<COOLS ジェームス藤木・談>
1978年(昭和53年)
クールスは新しい展開を図るという意味で一枚のシングル
「センチメンタル・ニューヨーク」を制作することになる。
作詞・作曲ともに俺のオリジナルだけど
この曲で初めて山下達郎と仕事をする事になる。
プロデュースを委ねられた達郎はレコーディングに
お抱えのミュージシャンとエンジニアを連れてきてくれた。
演奏はクールスではなく、エンジニアも含め達郎一派だね。
16ビートを基調にした複雑なアレンジは達郎のバックを務める
ミュージシャンだから対応できたと思う。
あれはクールスには出来ない。
今までのクールスの殻を破った曲になったと思う。
このシングルでは、コーラスをフィーチャーしてサウンドを厚くしている。
そこら辺の趣味は達郎と共通していて
彼の曲もコーラスが効いているものが多いよね。
この曲は元々、アン・ルイスからの依頼を受けて作ったものなんだ。
その頃ハーフのタレントを集めた映画を作る構想があって
その中で使われる予定だったんだ。
でも映画の企画がポシャって、アン・ルイスがあの歌を
歌うという話も消えてしまった。
もしアン・ルイスがセンチメンタル・ニューヨークを
歌っていたら、俺にとって新たな展開が生まれていたかも知れないな。
メロディを歌うボーカリストによって曲はガラッと変わるから
アン・ルイスの世界観も聴いてみたかった。
この1年後、彼女は達郎が提供した「恋のブギ・ウギ・トレイン」を
リリースするから、ああいう方向性を求めていたんだろうね。
達郎とは音楽の趣味がぴったりで、あっという間に意気投合したよ・・・
<トリオレコードプロデューサー 増井淑博・談>
ジェームスにとっての不幸は、クールスというイメージが災いして
音楽家として正当な評価を受けられなかったところ。
近田春夫や山下達郎といったプロの目利きは認めてくれたけど
その見方が一般レベルまで下りていくことがなかった。
そして、やつがせっかくいい曲を書いても
それを100%生かしてカッコよく歌ってくれる
ヴォーカリストに恵まれなかったのもかわいそうでした。
それはクールスの中だけの話じゃない。
職業作家として羽ばたく可能性があったと思うんですよ。
一度アン・ルイスに曲を書き下ろすという話があったのに
いろいろ回り回って結局ポシャってしまった。
もしもこの話が実現していれば、ジェームスにとっての
アン・ルイスは、佐藤隆にとっての高橋真梨子の桃色吐息みたいな
存在になっていたかも知れないのに・・・
クールスのシングル「センチメンタル・ニューヨーク」が
リリースされた時、僕は中学3年生だった。
センチメンタル・ニューヨークを初めて聴いた時に
僕はそれまでのクールスとはまったく違ったサウンドに聞こえた。
それは後に山下達郎さんがアレンジをしたからだと知る事になる。
当時まだ達郎さんはブレーク前だったが僕はシュガーベイブを
聴いてたし、CMソングで達郎さんの歌声も耳にしてたので
なるほど~、達郎さんがアレンジするとこうなるのか!
この人は凄い才能なんだな~って思ったんですよね。
しかし、この曲が元々アンさんへの提供曲だったのは知らなかった。
この頃アンさんは「女はそれを我慢できない」とか
「女の顔にスリルが走る」をリリースし、それまでの
清純派アイドル路線からツッパリ風にイメチェンした頃だった。
ジェームスさんの、この話を聞いてセンチメンタルニューヨークと
恋のブギ・ウギ・トレインに似た世界観も感じた。
達郎さんが作った、恋のブギ・ウギ・トレインは名曲だ。
しかしこの話を聞いて少なからず達郎さんは
ジェームスさんや、センチメンタル・ニューヨークを
意識、参考にしたんじゃないかとも思うのだ。
僕は当時クールスもアン・ルイスもどちらも聴いていただけに
アンさんが歌うセンチメンタル・ニューヨークも聴いてみたかった。
ジャンジャン!!