬間、
目の前が真っ暗になった。
Vol.30:第5章:生かされた日
ー すべてが止まった日 ー
2013年2月。
相変わらず二日酔いの日々と一人何役もこなすプレイングマネジャーの日々だった。
突然、声がおかしくなった。
声がかすれて、裏声のようになったのだ。
それでも放置していた。
自分には止まっている時間などない。
だが、2カ月後、
思い立って耳鼻咽喉科に行った。
そこで、自分の人生は止まる。
「上咽頭に腫瘍があります」
頭が真っ白になった。
悪性の可能性もあります、30%位。
約4カ月、検査結果を待つ時間は、地獄だった。
そして告げられた。
「病理検査の結果からは、悪性リンパ腫が強く疑われる」という説明だった。
何も考えられなかった。
Vol.29:第5章:生かされた日
「クソどもが」
そう思った。
だが、何もできなかった。
黙って見ているしかなかった。
その情けなさと屈辱を、今でも忘れない。
そのとき、20代と思えるスーツを着た若者に声をかけられた。
「あの方は凄いだろう。カリスマだよ」
そう言って、私にビニール製の集金袋のようなものを渡した。
「ワインが足りない。フロントに言って、ありったけ持ってこさせてくれ」
袋の中を、ふと見た。
一万円札の束が、ぎっしり詰まっていた。
その瞬間、理解した。
これが、金の力か。
人を集め、
場を支配し、
心すら引き寄せる。
あの場にいたすべての人間が、
金に引き寄せられているように見えた。
そして同時に、こうも思った。
人の心だけは、金で手に入れてはいけない。
それだけは、絶対に違う。
その確信だけが、自分の中に残った。
Vol.28:第5章:生かされた日
ー あの夜に見た、金の力 ー
なぜ、自分はそこまで酒に金を使うようになったのか。
その原点は、15歳のときに見た、あの光景にある。
伊豆下田の会員制ホテル。
プールサイドで行われたパーティー。
そこには、自分がそれまで見たことのない世界があった。
経営者たち。
モデルのような女性たち。
豪華な酒と、異様な熱気。
最初は紳士的に見えた男たちが、
酒が進むにつれて、姿を変えていく。
大声での自慢話。
下品な会話。
女性たちを奪い合うような空気。
私は、その場で言葉を失った。
いや、正確には、怒りで震えていた。
「クソどもが」
Vol.27:第5章:生かされた日
飲む量とペース、
そして使った金額だけで言えば、
“飲みの王者”だったと思う。
一人で飲むわけではない。
仲間を連れて行く。
部下を連れて行く。
その場にいる全員分の酒代を払う。
それが当たり前だった。
タダ酒飲みも群がってきていた。
月曜会という、週の初めから気絶するほど飲む、
いまでは考えられない飲みもあった。
圧巻だったのは、
黒田節を謡いながら醤油皿で日本酒を飲み干す奇行を行う者もいた。
今振り返れば、
ただの惰性だったのかもしれない。
楽しかったのも事実だ。
だが同時に、
飲まずにはいられなかった。
日中激しく動き、考え続けていると、
次の日までの時間が妙に長く感じられることがあった。
そんな時、私は酒を飲みながら、
仲間やスタッフと、これからの事や事業の構想を語り合いたくなった。
言うなれば、酒は今日の高ぶったテンションと、
明日へ向かう気持ちの隙間を埋めるパテのような役割だったのだ。
Vol.26:第5章:生かされた日
自分の人生で、
どうしても語らなければならないことがある。
それは、酒のことだ。
自分は長い間、
いわゆる“二日酔い主義”を公言していた。
仕事が終われば飲む。
週に何度も飲む。
学生時代から、それは変わらなかった。
酒に強いわけではない。
だが、飲む量とペース、
そして使った金額だけで言えば、
“飲みの王者”だったと思う。
