さて、カテゴリー「わが町呉」においてシリーズで執筆してる「呉の歴史と大和ミュージアム」も
終戦を迎えた所まで書き進んで一段落したと言う事で今後は戦後の復興と言う事をテーマに
書こうと思っているのですが、このシリーズは下準備に時間と動力がかかるという事で
どうも重い腰が上がらない 笑
と、言う事で今日は呉の海軍に纏わる現存する建物を一つご紹介しようと思います
今後この企画もシリーズ化しようと思いますが例の如く不定期になると思います
で、呉の海軍の遺産と言えばまずは呉地方総監部庁舎(旧呉海軍鎮守府庁舎)となると思うのですが
僕は父親が自衛官だったという事もあり↑の青山クラブ(旧呉海軍下士官兵集会所)の方に
個人的に思い出や思い入れがあるんですよね
青山クラブはJR呉駅から東側に徒歩5分の位置の呉線ガード下に建つ
旧呉海軍下士官兵集会所だった建物で現在でも自衛隊の
福利厚生施設として使われています
建物のデザインはインターナショナルスタイルでまとめられてあり
特に北側のコーナーは丸みを帯びておりエントランスになっていたようです
てか、ここは呉では通称「集会所」と言われていて僕は子供の頃
自衛官だった父に連れられてよく来た記憶があります
当時はこの中にボーリング場などの遊戯施設もあり理容室も入っていた
一般の理容室より散髪代も格段に安かったので僕はここで髪を切らされていた
この場所は終戦まで旧海軍エリアと呉市街地の境界であった場所で
海軍エリアへの玄関口でもありました
ここから南側には練兵場・司令長官官舎・鎮守府庁舎・海軍工廠などの
軍事施設が広がっており、かつてはこの建物の前を多くの軍属や工員が
行き交っていたそうです
写真トップのエントランスもこういった場所性を意識して設計されたそうです
またこの建物はコの字の街区型配置であるため、中庭が備わっています
この中庭を囲む回廊部分にもちょっとした意匠を巡らせているようです
写真左奥に見えるのは現在「呉海上自衛隊音楽隊」が使用している建物です
尚、桜松舘とは日露戦争で沈没した軍艦吉野と高砂を記念して
吉野の「桜」と高砂の「松」から命名されたそうです
もともとこれらの建物は明治36年(1903)に下士官・兵のための厚生施設として設置されました
当初は「呉海軍下士卒集会所」という名称だったそうですが大正10年(1921)に
「呉海軍下士官兵集会所」に改称されたそうです
写真は明治36年に建てられた初代の建物です
今とぜんぜん違いますな~
昭和11年(1936)に現在の地上3階・地下1階・一部塔屋付きの
鉄筋コンクリートの建物が完成したそうです
昭和31年(1956)以降は海上自衛隊呉音楽隊や
防衛庁共済組合の青山クラブとして使用されています
う~ん、僕の記憶が正しかったら僕が子供の頃は外壁の色って
現在の煉瓦色じゃなくベージュか白だったように思うんですがね
この写真はモノクロなのでハッキリした事はわかりませんが
これ見ても煉瓦色じゃないように見えるんですが・・・
終戦直後の呉海軍下士官兵集会所は連合軍の主に英国軍の宿舎になっていたそうです
実際に数年前まで集会所は一般の人の宿泊も可能だったそうです
現在はもう宿泊する事は出来ないそうですが知っていれば・・・残念ですな~
漏れ聞く所によると現在呉市ではこの建物を撤去する話があるそうですぞ
この建物も呉が誇る旧海軍の遺産ですぞ
どうも呉市は歴史的建造物に対しての価値観が薄いように思えますな~
市役所庁舎だって市民ホールだって歴史的建造物だと思うんですが
簡単に建て替えるって事になっちゃってる・・・
集会所だって丁寧に補修すれば素晴らしい歴史的建造物として残せると思うんですがね~
大和ミュージアムのように博物館や記念館として利用するように出来ないのか・・・?
まあ大手を振って建築に大金をつぎ込んでいた旧海軍時代と違って
呉市の財政は破綻しそうだって噂もありますが何とかならない物か・・・
それこそ大分の中津城みたいにネットで所有者を募ってみてはどうなんだろうか?
日本の為に戦った多くの人の思い入れがある建物ですぞ!
一度壊したものは二度と元通りにはなりませんからね~
行政の方にはよ~~く考えていただきたいと思いますね!
と言う事で今日はこれまで!ジャンジャン!!
尚、明日からお店は連休になりますからブログの更新も来週になります
それではみなさん、よい週末を!
おまけ
写真は1946年(昭和21年)、終戦直後の呉市警固屋沖に放置された
大破着底した巡洋艦「青葉」ですが、昨日ご来店いただいたお客様が
実際にこの現場をご覧になったのをハッキリ覚えていらっしゃるって言われてた
当時彼女は6歳だったそうですが近所の男の子が漕ぐ伝馬船に乗って
青葉の近くまで行ってマジマジとみんなで見たそうですぞ
写真で見るより実際の方が悲惨な状態だったと写真を見ながら懐かしんでおられました
彼女も、この悲惨な歴史を後世に伝えて行くのは大事な事だとおっしゃってた
僕も心からそう思いますね~・・・