自分のルーツを辿ってみる 14 ミヤニシ時代 | PRAINSのブログ

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    さて、久しぶりのシリーズ物ですが自分のこれまでの人生を振り返ってみるという企画物である
          「自分のルーツを辿ってみる」、前回6月25日の記事の続きになります
 
15歳で不良と呼ばれた僕が高校を中退して ひょんな事から美容師という仕事に出会い美容学校に入学した
    大人への階段を上がっていく中でいろんな人に出会い影響を受けながら幾多の経験を積んでいく
 
  就職したミヤニシでも超問題児として周りに迷惑をかけながらも今振り返ってみれば本当の社会人として
                 生きて行くための試練を僕は味わっていたんだとも思います
 
     時の記憶が曖昧な所もありますが1983年(昭和58年)ブラウン管に颯爽と現れた彼らの曲が
          日本中を熱狂の渦に巻き込んでいた、そんな時代だったと記憶しています・・・
 
 
    ギザギザハートの子守唄/チェッカーズ  1983  作詞:康珍化 作曲:芹澤廣明

              ちっちゃな頃から悪ガキで  15で不良と呼ばれたよ
              ナイフみたいにとがっては  触るものみな傷つけた

            あー わかってくれとは言わないが  そんなに俺が悪いのか
            ララバイ ララバイ おやすみよ  ギザギザハートの子守唄・・・
 
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     ちっちゃな頃は悪ガキとは呼ばれていませんでしたが(笑)15では立派な不良と呼ばれた僕も
         何とか1982年(昭和57年)にミヤニシという美容室に就職が決まりました
 
  当時僕は18歳でしたが見た目こそミヤニシの先輩達の影響で変わってはきましたが精神的な部分は
   15歳の不良と呼ばれた頃とさして変わってはいなかった、その為に幾多の問題を起していくのです
 
     さすがにミヤニシへ就職してからは警察の御厄介になるような事件は起こしてはいませんが
        大人にも社会人にもなり切れていない僕はナメたような言動・行動に終始します
 
   さすがに見かねた宮西先生の逆鱗に触れるのですが当時まだ血気盛んな僕も負けてはいません
     若気の至りとは言えスタッフルームで先生の胸ぐらを掴み「辞めてやる」と宣言してしまう
 
     事情を聞いた先輩の城戸君に諭され 先生に陳謝して退社には至りませんでしたがそれで
     更生したかと言えば決してそうではなかった・・・前回までのあらすじは そんな所まででしたね
 
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      そんなナメた僕の当時のエピソードの一つに運転免許の取得という事がありましたね
僕は1981年(昭和56年)当時17歳に無免許で車を買い事故を起して2年間の免許取り消しになっていた
      1983年になり2年を終了したという事で免許が取れる時期になっていたんですよね
 
          当時、男にとって免許・車というのは三度の飯より重要な物だった
     しかし当時のミヤニシでは とても自動車学校に行かせてくれと言える状況ではなかった
             で、僕がとった行動は・・・病気になる・・・という事だった 
 
    まあ詳しく書くと法律違反のような事になるので書けませんが要は会社を騙し、自動車学校を騙し
  僕は念願の運転免許を取得したんですよね しかも取り消しになった自動二輪中型免許も取得しました
 
          免許を取るためにはリスクも承知の上と言うくらいの腹をくくっていた
     まあ今考えたら決して褒められた事ではないし本当にナメていたとしか言えませんがね 笑
     そして念願の日産スカイライン、通称ハコスカ(写真トップ)を購入するに至ったのである
 
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   さて、仕事の方はと言うと僕はスタッフ最年少という事もあり先輩スタッフからは可愛がっていただき
                ある意味、居心地のいいポジションでやっていましたね
 
 精神的にも肉体的にも辛かったシャンプー地獄も1983年(昭和58年)になり後輩が入社してきて楽になった
 
   後輩と言っても新入社員は全員同級生だったんですよね、僕は高校を中退しているから同級生より
                 美容学校に行くのも就職したのも一年早かったんですよね
 
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      前出の宮西先生との確執も何とか乗り切り先輩達には可愛がってもらいプライベートでは
      ハコスカ・ヴェスパ50S・ヤマハSR400と次々に車・バイクを購入し楽しくやっていた
             当時の給料は全て乗り物や洋服代に消えていましたね
 
        当時僕に最も足りなかったのは今思えば「仕事への向上心」だったと思いますね
    本来、物作りは好きで得意分野ではあるんですが美容の技術は一朝一夕に身に付く物ではない
               努力をしない僕は技術の進歩が遅れていたということです
 
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         ある意味、大人になって それまで知らなかった世界が見えてきた
 
        車・バイク・ファッション・遊び・夜の盛り場・・・刺激的な事が多すぎて・・・
                   仕事どころではなかったんですよ
 
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             そんな僕に転機が訪れるのは1984年(昭和59年)の事だった
 
   上の写真は1984・1・15の成人式の時の物ですが この時僕はまだ この1984年がある意味自分の
           人生のターニングポイントになる年だとは露とも思っていませんでしたね
 
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   ミヤニシに就職して3年目の1984年、技術練習が嫌いな僕も何とかカットの練習と言う所まで来ていた
       4月になり更に後輩が入社してきた、さすがの僕も後輩に抜かれるわけにはいかない
 
     かと言って、そんなに焦りもない、ただ単にぼんやり技術練習をしているという状況だった
              そんなある日宮西先生から重大なニュースが発表された
 
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     何と先生を含め技術者がロンドン ヴィダル・サッスーン研修に行くという計画だった
 
                   その間、半月間お店は休みになるという事だ
 
      それを聞いた時僕は「店が半月休み? ラッキー!」 と思ったのが正直なところだった
  まさかまだ一人前の技術者ではない僕はロンドンに行こうなんて夢にも思わなかったのである
 
   休みの間に憧れだった東京に遊びに行き先輩のヒサシ君の所へでも泊めてもらおうと思っていた
 
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              ところが それは先輩の城戸君の一言で覆されることになる・・・
 
                「馬鹿かお前、お前もロンドンに行くのよ!」
 
         「え~、でもワシまだカットもよく分からんし そんなお金もないし・・・」
 
    「金は銀行で借りるんよ これはチャンスで! カット云々の話じゃのうて最先端の
          ロンドンやサッスーンを見て視野を広げる事が大事な事よ・・・」
 
   尊敬する先輩である城戸君の一言は重い・・・そして僕は悩みロンドンに行く決意をする事になる
 
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            この新聞は1984年(昭和59年)9月16日(日曜日)の中国新聞
               当時の社長だった宮西先生のお兄さんはこう語っている
 
      この秋、おかげさまで私たちは創業十周年を迎えることになりました(中略)
            創業以来、私たちはあらゆるヘア・ファッションの技術
              そして感性を磨くことをモットーにしてまいりました
 
     最新のヘア・モードをはじめ、世界中からファッションの情報が日本にやってきます
   それをいちはやく皆様にご紹介し、素晴らしいヘア・ファッションをお楽しみいただきたい
 
   そんな思いを込めて、この度ロンドンのサッスーンとジングルス両校のカット・スクールに
                ヘア・デザイナー7名が研修留学いたします
 
     今から大いにはりきっている留学スタッフたち、帰国の上はよりインターナショナルな
            技術とセンスでお喜びいただけるものと確信しております・・・
 
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                   トップ・スタイリスト 城戸和男
 
      サッスーンでの研修はもちろん、ロンドンの過激なファッションにふれてきます
               ぐっと感性に磨きをかけてお目にかかります。
 
                   トップ・スタイリスト 山下久人
 
             ロンドンは、僕の大好きなパンク・ファッションの街
      そのスピリッツを僕流にアレンジしてお客様に提供してゆきたいと思います。
 
 
       う~ん、当時正式な技術者じゃなかった僕がトップ・スタイリストになっている 笑
   当時一$250円の時代です、僕はこの研修で銀行で100万円借りて毎月返済していく事になります
 
                こういう経緯で僕はロンドンに行く事になったんですよ
        1984年、人気に火が付いたチェッカーズがこんなヒット曲を飛ばしていましたね
    そんな曲をお送りして今日はこれまでにしようと思います、続きはまた今度!ジャンジャン!!
 
 
 
 
     涙のリクエスト/チェッカーズ 1984  作詞・芹澤廣明  作曲・売野雅勇   

                  涙のリクエスト 最後のリクエスト

最後のコインに 祈りをこめて Midnight D.J  ダイヤル回す あの娘に伝えて まだ好きだよと
トランジスタのヴォリューム上げて 初めて二人  躍った曲さサヨナラなんて 冷めたすぎるね
       ヒドイ仕打ちさ  オレの送った 銀のロケット  今では違う 誰かの写真
          イイサそいつと 抱き合いながら  悲しい恋を 笑ってくれよ

   涙のリクエスト 最後のリクエスト  
涙のリクエスト 最後のリクエスト for you・・・
 
 
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           おまけ
 
                高校を卒業して某企業で働いていた大明神
            左の友人が1984年にミヤニシに入社して来たんですよね
 
          そんな理由で大明神はミヤニシに髪を切りに来る事になります
             そして運命の出会いを迎える事になるのです・・・ 笑