呉の歴史と大和ミュージアム ④ | PRAINSのブログ

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みなさん いかがお過ごしでしょうか 5月も残すところ あとわずかになりましたが何と広島県は昨日 例年を遙かに上回る早さでの梅雨入りをしたそうです、今日も呉は小雨が降っていますが この雨が7月中旬から下旬まで約2カ月も続くと思うと先が思いやられますね~
 
さて 記事の方ですが僕は昨今は月曜日はパソコンを開かないようにしています
ブログを始めて約2年 なるべく毎日記事の更新を心がけてきましたが昨今急激に視力が衰えてきて肩こりもひどくなってきています、これは年齢による老化でもあるとは思いますがパソコンのやり過ぎも原因の一つであろうと思われます、で、「休養日」も必要だと思うに至ったんですよ  という事なので何とぞご了承くださいね
 
僕が書く「プレインズのブログ」ですが著名人ではない個人のブログという観点で言うと本当に沢山の方にご訪問いただいていると思います これはひとえに皆さんのおかげです ありがとうございます!
昨今の記事ですが先月の九州へのロングツーリングから 次男を訪ねて三千里などの日記と言う意味合いの物が続きました
 
シリーズで書いている「My Music Travel」や「続・伝説の人」「自分のルーツを辿ってみる」等々が書けていないとずっと思っていたんですが今回その中から一番書くのが難しい「呉の歴史と大和ミュージアム」をお送りしようと思います、これから梅雨入りという事でシリーズ物が多くなると予想されますが是非お楽しみくださいね!
 
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前回のこのシリーズでは幕末後 平穏な田舎の塩田地帯だった呉の町が(当時は呉浦と言われていた)1886年(明治19年)に「海軍条例」において全国に五つの海軍区を定め、各区の軍港に鎮守府を置く事になり第2海軍区を所管する鎮守府を呉港に置く事が定められた事により一躍歴史の主要都市へと変貌して行くようになったという事を書きました
 
          前回4月13日の記事 http://blogs.yahoo.co.jp/prains237/11205523.html
 
呉軍港は当初から「帝国海軍一の製造所」を目指して開設されたそうで、この軍港の優秀さは日清戦争(1894年)・日露戦争(1904年)においていかんなく発揮されたそうです、今日は前回に続きその辺りから話を始めてみたいと思います
 
上の写真は明治38年の装甲艦「筑波」の進水式の光景ですが 日露戦争という繁忙期に日本最初の装甲艦巡洋船「筑波」と その姉妹艦「生駒」をほぼ同時期に建造した事によって呉工廠の建艦技術は横須賀工廠を抜いて日本一と認められるようになったそうです
 
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                          (呉工廠で最初に建造された戦艦「安芸」の進水式 明治40年)
 
しかも「筑波」には呉工廠製12インチの国産主砲が積み込まれ 呉を軍港に決定する時に考えられた「帝国海軍第一ノ製造所」という目的が達成されたそうです
 
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そう言った海軍工廠の発展と共に呉の町も急速に発展を遂げて行きます
明治36年には呉に始めて駅が出来たそうです、写真がその時建てられた初代呉駅だそうですが この写真は大正10年頃に撮影された物であるそうです
 
そして時代は大正時代へと続いていくのでした
 
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                                      (戦艦「長門」の起工式  大正6年)
 
大正時代は 第一次世界大戦の影響を受けて 軍備拡張と軍縮、産業の発展と不況、デモクラシーと文化の発展など 短期間ではありましたが めまぐるしく変化して行った時代だったそうです
 
そんな中大正3年に第一次世界大戦が開戦しています 日本は日英同盟を理由に8月より参戦したそうです
巡洋船「伊吹」は8月に呉港を出港してオーストラリア、ニュージーランドの輸送部隊を中東まで護衛して12月に帰港したそうです
 
この頃呉の広村に呉海軍工廠広支廠が開庁されています、僕の祖父が働いていた所です ウチの実家から歩いて10分くらいの所です、今では米軍基地と市の施設や王子製紙になっていますがね
 
そうして時代は激動の「昭和」へと続いて行くのです
 
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写真は昭和6年に呉市二河公園で行われた「満豪検益擁護市民大会」の時の物だそうです
二河公園って今で言う所の中央公園の事なんだろうか・・・?
 
満州事変は その真相が知られていなかった国民の間に中国への憎しみを植え付ける事になったそうです
呉市民は当初 政府の不拡大方針もあり また陸軍の戦争という事もあって比較的冷静だったそうです
 
しかしマスコミの好戦的な論調が続き 周辺町村において住民大会が次々と開催された事もあって 写真に見るように5万人と言われる市民を集めて満豪検益擁護市民大会が開催されたんだそうです
 
昭和6年頃まで呉市は軍縮と それに伴う不況により苦しい状況を虐げられていたそうです
しかし満州事変以降は 他の都市を圧倒する軍港景気が訪れ市民は文化・スポーツ活動にいそしみ消費生活を娯楽に安らぎを求めるようになったそうです
 
ハイ、ここで「満州事変」ってのが出てきましたよね、満州事変とはいったい何ぞや?
 
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まず日本は、19世紀の終わりに朝鮮半島を巡って中国(清)と対立、戦争をして勝利、朝鮮半島を影響下におきます、これが前回お勉強した「日清戦争」ですよね
朝鮮半島国境に隣接したところが満州と言われる地域ですが、ロシアがこの地域への進出を狙っていました

1900年に、清が国内の外国勢力に宣戦布告するとロシアは大軍を満州に送り込み、朝鮮半島にも圧力をかけ始め戦争になりました、これが前回お勉強した「日露戦争」となり、アメリカの調停によって日本は満州の鉄道の利権を得たんだそうです

これを足がかりに、日本は満州の権益を確立していくんですよね、第一次世界大戦後、満州における利権の拡大のため、当時内戦状態だった中国(清は滅亡)で、満州を支配していた張作霖と手を組みます、しかし、利用価値がなくなったと知るや、満州の警備に当たっていた関東軍は、張作霖を殺害してしまいます
 
イメージ 11張作霖の息子が満州地方での指導者になると、ここから日本の勢力を取り除こうとしましたが陸軍の関東軍はこれに危機感を募らせ、武力によって満州を中国の主権から切り離して、日本の支配下におこうと計画します

そこで関東軍は、自ら経営している南満州鉄道を爆破し、それを中国軍の仕業だとして軍事行動に出ます、そして、満州の各要地をことごとく占領します
 
この一連の軍事行動が「満州事変」と言われるもので、1931年(昭和6年)9月から翌年3月まで続いたそうです

3月になると、滅亡した清の最後の皇帝(映画ラストエンペラーの人物)を迎え、「満州国」の建国を宣言したそうです
 
写真の人物が「張作霖」さんだそうです、う~ん これも時代性と言ってしまえば それまでなんですが彼も時代の・・・いや、
日本政府の犠牲者ですよね
これは今の現代での認識ですが当時呉でも行われていた
「満豪検益擁護市民大会」等では どう説明されていたんでしょうかね~ 
 
「マスコミの好戦的な論調が続き・・・」って事で
「国民の間に中国への憎しみを植え付ける事になった」と資料には書いてありますからね~
 
 
そう考えると これは現代においてもそうですがマスコミの論調は本当に正しいのかどうかわかりませんよね
僕も実際には体験していないので事の真相は分かりませんが 日本人が「死ね死ね団」に恨まれても仕方ない事もあながち間違いではないようにも思いますね~ う~ん「川内康範 恐るべし!」 笑
 
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で、その結果日本はどうなったか・・・まず、この日本軍(関東軍)の行動は国外で強く批難されました、国連の調査団が来て日本軍の撤退要求が出されると、日本は国際連盟を脱退して、国際的に孤立するようになります

更に日本は、華北方面(北京の方)にも侵略を企てようとして、翌年中国軍と激突し、日中戦争がはじまります
ちなみに日中戦争は当時支那事変とか日華事変とも言われた物で先の「日清戦争」とは別物ですよ
日中戦争が泥沼化する中、今度は中国の日本進出を快く思わないアメリカと対立が深まり、紆余曲折を経て日米開戦に至ってしまいます

また、満州国が建国されてから、日本政府は積極的に国内の日本人を満州に移住させようとして、多くの日本人が満州に移り住みました、しかし、終戦直後にはソ連が満州に侵入し、多くの日本人が殺され、また捕虜として捕らえられシベリアに抑留されたそうです、中国残留日本人孤児は、この時の混乱によって置き去りにされた子供達なんだそうですよ
 
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満州事変頃の呉の繁華街、現在の「れんが通り」だそうです、軍港景気に沸く呉市民ですが この後数年先には地獄の苦しみを味わう事になるなんて夢にも思っていなかったかもしれませんね~
 
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   現在の場所は僕にはよく特定出来ませんが 当時で言う所の「本通り9丁目」だそうです
   9丁目ってどの辺りの事だったんだろうか・・・知ってる人がいたら是非教えてください
 
   路面電車が確認できますよね、僕も幼少期の記憶で微かに路面電車を覚えていますよ
 
 
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  今でも夏には多くの人で賑わう「狩留賀」の海水浴場の昭和11年の写真だそうです
  狩留賀浜は大正10年に海水浴場として開設されたそうです、昭和3年には「狩留賀浜駅」ってのが開設
  されたんだそうです、今の吉浦駅とは違うと思うんですがね~ 狩留賀駅って聞いた事ないぞ~?
 
  実は今僕はTUTAYAの宅配レンタルで2010年のNHK大河ドラマの「龍馬伝」を観ているんですよ
  まだ最後まで観ていませんが 幕末当時龍馬は「外国と戦っても日本は勝てない、戦うための海軍創設
  ではなく本当の意味での独立国家を目指し、諸外国と肩を並べ交易を図る日本国を・・・」って言ってますが
  どこで歯車が狂っちゃったんでしょうかね~
 
  「時代性」の一言で終わらせてはいけないと強く思いますね
  そういう事ですが今日はこれまでにしたいと思います、続きはまた次回!ジャンジャン!!