きのうは、”ヨーガの目的達成への2本柱” のうち、実践・練習を意味する 「アビャーサ abhyasa」 を取り上げましたが、今日は、もう一本の柱である 「ヴァイラーギャ vairagya」 です。


見られた、聴かれた対象への欲望がない者の、克服した意識が、「ヴァイラーギャ」である。 (I: 15)


その最高のものは、「プルシャ」を知覚した者の、「グナ」への欲望も離れたものである。 (I :16)



 「ヴァイラーギャ vairagya」 とは 英語では、Dispassion または Detatchment と訳されることが多く、「俗事に無関心なこと、欲望・情熱の欠如、欲望からの自由」などを意味するサンスクリット語です。


ちなみに、語源的には ”「ラーガ」 から離れること”となりますが。この「ラーガ」とは、先日のエントリーでも取り上げた、仏教の 「貪・瞋・痴(トン・ジン・チ)」といわれる三毒のうち、はじめの「貪る」にあたります。


「アビャーサ」との関連から、私なりに解釈すると、練習・実践を通じ、自分のやるべきことをコツコツと続けていくことで、いつしか努力を努力とも感じなくなり、頑張らなくても自分の一部になるまでになる。


と同時に、結果にとらわれることなく、一歩引いて物事をながめられるようになり、自分の中に冷めた部分ができてくる。”冷静な情熱”とでも言うべきバランスに到達するのではないかと。


これが「ヴァイラーギャ」のきわめて個人的な理解ですが、例えていえば、結果にしがみつくことをやめ、「波」に乗るといったイメージでしょうか。


わたしの中では「手放す」という言い方がしっくりします。


この「練習」と「手放す」という対になった考え方は、音楽やスポーツにも当てはまる瞬間があると思います。


音楽でもスポーツでも、基礎的な練習をコツコツと積み重ね、自分ができる限りの努力を重ねますが、本番や試合になったら、その場の波に乗り、今までの努力を手放し、結果への執着を手放すことで、かえって実力を発揮できるという場面があるのではないでしょうか。


・・・とだいぶヨガの伝統的解釈からは、話がずれてきましたので、ここで BKS アイエンガー氏の解釈で締めくくりましょう。


「アビャーサ」はヨガのポジティブな面、「ヴァイラーギャ」はネガティブな面である。この二つは日と夜、吸気と呼気のように互いにバランスを保つ。修行は八肢則全てにわたるものである。外向きに(発展的に)自己発見へと進むには、ヤマ、ニヤマ、アーサナ、プラーナヤーマが、内向きに自制・放棄の道へは、プラティヤハーラ、ダーラナ、ディヤーナ、サマディが関わってくる。この内なる旅においては、外的対象から意識を離すものである。 (I章12節の解説より、私訳による)


  「Light on the Yoga sutras of Patanjali 」 より


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翻訳はサイト ”サンスクリット原典で読み解く「ヨーガ・スートラ」”による


http://archive.mag2.com/0000235863/20070726090000000.html?start=60