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出ベンゾ記

ベンゾジアゼピン離脱症候群からの生還をめざして苦闘中。日々の思いを綴ります。


写真だけ並べます。































4〜5世代くらいの建物が入り交じって、なんとも知れない混沌とした景色が。

こういう、どうにもならないような場所も、あるとき突然、まとめて無くなってしまうことがある。

最近読んだ本のなかで、坪内祐三が言っていたが、風景が消えると記憶も消える…まさにそのとおり。

せめて写真に残しておきたい。



中央病院通りを行く、と銘打って病院を出さないわけにいかない(笑)。



東京山手メディカルセンターという巨大な病院が、通り沿いにある。もとは社会保険中央病院と言ったのだ。

この病院の敷地のデカさは尋常でなく、誰でも異様な感じを抱くと思うが、大もとは帝国陸軍の研究機関があったそうだ。

戦後、東京教育大学(現・筑波大学)附属の光学研究所というものになった。

この研究所の所長は、ノーベル賞受賞者の朝永振一郎だったそうだ。



自宅前の朝永。



これが光学研究所の写真らしいが、確証は得られていない。

私が近くに住んでいた45年前には、すでに移転が終わっていて、前庭の噴水や花壇の後が、廃園のような趣きとなっていた。



さて、こんなものを撮影しているヒマがあるのだろうか。てか、こりゃなんだ?



これは劇場のグローブ座。



奥のタワーとともに、バブル期の象徴のひとつとなった磯崎新の代表作だ。磯崎…嫌いだなあ(笑)。

当初、シェークスピアを上演していたが、それで続くはずもなく、しかし、ジャニーズ専属劇場みたいになって生き延びたのには驚いた。ポストモダンとはこういうことか。

ジャニー喜多川没落後の姿は痛ましい。

さて、引き返す。



ここには、かつて昔ながらの日本家屋が建っていた。



隣にいまも建っている、この建物と似たような日本家屋だった。

戸井昌造、戸井十月と二枚の表札がかかっていたと記憶する。昌造は画家で秩父困民党の研究で名高い人。


息子の十月は、バイクで五大陸を縦横断したというノンフィクション作家。




当時、戸井家の前を偶然、通りかかったとき、同行のバイク好きの先輩は狂喜したものだ(笑)。

昌造はもちろん十月も亡くなり、狂喜した先輩は、バイクの事故で没した。


十月の郵便受けがまだ残っている

十月の郵便受けがまだ残っている。


私が暮らしていたあたり。



洗張の店がこんなところにもあった。



大久保通りと小滝橋通りの交差点を、早稲田通りの方向に下って行くと、すぐに中央病院通りという道に出る。


右に曲がるとあるのが、俳句文学館だ。







設計者はわからない。

閉架の図書館という感じで、あまり面白味はない。ただ俳書の所蔵は立派なものなので、俳書をまとめて見たいときには便利かも。

私は50年近く前から存在は知っていたが、中に入ったのは初めてだ。



スポーツセンターというのだろうか。ここも古い。

私は45年ほど前に、このあたりに住んでいたことがあるのだ。





学生の家というキリスト教関係の施設。

詩人・富澤文明主宰の「詩論の会」という集まりがここで毎月あり、私も参加を許されてしぼられた(笑)。



詩論の会の後、たまにお茶を飲みに行ったのがサンパークホテル。

当時は連れ込みくらいに思っていたが、なんだか立派な日本庭園がある。







おや? この「はやしや」には見覚えがある。



やはり、新宿の三平ストアの上のレストランと同じロゴだ。

わかりますね。はやしや三平(笑)。



サンパークホテルの壁面を初めて注意してみたけれど、陶壁である。



道路向かいのこの協会と関係あるのかな。



これは協会の扉。陶器だ。

さて、簡単に終わると思ったが、もう1回くらいやりたい(笑)。続きます。