ハイスクールクイーン | PRAINSのブログ

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1977年(昭和52年)舘ひろしさん脱退後クールス・ロカビリー・クラブと

改名したCOOLSは6月にシングル「ハイスクールクイーン」と

アルバム「クールスロカビリークラブ」をリリースする。

 

<ジェームス藤木・談>

 

77年、クールスはトリオレコードに移籍、バンド名を

「クールスロカビリークラブ」と改めた上で再出発する事になった。

同時にマネージメントの面では上条英男と専属契約を結んだ。

 

心機一転してリリースする新しいアルバムのために俺を始め

クールスのメンバーたちはオリジナルの楽曲を色々準備していた。

そのデモテープを携えて臨んだ会議の場に上条はプロデューサーを

名乗る一人の男を連れてきた、その男の名はロビー和田。

そのロビー和田が思ってもみない事を提案した。

 

トリオ初のアルバムは自分がプロデュースする。

楽曲制作はすべて外部に依頼し演奏も仕事の早い

スタジオミュージシャンに任せるんだと言う。

それを聞いて心の中では疑念を抱きはしたものの世間知らずだった

俺たちは雰囲気に押され何となく承諾してしまった。

 

 

で、レコーディングだけど、ロビー和田お抱えスタジオ

ミュージシャンによるリズムトラックの録音はたった2日で終わった。

そのサウンドからはロックンロールのフィーリングが

まったく感じられず、魂がまったく入っていなかった。

いかにも手癖で商業的に作られた感じでね。

 

クールスのメンバーがヴォーカルとコーラスを重ねてアルバムは

完成したがレコーディングに要した期間は全部で1週間。

物凄く効率のいい仕事っぷりだよな(笑)

 

あれだけ節約して浮いた金はどこに行ったんだろうって思ったよ。

それに作詞作曲の印税はごっそりロビー側に持っていかれてしまった。

クールスはこのアルバムの曲をライブで演奏した事がない。

にっちもさっちも行かないので上条に対して契約解消を申し入れた。

 

 

1977年(昭和52年)6月にリリースされた「ハイスクールクイーン」は

作詞・高坂実、作曲・大浜和史と聞いた事ない名前がクレジットされている。

B面の「ロンリー・ベースマン」も作詞は高坂実、作曲がロビー和田。

 

当時の僕は中学2年だったが、確かに舘さん在籍時と雰囲気は変わったが

当時はジェームスさんが仰ってるような事情も知らないし

ハイスクールクイーンを含むクールスロカビリークラブというアルバムも

これはこれでアリだと思ったし、よく聴いたし

あの頃を思い出す曲も多い思い出深いアルバムでもある。

確かにクールスのライブでこのアルバムの曲は聴いた事はないが(笑)

 

調べてみると上条英男さんという方は西城秀樹、川島なおみ

浅田美代子、ジョー山中、安西マリア、小山ルミ、ゴールデンハーフ、

カルメン・マキ、吉沢京子、五十嵐じゅん、三東ルシア、

チャコとヘルスエンジェル、貴水博之など名だたるスターたちを

自分一人の手腕でスカウトし、デビューに導いた経緯がある。

ロビー和田さんは和田アキ子、松崎しげる、西城秀樹、葉加瀬太郎等の

プロデュースを手がけた日本の音楽プロデューサーのようだ。

 

まあ彼らも黒い噂はあるようだが実際当時の芸能界は

反社と関りがあるのは当たり前だし博打打ちも多い。

キャロルだって当時の所属レコード会社やプロデューサーの

ミッキー・カーチスさんに騙されたって永ちゃんが著書で語ってる。

そんな世界だったという事だろう(笑)

 

 

個人的には、このアルバムは楽曲にも思い入れがあるが何と言っても

アルバムジャケットのムラさんの赤いブレザーが琴線に触れた。

高校生になってアイビーショップで見かけた時はどうしても欲しくて

学校サボって立ちんぼの土方のアルバイトに数日行って買った。

 

赤いブレザーはハーバード、白いパンツはJUN

この恰好で暴走族集会に行くと超超目立った事は言うまでもあるまい(笑)

この時のブレザーは劣化が激しく捨てたが「三つ子の魂百まで」

その後買い直して今でも赤いブレザー愛用してます!

ジャンジャン!!