先日、マーラーの「復活」から、私がカルマを連想したというエピソード
↓
を書きました。
この「カルマ」という言葉、
みなさんは耳にしたことがありますか?
日本語だと、業(ごう)ともいいます。
英語でもサンスクリットからそのまま
Karma という言葉になっています。
Karma のもとの意味は、「行為」「アクション」です。
そこから、派生して、
「業」「運命」というもうひとつの意味が生まれました。
古代インド人は、
当然、輪廻転生を信じています。
ですから、過去の行動は
これから起こることに、何がしかの影響を与えると考えます。
これを、カルマの法則といいます。
つまり、
その人の在り方・考え方、
そして「行為」の内容によって決められるのが
「カルマ(宿命)」という意味ですね。
一般的には、
こちらの語法のほうが、広まっているようです。
さて、「バガヴァッド・ギーター」
という古典は、
最高神クリシュナが勇者アルジュナに語った言葉として、
物語が展開される叙事詩。
この中で、3つのヨーガについて語られる部分があります。
・行為のヨーガ=カルマ・ヨーガ
・知識のヨーガ=ジュニャーナ・ヨーガ
・信愛のヨーガ=バクティ・ヨーガ
この3つのヨーガすべてが、
ヨーガという絶対の境地には必要であると、されます。
つまり、行為(カルマ)と知識と信愛がお互いに高めあって、
「ギーター」の説くヨーガは完成するのです。
ちなみに、わたし達が行っているポーズ(=アーサナ)中心のヨガは
広い意味での「行為のヨーガ」の一部となります。
それに対して、「知識のヨーガ」とは、
哲学的な思索・研究、瞑想によってヨーガの境地にいたる道のことです。
人が果報を期待せず、執着を離れ、愛憎なく定められた行為をなす時、
それは純質的な行為と言われる。
「バガヴァッド・ギーター」 (第18章23節)
「純質的」な状態は、グナ(世の中の全ての物の構成要素)のひとつで、
ヨーガの境地に到る前段階の状態とされます。
“行為の結果に期待したり執着したりせず、
自分のするべき行為を行うことが、ヨーガの境地へとつながる“
"結果にとらわれることなく、行為する・実践する"
・・・どこかで聞いたことがありますね。
そうです!
「ヨーガ・スートラ」の
アビャーサ(実践)と
ヴァイラーギャ(離欲)が、連想されます。
詳しくは、こちら
↓
実際に行動していくことは、大事です。
しかも、結果にとらわれることなく・・・。
難しい・・・でも、大切なこと。
ヨガの哲学、ひいてはヨガ的な生き方には、
通奏低音のように流れる、根っこの考え方のように、
わたしには感じられます。
上の引用で「ギーター」が説いていることを要約すると・・・
古代インド人は、輪廻転生を当たり前に信じていますから、
過去に生きた自分の行為が、
現在にも影響をあたえていると考えます。