ランチジャー | PRAINSのブログ

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昭和38年生まれの僕は昭和45年4月に小学校に入学し

昭和51年3月に卒業したが小学生時代の6年間は学校給食だった。

同年昭和51年4月に中学校に入学したのだが

当時母校の長浜中学校は学校給食がなくお昼ご飯は手弁当か

アズマパンが移動販売車で売りに来るパンを買うかの二者選択だった。

当時はコンビニなんてない時代だし基本的には朝学校に入ると

授業が終わるまでは校外に出るのは禁止でしたしね。

 

地球温暖化が進んだ今の時代と違って比較的温暖な呉でも当時

冬は気温が零度になる時もざらで春や秋も今よりずっと寒かった。

当時長浜中学校はまだ木造校舎だったので教室に隙間風も入ってた。

中学入学当時僕は母が作る手弁当を持って行っていたが

弁当箱は当時の定番だったアルマイトの弁当箱だった。

 

所が或る日クラスメイトが魔法瓶の構造を活用した

水筒を大きくしたような黒い物体を持ってきた。

それが今では珍しくも何ともない保温弁当箱だった。

アルマイトの弁当箱は当然の事ながら昼食の時間になると

ご飯もおかずも冷めて冷たくなるが保温弁当箱を持ってきた友人の

弁当はご飯もおかずも温かく味噌汁なんて湯気が出てた。

 

それから瞬く間に保温弁当箱はクラスに浸透して

多くのクラスメイトが保温弁当箱を持参するようになった。

確かあの頃僕らの間では保温弁当箱をランチジャーって

呼んでたような記憶があるがランチジャーってのは

元々は象印魔法瓶の商品名だったみたいですね。

 

 

ちなみに日本初の保温弁当箱は大阪・グロリア魔法瓶製作所が

昭和39年に発売開始した「ランチャー」という商品らしい。

てか、この手の魔法瓶関連の商品は呉では象印かタイガーが

メジャーだったしグロリア魔法瓶ってメーカー初めて聞いた(笑)

 

しかしランチャーは内側がガラスで出来ていたので

かなり頑丈に外をステンレスで覆わないと

破損しやすかったため今よりも見た目はかなり大きいらしい。

 

初めて保温弁当箱に汁容器を組み入れたのが象印だそうで

その商品名が「ランチジャー」で僕たちが中学に入学した

昭和51年に発売され、その後他社も追随したそうだ。

だから僕たちが中1の時にランチジャーが一気に

広まったって事なんでしょうね。 ジャンジャン!!