2013春ツーリング 俺たちの旅 ⑥ 切ない思い・・・ | PRAINSのブログ

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西南戦争においての西郷隆盛さんの非業の死も切ない思いがしましたが、ここ鹿児島県にはもっと悲惨な切ない歴史があるんですよね、今回の旅で、ある意味僕達がメインに考えていた場所がここが鹿児島県南九州市
知覧町にある知覧特攻平和会館であったんですよ
 
昨今僕は自分の記事で「呉の歴史と大和ミュージアム」と題するシリーズを執筆していますが、そこには第二次世界大戦、太平洋戦争が深く関わっているんですよね
日本一の規模を誇った軍港、海軍工廠があった呉は太平洋戦争において歴史の拠点でもありますが当時の
日本には全国至る所に悲しい歴史が刻まれているんですよね
 
ここ知覧にもそんな悲しい歴史が刻まれています、尚、館内は撮影禁止という事で写真撮影が出来なかった為
画像を掲載する事が出来ませんが今日はそんな知覧の歴史を少しだけ紐解いてみましょう
 
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知覧特攻平和会館は,大東亜戦争末期(戦後は太平洋戦争ともいう)の沖縄戦において,特攻という人類史上類例のない作戦で,爆弾搭載の飛行機もろとも敵艦に体当たり攻撃をした陸軍特別攻撃隊員の遺品や関係資料を展示しているミュージアムなんですよね

僕達は特攻隊員たちや各地の戦場で戦死された多くの犠牲によって,今日の平和日本があることに感謝し,特攻隊員のご遺徳を静かに回顧しながら,再び戦闘機に爆弾を装着し敵の艦船に体当たりするという命の尊さ・尊厳を無視した戦法は絶対とってはならないという事を肝に銘じなければなりません
 
また,このような悲劇を生みだす戦争も起こしてはならないという情念で,貴重な遺品や資料をご遺族の方々のご理解ご協力と,関係者の方々のご尽力によって展示されているのが、ここ知覧特攻平和記念館なのです
 
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特攻隊員たちが二度と帰ることのない「必死」の特攻出撃に臨んで念じたことは,再びこの国に平和と繁栄が甦ることであったろうと思います
 
この地が特攻隊の出撃基地であったことから,特攻戦死された隊員の慰霊に努め,当時の真の姿,遺品,記録を後世に残し,恒久の平和を祈念することが基地住民の責務であろうと信じ,ここに知覧特攻平和会館を建設した次第だという事だそうです
 
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知覧は昭和14年ごろから陸軍飛行場としての調査がはじめられ昭和15年建設に着手されたそうです
大東亜戦争(戦後は太平洋戦争ともいう)が勃発した直後,すなわち昭和16年12月24日に大刀洗陸軍飛行学校知覧分教所として正式に開校されたんだそうです

翌昭和17年1月30日,第10期陸軍少年飛行兵78名の紅顔の若鷲たちが操縦教育を受けるため,完全武装の姿で知覧駅に到着、駅頭を埋めた町民たちの熱狂的な大歓迎を浴び,飛行場まで歩武堂々の隊列行進をしたそうで95式練習機(赤トンボ)による初飛行は2月4日に行われたそうです
 
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南国とはいえ寒風肌を刺す厳冬のなかで,一撃必殺の闘魂に燃えた若鷲たちの必死の訓練は猛烈を極めたそうです、従って,この日を境にそれまで静かなたたずまいの城下町であった知覧町は一転して爆音に明け暮れました、だが,当時この飛行場が3年後に至り,痛恨無比の特攻肉弾の基地になろうとは町民のだれもが夢想だにしなかったことであろうという事です
 
昭和20年連合軍による飛石進攻作戦はすさまじく,戦局は急速に衰退の一途をたどりつつありました
同年3月26日,敵は遂に沖縄防衛戦の一角,慶良間列島に上陸を開始するにおよび戦局は最悪の事態を迎えるのです
 
そこで,これまでの敗勢を一挙に挽回する手段として,世界戦史にその類例をみない一機よく巨艦を屠る,必死必中の体当たり攻撃が敢行されました、沖縄特攻で散華された1,036柱の隊員のうち,第6航空軍は知覧基地を主軸に万世・都城・その他の基地から,第8飛行師団は台湾各基地から,義烈空挺隊は健軍基地(熊本)から出撃したそうです
 
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これら特攻勇士が身を以て示された崇高至純の殉国精神を顕彰,ご英霊をお慰め申し上げ世界の恒久平和を祈念するため,関係将士ならびに念願を同じくする有志一同の浄財をもって,知覧町旧飛行場後に“特攻平和観音堂”を昭和30年9月28日に建立し観音像を安置しているんだそうです
 
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その後の浄財は,昭和49年,平和の守護神として大空にそびえたつ特攻銅像「とこしえに」となり,昭和50年,崇高なご遺徳をしのび恒久の平和を願う特攻遺品館(昭和57年改装)や,昭和57年,特攻隊員が出撃前夜,今生最後の夢を結んだ三角兵舎の復元(特攻平和会館東隣)となったそうです
 
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特攻隊員達は特攻前夜、敵機に見つからないように草木でカムフラージュされた、この三角兵舎で最後の夜を
迎えたそうです、「どんな気持ちだったのか・・・」と、そんな軽い言葉では言い表せない物だったんでしょうね
 
知覧特攻平和会館では,特攻隊員たちの遺書・手紙などの閲覧を通じ,平和の大切さ・ありがたさ,命の尊さを学習することができます、また,当時の様子を知る語り部を含め5人の語り部が,特攻の歴史背景と特攻隊員の遺書・手紙等の特色について説明する平和学習講話もあります
 
僕は生まれ育った土地柄もあって子供の頃から江田島兵学校内で人間魚雷になった人たちや出撃前の兵士たちの遺書を読んだ経験がありますが、大人になって子供の親になった現在、改めて知覧でその類の手紙を読んで本当に涙が出ましたね、本当に言葉になりません・・・
 
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知覧特攻平和会館の近くに一軒の古びた当時の食堂富屋食堂が残されています
富屋食堂は、特攻の母として慕われた鳥浜トメの食堂だったんですよね
 
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鳥濱 トメ(とりはま とめ1902年(明治35年)6月20日 ~1992年(平成4年)4月20日)は鹿児島県の食堂経営者で知覧町(現南九州市知覧町郡104)で「富屋食堂」を営み、多くの特攻隊員の面倒を見て、“特攻の母”と呼ばれた人なんですよね
 
当日、館内で生前のトメさんが当時の知覧や特攻隊員との思い出の数々を語っている映像を見ました
正直言って先日記事にした「方言」がきつ過ぎて言葉の語句がよく聞き取れなかったきらいはありますが雰囲気はよく伝わりましたね
 
遠く親元を離れて母の暖かさも感じられない所で明日には命を散らしていく若者たちの心の拠り所であったんでしょうね
 
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僕の生まれ育った呉も日本一の軍港があったために多くの映画作品やドラマの舞台として描かれていますが
世界でも類を見ない「特攻隊」という悲劇を生んだ、ここ知覧も多くの作品が描かれています
 
2001年に公開された映画「ホタル」ではトメさんを富子として奈良岡朋子さんが演じられました
調べてみると2010年 舞台『MOTHER~特攻の母 鳥濱トメ物語』で元バレーボール日本代表の「大林素子」
さんが演じられている・・・どうもイメージが・・・ 爆! マジかよ~!
 
という事で2回続けての歴史のお勉強になりましたが、僕も興味のある事柄だし凄く勉強になりましたし改めて
呉の歴史、「戦争」という分野も学習したいと思いましたね
こうして平和に日常生活を送れている現代もこういった歴史があったからこそだと肝に銘じないといけませんよね
 
改めてお国の為に散って行った数々の人達に追悼の意を表しご冥福をお祈りしたいと思います
思春期の頃特攻服に日の丸付けて暴走していた自分が本当に恥ずかしく情けない、知らないって怖いですね
という事で今日はこれまで、ジャンジャン!!