CAROOLS 70’s (5) クールスロカビリークラブ | PRAINSのブログ

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さて、何やかんやで今年6月13日以降やっていなかったキャロル&クールス1970年代
アルバムと共に当時のエピソードや世相、僕の思い出を振り返るシリーズ「CAROOLS 70’s」ですが
先日のTHE DREAM NIGHT ”REMEMBER 昭和”の記事の中で
「当日僕は赤いブレザーを着ると決めていた」と書きました
 
その種明かしをする意味合いもありシリーズCAROOLS 70’としては
時代考証的にも順番抜かしでもありますが1977年6月にリリースされたCOOLS
「クールスロカビリークラブ」というアルバムにスポットを当てて書き進めてみたいと思います
 
 
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A1、HIGH SCOOL QUEEN 2、ROCKIN' NIGHT 3、KEEP A KNOCKIN'
4、I’M IN LOVE 5、RUMBLIN' MAN
 
B1、LOMELY BASSMAN 2、TEENAGE GIRL 3、ホットな気持ち
4、MACK THE KNIFE 5、LONELY BLUE BOY
 
 
1977年(昭和52年) 6月も終わろうとしてたある日
今にも泣き出しそうな梅雨雲が空を覆っていた日の放課後
当時中学2年生だった少年は親友と二人でチャリに乗りの町に来ていた
 
少年たちが目指した所は当時広交差点から国道沿いに東に少し行った所にあった
「第一産業」という名の電気屋さん
 
少年の目的は先日リリースされたばかりのCOOLSのニューアルバムを買うという事だった
 
レコード売り場は正面入り口から入った真正面にあった
少年は「ク」の段からクールスを探し出しお目当てのLPを手にした
 
そのクールスのLPは舘ひろしさんが脱退してCOOLS ROCKABLLY CLUBと改名され
トリオレコードに移籍した第1弾アルバム「クールスロカビリークラブ」というLPだった
 
アルバムジャケットを見た少年は衝撃を受けた
 
「ぶちカッコえ~!」 笑!
 
クラッシックなハーレーに触ったと思われる真面目そうな青年の胸ぐらを
筋肉隆々の秀光さんが掴み恫喝している
 
キングレコード時代には革ジャンにジーンズというイメージだったクールスのメンバーは
思い思いにドレスアップしたジャケットやスーツに身を包んでいる
 
ーこういうのをロカビリーって言うんじゃろうか・・・?
 
てか、これは余談だがこのLPジャケットの写真イメージは実際に
事前にストーリーを考えて撮影された物だそうだ
 
この話は先日のTHE DREAM NIGHT ”REMEMBER 昭和”の時に
ジェームスさんから直接教えて貰った事だから間違いない
 
場所は当時の東京のディスコのハシリみたいな店の前でゲリラ的に行ったと言われていた
ちなみにアルバムジャケットに写ってる赤いチェックのワンピースを着ている女性は
秀光さんの当時の奥様らしい 笑!
 
 
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ちなみにこのアルバムはCOOLSの歴史の中で最大の駄作とも一部では言われている
 
実際に僕はクールスがこのアルバムの曲をステージで演ってるのを一度も見た事がない
(実際には演った事はあるのだが)
 
それはなぜか?
 
これも先日ジェームスさんが言われていたし当時のクールスの事を書いた元メンバーの
大久保喜市さんの著書「ストレンジ・ブルー」にも書かれているが
要は移籍したトリオレコードの人達に体よく騙されて出来上がったアルバムだからだ
 
当時クールスはさんが脱退して新たな局面を迎えていた
舘さんはそのままキングに残りソロでデビューする事が決まっていた
 
それより先にアルバムをリリースしたかったトリオはクールスのオリジナルの曲を却下
トリオ主導の作曲家・作詞家で曲を作り、演奏もスタジオミュージシャンを使い
ボーカル入れだけクールスが行ったという作品にしてしまった
 
アルバムはCOOLSのネームバリュームでそこそこは売れたらしいが評価は低く
クールスにとっても思い入れのないアルバムになってしまったという事だろう
 
ま、当時の少年はそんな事知らないしキング時代とサウンドは変わったとは思ったが
このアルバムはアルバムで好きな曲もあるし思い出も多いアルバムの一つになったのだが・・・
 
 
 
 
 
HIGH SCOOL QUEEN / クールスロカビリークラブ 1977
作詞・高坂実 作曲・大浜和史&MIKI
 
 
君に捧げる僕の心は 夜空にまたたく 星屑のようさ
 
君は町中のあこがれの娘 誰も近づけない OH MY BABY HIGH SCOOL QUEEN 
腰をふりながらウインクすれば うしろついてくる YES SHE IS MY HIGH SCOOL GIRL
 
ひと目で恋をした 恥ずかしがらないでも 君は俺のものさ 打ちあけたよ
いつものところで 待ってるあの娘 早くキスしたい OH MY BABY HIGH SCOOL QUEEN 
 
ハーイ! ハニー! 
 
COME ON FOLLOW ME  I WAN'NA MAKE LOVE TO YOU TONIGHT
YOU LOOK SO SWEET  いかしてるぜ
 
君は一番の気取り屋の娘 みんな口笛ふく OH MY BABY HIGH SCOOL QUEEN 
二人でかわした このクラスリング 誰も知らないのさ YES SHE IS MY HIGH SCOOL GIRL
 
ひと目で恋をした 恥ずかしがらないでも 君は俺のものさ LOVE YOU LOVE YOU BABY
いつものところで 待ってるあの娘 早くキスしたい OH MY BABY HIGH SCOOL QUEEN 
 
 
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アルバムB面最後の2曲「MACK THE KNIFE」「LONELY BLUE BOY」は英語のカヴァー曲だが
少年は他の曲は歌詞カードなしでも歌えるくらいに聴き込んだ
 
少年にとってはそれくらい思い入れを持って聴いたアルバムになったが
実はもう一つ少年にとって深く脳裏に焼き付いた物があった
 
それがアルバムジャケットに写るムラさんが着ていた赤いブレザーだったのだ
 
1977年当時の少年はまだアイビーって物もコンチって意味もよく知らない
 
赤いブレザーって言えば古い映像や雑誌で見る1964年の東京オリンピックの
日本選手団が着ていた物や前年に行われたコマネチフォーバーに沸いた
モントリオールオリンピックの日本選手団の制服くらいの認識しかなかった
 
ーあの赤いブレザーはどこに行ったら売っとるんじゃろうか・・・
 
長浜という田舎者の少年にとって当時はまだVANショップなんて気軽に出入りできるような
店ではなかったしVANがどっちを向いてるのかもよく知らなかった 笑!
 
 
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それから月日は流れ暦は1979年(昭和54年)になり少年は高校1年生になっていた
 
高校生になった少年は2学期が始まった頃無免でHONDA CB 400FOURを買って
あれやこれやとドレスアップに精を出していた
 
先輩から買ったフォーワンの月賦やバイクのパーツ代を稼ぐために少年は
当時ニチイと言われてた広のデパート内にあった「やじきた」という飲食店でバイトに励んでいた
 
その前年だったかニチイのライバル?だったジャスコが近所にオープンしていた
そのジャスコの中の紳士服売り場に確か「ミクニ」だったと記憶しているが
今思えばアイビー系のショップが入っていた
 
そこにディスプレーされていたのがムラさんが着ていた真っ赤なブレザーだった
思いがけない出会いに少年の心は中学2年の時の衝撃が蘇った
 
ー欲しい・・・
 
そう思ったが高校1年の少年が気軽に買えるような値段ではなかった
バイト代はほとんどバイクにつぎ込んでいたからお金がない
 
そこで少年が思いついたのは学校を休んで”立ちんぼ”に行くという事だった 笑!
 
”立ちんぼ”って言うのは呉の方言かもしれないが分かりますかね?
 
当時前田病院の前に朝、作業服を着て立っていると土木業者
土木作業員として日雇いしてくれるというシステムがあったんですよね
 
確か当時の立ちんぼの相場が1日5000円くらいだったと記憶していますね
 
たかが5000円と言うなかれ
 
当時は喫茶店でバイトしても時給350円の時代ですからね 笑!
 
 
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少年にとって学校を休む事なんて然したる問題でもなかった
それでなくても学校生活の1/3は停学だったしやりたい放題の学校生活でしたからね~ 笑!
 
しかし今思えば「欲しい」とか「やりたい」って思ったらどんな方法を使っても
必ず実現するって性格はこの頃始まったような気がします
 
バイクもそうだしだって無免で買ったし秀光さんのお店「チョッパー」
革のファラオコートを特注したのもこの頃だった
 
もちろん自慢できるような事でもないし親を騙したり他にも悪い事もしましたけどね 
ま、その分痛い目にも数多く遭いました 笑!
 
で、買った真っ赤なブレザーは「ハーバード」ってメーカーのブレザーだった
さすがにブレザーエンブレムはムラさんのドクロは手に入れる事は出来ませんでしたがね 
 
ちなみにアイビーの老舗だったVANは前年の1978年倒産していた
白いパンツは呉の”JUN”ショップで、はメーカーは覚えてないがホワイトバックスを買った
 
この恰好で当時の土曜日の夜暴走族やってる本通りを歩くと誰もが振り返った
自己満足の優越感を感じたし注目される快感を知ったのもこの時だったかもしれない
 
だって少年を含め当時の族やってる連中や見物人の多くの恰好は・・・ 笑!
 
 
 
 
 
TEENAGE GIRL / クールスロカビリークラブ 1977 作詞・作曲 伊藤銀次
 
ハロー TEENAGE GIRL ひとりぼっちの TEENAGE GIRL 
ラストダンスは僕と踊ろう 夜が明けるまで ルルル
 
ハロー TEENAGE GIRL はにかみ屋の TEENAGE GIRL 
恋にあこがれてる 内気な子供 TEENAGE GIRL 
 
だれかにふられたのかい 悲しい顔して
そんな子供みたいな おまえが好きさ OH-OH-OH
 
ハロー TEENAGE GIRL 涙ふいて TEENAGE GIRL 
今夜からは僕が守ってあげるから ルルル
 
だれかにふられたのかい 悲しい顔して
そんな子供みたいな おまえが好きさ OH-OH-OH
 
ハロー TEENAGE GIRL ひとりぼっちの TEENAGE GIRL 
ラストダンスは僕と踊ろう 夜が明けるまで ルルル
 
ハロー TEENAGE GIRL ハロー TEENAGE GIRL・・・
 
 
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真っ赤なブレザーを中学2年の13歳の時に見て憧れた当時の少年は52歳になった
 
三つ子の魂百までですよ
 
だからこそTHE DREAM NIGHT ”REMEMBER 昭和”の時には
絶対に赤いブレザーにグリーンのネクタイ、白いパンツに白い靴だと決めていたんですよ
 
しかもそのイベントは自分達の手でプロデュースしたイベントだった
本家本元のクールスのムラさんや自分の家族の前で少年の時憧れた赤いブレザーを着た事は感慨深い
 
「クールスロカビリークラブ」LPジャケットを見て衝撃を受けた1977年から38年も経った2015年
こんな日が来ようとは当時まだ13歳だった少年は夢にも思っていなかった
 
ま、完全な自己満足の世界ですけどね! 笑! ジャンジャン!!
 
 
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おまけ
 
 
キャロルジョニー大倉さんが逝って早1年が経った
 
と、いう事で11月8日 銀座KENTO'Sにてジョニー大倉一周忌追悼特別公演
JOHNNY FIRST MEMORIAL LIVEが行われたようだ
 
ライブは生前のジョニーさんやクールスのムラさんが中心になって活動していた
BONDS OF ROCK'N ROLLのメンバーを中心に行われたが
な、な、何とライブには元クールスピッピさんの姿が・・・
 
 
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まあ生前のジョニーさんとピッピさんは旧知の間柄だから分からぬでもないが
ムラさんとピッピさんが同じステージに上がって歌ってるなんて
オリジナルCOOLSファンにとってはまさに夢の共演
 
いや~ あくまで僕の想像ですがこの共演に尽力した人は
さぞかし骨が折れたんじゃなかろうか・・・
 
内情はいろいろあるんでしょうが一人のクールスファン、ピッピファンとしては
特別ゲストでもいいからピッピさんとクールスの共演が見たいですな~!