義父とのお別れ(2023.5.12) | 大切な時間

大切な時間

『普通の事を出来ることが何よりの幸せ』そう思うことが出来たのは、病気になったからかも知れません。毎日の暮らしを大切に、家族に作る食事を中心に楽しみながら更新しています。たまに我が家の猫マサヒロも登場します。




おはようございます晴れ
5/12(金)義父が亡くなりました。
(亡くなった義父は岳父と呼ぶようですが)
お通夜もお葬式もお天気悪く、寂しい冷たい雨の降る2日間でした。

2017年からレビー型認知症を患っての生活は大変で、1年余りで施設でお願いすることになり、 2018年12月に脳梗塞で救急搬送されて4年半。意思疎通出来ない状態で、経管栄養だけの長い闘病生活だったため、身体は細くなり痙縮や拘縮の激しい姿を見るのも辛かったので、『やっと楽になれたね』という思いは、家族皆んなが同じだったと思います。

去年の夏、母の体調が悪くなり我が家に1週間来ましたが、その後難病の血管炎だと判明し入院。父が2度目の救急搬送の連絡で向かっている時、入院中の母がコロナ感染と連絡。その後も同時進行で違う病院に入院し、手続きも病院からの呼び出しも大変でしたが、兄弟で手分けして連絡を取り合いながらなんとか半年間過ごしました。施設在籍しながら入院2ヶ所の支払いも半端ない金額で、いろんな意味でも大変な半年でしたが、年末には母が、年明けからは父も退院し、両親2人とも同じ住居型有料施設にお世話になっていました。父の状態はいつ何があってもおかしくない状態だと伺っていたので、亡くなるまでの間、連絡くるたび頻繁に施設に顔を出し、息子たちや孫にも何度も会え、父も喜んでいたと思います。

先月からはこれまで以上に、皆んなで頻繁に顔をだしていたのですが、今月10日、マサヒロが朝から嘔吐。長毛猫なのでこの季節はよく吐くのですが、毛玉?って思うほど水を飲んでもすぐ吐いておかしいので、動物病院に連れて行く事に。車に乗せて出かけようとした時、だんじりさんから電話でお父さんが体調悪いようなので向かうと連絡。『おまえはとりあえず猫を連れてってくれ』との事なので、家族LINEを見た娘さんが向かってくれました。この日、父はかなり辛そうだったようで、2人とも長くないと思った様子ですが、体調落ち着いて来たようで夕方帰って来ました。

翌朝5時前に父の夢を見て目が覚め、リビングに降りてきたらだんじりさんも起きていて、『なんだかお父さんの夢を見て嫌な予感するから、仕事休めるなら朝から会いに行かない?』と話したら、『俺も嫌な予感がする』と言うので出かける準備をしていたら、5時45分に施設から電話。容態が悪いようなので、弟にLINEだけ入れてすぐ向かう事に。7時に到着した時は、父の容態は落ち着いていて大丈夫そうなので、マサヒロが気になるので10時に一旦西宮に戻る事に。11時に家に着くとマサヒロは嘔吐していて、今度はマサヒロ点滴に連れて行くことに。夕方にもう一度電車で行ってくると言うだんじりさんに、お昼ご飯を作り食べていたら13時に『心停止しました』と連絡。弟奥さんに電話で伝え親戚に連絡とってもらい、マサヒロ気になりながらも、私達は急いで岸和田に向かう事にしました。

私たちが到着してから母に父の死を伝える事になったようで、同じ施設に居たのに最後は1人だったの?と、なんだか複雑な気持ちになりましたが急変したんでしょうね。朝は体温を感じた父も、到着した頃には冷たくなっていて、私の父も義父も最後に立ち会えなかった悲しみと色んな感情が込み上げて来ました。私たちが到着してまもなく、娘さん到着。弟奥さん、弟さんと順に駆けつけてくれ、担当医の死亡確認後、死因は多臓器不全と言う説明でしたが、先生や施設のスタッフさん皆さんに、『本当に最後まで頑張られてました』と褒めてくれていました。本当に頑張り過ぎぐらい頑張ったと思います。お世話になった皆んなに見守られながら、夕方施設を出る事になりました。

父を施設から出し、弟夫婦と共に葬儀の手続きや打ち合わせをして帰ったのは21時。家に着くとマサヒロはまた嘔吐していて、もうどうしていいのかショボーン。翌日お通夜だったので、朝イチまた嘔吐していたマサヒロを点滴に連れて行き、事情を話したら先生が預かってくれる事に。心配と預かってくれる安心感とで涙が止まらなくて、だんじりさんも周り困惑気味でしたが、猫も家族なので嘔吐してる子を2日も放置できないし、ホテルは体調悪いと預かって貰えないし、本当に困ってたので先生には感謝の気持ちでいっぱいになりました。

マサヒロの事が何とかなったのですが、私が疲れていると悪いからと、夜中に帰って来ていた娘ちゃんが病院行ってる間に、床を綺麗に拭いてくれたり、出かける準備をしてくれたりしてくれていたので、すぐに出発する事が出来、13時に母を施設に迎えに行けました。母はお昼を食べてないと言うので、私たちもそう言えば朝から何も食べてないって事で、4人で近くに食べに行く事に。前日からまともに食べてなかったので、この時はしっかり食べました。


支払いは『私がおばあちゃんにご馳走したげる』と娘ちゃんにご馳走になり、15時からは担当者と最終打ち合わせ。16時半からは弟夫婦と上の娘さんも加わり納棺式。父の好きなものを並べ、父の昔話をして父に触れ言葉をかけたら、楽になってよかったと思おうと思っても、色んな思いが込み上げて来て涙が止まらなかったです。

だんじりさんの身内は皆んな楽しい人ばかりで、お通夜の後は部屋に上がって皆んなで食事してお喋り。20時には母と娘さんを送り、21時ごろには皆んな解散。だんじりさんと、見た目怖いけど話し上手な弟と娘ちゃんで泊まり、4名で遅くまでお喋りして過ごしました。

翌日の告別式は息子ちゃんも来てくれ、親しい親族だけで最後のお別れ。バスで火葬場に行き、その後用意した食事をしながら皆んなで昔話で盛り上がりました。食事は思っていた以上に良くて、母は大丈夫?って勢いで食べるので弟奥さんと心配していたのが的中で、骨拾いの時体調悪くなりました。私も火葬場に着いた頃から足がおかしくて歩きにくく、従姉妹に支えて貰いながら移動(^^; 母は弟奥さんが付き添ってくれましたが、この頃から身体に異変が。

最寄駅で弟家族を下ろし、その他身内は斎場まで戻り解散。私たちは、一旦お骨を実家に連れて帰り手を合わせ、施設には黒衣服で戻れないので3人とも着替え、その後荷物を持って母を送って行きました。その後は父の退去手続きと荷物の引き取り、お骨や遺影はうちに連れて帰る予定で用意していましたが、母が部屋に置くと言うので施設に許可を貰い部屋に入らせて貰ってセッティング。父もきっと母の側で喜んでいる事でしょう。

私たちが西宮に着いたのは20時過ぎた頃で、動物病院の先生に連絡したら体調良くなってるから迎えに行くことに。マサヒロはとっても元気になっていて、迎えに行ったら嬉しそうでした。先生には改めてお礼に行きましたが、本当に助かりました。

この日は疲れ過ぎて、何も食べずお風呂にだけ入って寝ましたが、全身凄い痺れでとにかく左手肩からと脚全部おかしい。かなりやばそうなので、とにかく動かず寝る事に。翌日もご飯はUberとお弁当屋さんで済ませて貰いました。2日横になっていたおかげで、痺れは左脚と左腕までと右の足首からまでに治って来たのに、なぜか木曜日は微熱が出てまた脱力。18日は母の病院付き添いで行く予定でしたが、私が体調悪いから弟夫婦が代わりに行ってくれました。同じ日だんじりさんは朝8時前に出発して、ベルコ、実家、施設、役所と用を済ませ夕方帰宅。帰って来たころ、弟夫婦から連絡で先日した胃カメラの結果が悪いと言う知らせ。遅くまで手続きにかかった様子です。夜も皆んなで話し合いましたが、満中陰までに今日は年金の手続きと役所、母の入院とまだまだ予定が続きそうです。本人でないと50万以上の引き出しや振込出来ないので、ほんと手間アセアセなんとかならないものですかねショボーン

だんじりさんと2人で、親を見送るって大変だと実感しています。兄弟仲良しなのが1番の救いで、相談出来る人がいるって本当に大切だと感じます。昨晩弟夫婦は『長男の嫁やからって頑張ってたけど、何でも言ってくれたらするよ』っていってくれるので、まだまだ色んなことが起こりそうだから、助けてもらいながら自分の出来る事をする事にします。自分の身体も労わらないとね。自分が!って思うこの性格直らないのよね(⌒-⌒; )。父を見送ってからはぐーたら主婦してるから、復活出来そうなくらい身体楽になって来ました。大学病院には体調伝えてるけど、次のMRIと受診まで大人しく過ごせばなんとかなるそうです。

最後のお別れには立ち会えませんでしたが、家族皆んな『やっと楽になったね』と思っているはず。人の死にはいろんな形があるのだと、親の死をもって勉強することばかりです。和歌山の父の時同様に、『お母さんは任せてね』と伝えたので、私も元気でいないとね。父のおかげで、娘達もなかなか会えていなかった従兄弟同士とも会え、また昔のように会う機会を作ろうと話しているのも父のおかげです。

寂しくなりますが、新しい家族も増え、家族の形も少しずつ変わっていくんでしょうね。母達には父達以上に後悔のないように、今まで以上に親孝行して行けたらと思っています。

いつもアバウトなだんじりさんですが、喪主をきちんと務め上げました。100点満点です。


ありす



3回忌を終えた和歌山の父の時の別れはこちら。
まだ信じられない不思議な感じです


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