クライマックス | PRAINSのブログ

PRAINSのブログ

昭和と趣味と日記のブログ
車・バイク・音楽・映画・ファッション・釣り・ゴルフ・・・
時々、我が町「呉」と お仕事「美容」、「美味い物」
よろしくお願いいたします!

 

1979年(昭和54年)3月、クールスロカビリークラブは

トリオ移籍後5枚目のシングルになる「クライマックス」と

4枚目のアルバムとなる「NEW YORK CITY N.Y.」をリリースする。

 

<ジェームス藤木・談>

 

前アルバム「THE COOL」のセールスが好調だった事もあって

次のアルバムはニューヨークで録音する事になった。

「NEW YORK CITY N.Y.」と名付けられたこの作品の

プロデューサーは1978年(昭和53年)にリリースした

前シングル「センチメンタル・ニューヨーク」に続いて山下達郎。

 

達郎が是非やりたいって言ってくれたんだ。

俺の音楽を理解してくれた気がして凄く嬉しかったよ。

現地ではシャ・ナ・ナのマネージャーがいろいろ面倒を見てくれたんだ。

 

 

<ジェームス藤木・談>

 

このアルバムの収録曲の中では「CLIMAX」が印象に残ってる。

この曲のルーツにはカンツォーネがあるんだ。

ジリラオ・チンクエッティの「ラ・ピオッジア」って曲があるじゃん。

「雨」という邦題でヒットした曲なんだけど

あのベースラインを下敷きにしてる。

 

達郎がアレンジしたトラックを聴いた時は俺のデモテープと

ずいぶんイメージが違うものに仕上がっていたんでかなり驚いたよ。

達郎はとにかく何もかもよくやってくれた。

 

クレジットこそされてないけどコーラスや

パーカッションも受け持ってくれた。

「LOVE CHANCE」には達郎の声がしっかり入ってる。

 

 

シングル「クライマックス」アルバム「NEW YORK CITY N.Y.」が

リリースされた1978年3月25日時点で僕は中学校の卒業式を終え

受験に合格した呉工業高校への入学を控えてた頃だった。

 

長浜中学校という呉の片田舎の少人数の中学生だった僕は

凄く風紀が乱れてると噂されてた呉工業への入学は

期待と不安に気持ちが揺らぐ心境だった。

中学の同級生たちは皆小学生の時からの幼馴染だが

高校に入れば他校の見知らぬ猛者たちと相まみえる事になる。

 

しかし僕の不安は希薄に終わる。

目立った同級生たちと直ぐに打ち解け仲間となり

主だった先輩たちに凄く可愛がってもらい先輩たちの

たまり場になってたアパートにも出入りするようになる。

「NEW YORK CITY N.Y.」はそこのアパートでよく聴いた。

今でもこのアルバムを聴くとたまり場だったアパートを思い出す。

 

 

「NEW YORK CITY N.Y.」収録のフランクさんが歌う「クライマックス」や

ムラさんが歌う「ラブ・チャンス」も大好きな曲だが一番好きなのは

ピッピさんが歌う「追憶」という切ないバラードだ。

 

この曲は別れた女性の事を思う男の気持ちを綴った曲だが

当時15歳のヤンチャ盛りの僕にも悲しく切ない別れもありましたからね~

今でも「追憶」を聴くと何人かの女性の当時の顔が思い出されますよ(笑)

今思えばそれも青春の1ページだし大人になった今の感覚で言えば

全然大した事でもないんですが15歳の僕はまだ純だったという事だ。

 

と、いう事だが「NEW YORK CITY N.Y.」のアルバムを最後に

クールスのツインボーカルだったピッピさんが脱退してしまう。

そして刺激的だった1970年代が終わりを告げ

大人への階段を駆け足で上がる事になる1980年代が

幕を開けたのだった。ジャンジャン!