呉の歴史と大和ミュージアム 14 | PRAINSのブログ

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                              前回4月12日シリーズ「呉の歴史と大和ミュージアム 13」
                                  原爆投下によってとどめを刺された東亜戦争について
                                     当時海軍工廠で働いておられた方の手記を元に
                              終戦直前の呉の様子や玉音放送及び終戦日の事を執筆した
 
                    次の展開をどう書こうかと思案しているうちに半年以上の時が経ってしまったが
                正直言ってこのシリーズは書くのが難しいので自然消滅さそうかとも思っていた 笑!
 
                     しかしそれではいけないと思い、もう少し頑張ってみようと再び重い腰を上げた
                             まあ別に誰に頼まれた訳でもないし自分の為でもあるんですがね 
 
                                         と、いう訳でさっそく記事の方に移ろうと思います
 
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                                               (大破した巡洋艦「青葉」 昭和20年10月9日 呉市警固屋沖)
 
 
                      戦後連合軍占領された呉市ですが戦後処理復興と課題は山積みで
                     それまで海軍に頼っていた現状からどう立ち直るかと言う事だったそうです
 
                       呉湾近郊には廃墟となった海軍艦艇が無数に放置されていたそうですが
                            連合軍の占領政策の一環として兵器の解体が成される事になり
                                    海軍艦艇はすべて引き揚げられ解体されたそうです
 
               その作業には呉工廠の造艦技術者として活躍されておられた方達も加わったそうです
 
                      敗戦の結果とはいえ自分達の手で精魂込めて建造した艦艇を破壊する事で
                生活の糧を得る事は断腸の思いであったと当時の技術者の方は述べられたそうです
 
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                                   戦災の跡が残る呉市街では闇市が繁栄したそうです
 
                                闇市は上の写真の四ツ道路三条通りが有名だったそうで
                         闇市に行けば金さえあれば ほとんどの生活必需品が揃ったそうです
 
                                     更には進駐軍相手赤線が次々と出来たそうで
                         貧困に喘ぐ呉市民とは対照的に歓楽の町という側面もあったそうです
 
                    米兵は金があるから日本人の女を買って遊び夜の町は賑やかだったそうです
                        呉は全国でも有数の赤線の町になり沢山の混血児が生まれたそうです
 
                     更には復興への公共事業の利権や焼け野原になった土地の権利問題等で
                            暴力団が幅を利かせるようになり事件・事故も多発したそうです
 
                 ここから始まったのが呉のもう一つの歴史として有名な「仁義なき戦い」という訳です
           だから東亜戦争仁義なき戦いは少なからず関連がある史実なんですよね
 
             先日お亡くなりになった菅原文太さんが演じられた広能さん(劇中名)も
                 海軍に所属されていた特攻隊員の生き残りの方だったんです
 
         だからこそ僕は今後観光地としての呉の経済効果を考えた時に「仁義なき戦い」も
                  前面に押し出した方がいいと勝手に思ってるんですよね
 
         それらの発端は間違いなく東亜戦争からの流れであり「大和ミュージアム」と共に
         「仁義なき戦いミュージアム」を建造すれば呉の目玉になると思うんですがね~・・・
 
                                更には暴力団進駐軍との間にトラブルも多発したそうです
             進駐軍は日本に逮捕権がない事をいい事に好き放題する輩も少なからずいたそうです
 
             しかし逆に進駐軍の小麦粉5000トンを積んだアメリカの食糧船ルーベル・チプトン号での
                             食糧援助も実施され飢えに苦しむ呉市民を救ってもくれたそうで
                             ルーベル・チプトン号の呉港入港は呉市民に歓迎されたそうです
 
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     昭和20年の幾度に及ぶ呉空襲では呉市民1869人の命と22000戸の家が失われたそうです
 
           住む家がなくなった人達は防空壕で寝起きしたり知人を頼って同居したり
                 海軍から借用した大きなテントで生活していたそうです
 
           防空壕の中は異臭が漂い不衛生で伝染病なども発生してたそうですよ
            戦争により亡くなった人も悲劇ですが生き残った人も地獄ですよね~
 
                    そうした中で呉市戦災対策協議会が開催され
           海軍において5000戸三角式応急住宅(三角兵舎)が供給されたそうです
 
                  こうした大量の三角兵舎が短期間で建設できたのは
             海軍があらかじめこの日が来るのを想定して戦時標準住宅を考案し
               計画的に同一規格の資材などを備蓄していたからだそうです
 
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                                             (大和ミュージアムより)
 
                    戦後の呉には沢山の戦災孤児がいたそうです
 
                 戦争孤児は食べる物もなく空き缶を持っては家を回り
              残り物の食べカスを恵んでもらうという生活をしていたそうです
 
            もちろん学校にも行けず進駐軍の靴磨きをして生活していたそうです
            学校に行っていないから教養もなく就職もままならなかったそうです
 
              彼等は物貰いをしてボロを身に付け苦しい生活に耐えながらも
                野良犬同然に浮浪者として野垂れ死んでいったそうです
 
                一方学校へ行く子供達も食べる物は貧窮していたそうで
                  給食は米軍のヘリコプターから運動場に投下された
                     ドラム缶に入った脱脂粉乳だったそうです
 
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        海上自衛隊の前身は旧海軍出身者で編成され艦船は旧海軍の残存艦船でした
 
             戦争中にアメリカ軍によって投下された機雷の処理をする掃海艦艇
               侵略戦争の政策で海外に行っていた日本人(軍人、軍属など)の
                   引き揚げをする復員艦船がその任務の中心でした
 
                  写真は掃海艦艇によって爆破された機雷の様子です
 
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                     昭和22年には昭和天皇陛下の巡幸があり
             呉市二河公園で陛下は復興激励の言葉をおかけ下さったそうです
 
                  昭和天皇陛下の巡幸は呉市民の復興への意欲の
                       大いなる精神的支えになったそうです
 
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                                            (大和ミュージアムより)
 
      戦後の呉の最大の課題は海軍が消滅してしまったところからどうやって立ち直るかでした
 
         その悩み・迷いのなかから、海軍施設の平和的利用をしようという考えが生まれ
       1950年(昭和25)6月に「旧軍港市転換法」が呉市民の圧倒的支持をえて公布されました
 
            それは「平和産業港湾都市」として呉が歩んでいく第一歩になりました
            こうして焼け野原になった呉は復興への道を歩んで行ったという事です
 
              時は流れ今ではこうした体験をした方も残り少なくなっています
               我等の故郷である呉はこうした歴史の元に今があるんです
 
                    こういった事を知り、後世に伝えて行く事が
               我々現代の呉市民にとって大事な事ではないでしょうか!
 
                            フゥ~疲れた! 笑!
               さてさて、この続きはどうなるのやら!? ジャンジャン!!