さて、一昨日の続きになりますが、知覧を訪れた僕達は「知覧特攻平和会館」を後にして次に向かったのは
やはり知覧の観光名所である武家屋敷です
爽やかな陽光の下、低い石垣とその上に設けられた垣根に挟まれた小路は緩い曲線を描きながら、整然と延びています、昼間だというのに、誰一人居ないその風景は、いつか見た夢の中の景色に似ている・・・
既視感の雲の中を漂っているような不思議な夢見心地で歩みを進めて行くと今が現代なのか、それともいつの間にか江戸時代に紛れ込んだのかという錯覚に陥りますね
島津家のお膝元であり、西郷隆盛や小松帯刀、天璋院篤姫ゆかりの地として知られる薩摩は、総人口に対する武士の比率が大変高い(1871年(明治4年)の人口比で26%)土地であったという事です
藩は、領内を区分けして武士を分散させて居住させ、軍事的な拠点を複数作ると共に農民や漁民を効率的に支配していたそうです、その仕組みを、藩主の居城(内城)に対して外城(とじょう)と呼び、外城内に住む領民は有事の際、領主や地頭の指揮下で戦さに参加することになっていたそうです
それぞれの外城の領民がそれぞれの外城を守り、それぞれの外城が内城を守る役割を担っていたそうだ
このような外城は「麓」とも呼ばれ、現在もその面影の残る「出水麓」、「入来麓」を始めとして藩内に数多く存在していたそうです
そんな外城の一つが薩摩半島の南にある知覧に残っているんです、整然とした美しい町並み、母ヶ岳の優雅な姿を借景に取り入れた武家屋敷の庭園の佇まいが、別名「薩摩の小京都」とも言われる美しい武家町なんですよね
頑強堅牢な石造りの門は、戦さの時のみならず南国に多い台風に対しても有効だったそうですよ
18.6ヘクタールというエリアの中にあわせて七つの池泉式庭園と枯山水庭園が点在し、その庭園と屋敷を独特の意匠をした生垣がぐるりと囲んでいます
それぞれの生垣及び屋敷は有事の際には塁、防壁として役立つように作られたそうです、なるほど、確かに道は碁盤の目の様にすっと伸びているのではなく、そこかしこで鋭角に曲がり、視界が効きにくいようになっていますね、道幅も普段は十二分な広さですが、大勢の軍勢が攻め入るには狭すぎますね
江戸の雰囲気を伝える町並み、石柱の門や美しい庭園が点在する「麓」が、かつては鹿児島県内のあちこちに残っていたそうですが現在ではそれも数箇所になってしまっているそうです、今や「知覧武家屋敷」は江戸の雰囲気を今に伝える数少ない貴重な町並みの一つなんですよね
一般公開している屋敷の内部、当時の生活の様子を窺い知ることが出来ます
武家屋敷周りの小川には沢山の錦鯉も優雅に泳いでいましたね
「おい、昨日の晩飯の鯉の洗い、ここから釣って持って行ったらしいで・・・」 爆!
武家屋敷を歩いた僕達は通りの向かい側にある一見この地に不釣り合いなカフェに入ります
そろそろお昼ご飯の時間なんですが朝食のご飯をお代わりした僕達はまだお腹がすいていなかったんですよね
由緒ある日本建築の家屋が残る武家屋敷の景色にまったく不釣り合いなイギリス調のカフェ・・・
やたらと目を引くロンドンを走る二階建てバス、う~ん何で知覧でイギリス調なんだろうか・・・
僕は20歳の時ロンドンのサッスーンに美容留学していた時この2階建てバスに乗ってましたね
このバス、お店のオーナーがご自分で並行輸入されたそうです、知覧の港まで貨物船に載せて
運んで来たそうです、最初は可動していたそうですが今は故障しているそうです
カフェを出た僕達は知覧を後にして鹿児島市内に向かいます、所要時間1時間ほどですかね
で、この辺りで鹿児島のお土産を買おうとスーパーと隣接している土産物屋に入りました
鹿児島銘菓と言えば軽羹(かるかん)ですよね、軽羹を物色したんですが種類が多くて目移りしてしまう
こんな時は地元の人の評価を聞くのが間違いない、という事でオバちゃんをナンパして話しかけます
オバちゃんは「明石屋」か「蒸気屋」が高級でお勧めだと教えてくれた
「まあ私は軽羹は好きじゃないんだけどね~・・・」って言っていたが 笑!
という事で「蒸気屋」さんを探し当て鹿児島銘菓「軽羹」をお土産として購入、各自選んで
3人分まとめて呉に送って貰うように頼んだのだが若い女の子の定員さんなぜか頭が
パニックになって事を得ない・・・・終いには交渉に当たっていたオザキさんの目が・・・
そのやり取りを見ていた僕とカツジ
「おいおい、気を付けよ オザキさん怒っとるで~・・・」 爆!
軽羹とは原材料に自然薯(じねんじょ=山芋)をふんだんに使った羊羹(棒羊羹)のかたちをした
和菓子なんですよ、空気をたっぷり含んで蒸されるため、ふんわりと柔らかく、饅頭などの
他の和菓子に比べても際立って白いのが特徴です、その優しい姿からは想像つかないほどの
しっかりとしたコクのある旨味がありますね
1851年、薩摩藩主となられた島津斉彬公は他藩に先駆けて、日本の近代化の礎になる事業に
取り組まれたそうです
薩摩の磯という地に「集成館」といわれる工場群を築き、製鉄や造船、紡績、ガラス、通信、
印刷、食品等の事業は多岐にわたり、この集成館事業の一環として「蒸餅」などの保存食の
研究開発も進められたそうです
安政2年新川沿いに水車館を設立、米粉の製造などを行っていたそうです斉彬公は、江戸で
菓子屋を営んでいた八島六兵衛(播州明石出身)を招き入れたそうです、美味しくて栄養がある
保存食の研究の為だったといわれています、それが軽羹のルーツだそうです
お土産を買って呉に送った僕達はさすがにお腹がすいたという事でお昼ご飯に向かいます
という事で今日はこれまで、また明日! ジャンジャン!!