昨日は、日比谷の市政会館について少し書いた。
そこで書いたように、この建物は、オフィスビルとコンサートホールを合体するという、じつに現代的な発想を持って設計されたものだ。
日比谷公園の外れ、道路に面した側が市政会館。
その裏側、日比谷公園に面しているのが、日比谷公会堂だ。
私はここで、ただ一回、リサイタルを聴いている。
私の世代では、元来、日比谷公会堂で音を聴いた経験を持つ人は少ないはずである。すでに前川國男の傑作、東京文化会館が演奏会場のトップとして君臨していたし、サントリーホールの評判も高かった。
日比谷公会堂はすでにコンサートホールとしての使命は終えていたのだ。
ところが、1987年、世界トップクラスのヴァイオリニストの演奏会が、突如、この時代遅れのホールで開かれたのだ。
イェフディ・メニューインの初来日35周年を記念するリサイタルで、メニューインはバッハの無伴奏パルティータとソナタを3曲弾いた。
ちょっと見えにくいが、席料1500円。破格の安値であるが、初来日時と同じ会場で、その時と同じ値という洒落た設定だ。
そして、その35年前のメニューイン初来日に感激したのが、評論家の小林秀雄である。
〈会場にあふれる聴衆は熱狂していた。久しい間、実に久しい間わが国の、音楽の好きな人達は、ヴァイオリンの本当の音色というものを聞かずに暮らしていたのである。これは恐らくメニューヒン氏には想像も出来ない事であろう。第一日目の演奏を聴いて、何か感想を書くことを約したが、きっと感動してしまって何も言うことがなくなるだろうと考えていた。その通りになった。タルティニのトリルが鳴りだすと、私はもうすべての言葉を忘れて了った。バッハだろうが、フランクだろうが、それはもうどうでもよい事であった。さような音楽的観念は、何処へやらけし飛び、私はふるえたり涙が出たりした。~メニューヒン氏はこんな子供らしい感想が新聞紙上に現われるのを見て、さぞ驚くであろう。しかし、私は、あなたの様な天才ではないが、子供ではないのだ。現代の狂気と残酷と不幸とをよく理解している大人である。私はあなたに感謝する。 (新潮社『考える人』2013年春号より)
手放しの絶賛だ。
この時のメニューインの演奏はCD化されている。
話が行ったり来たりするが、1987年、当時27歳の私は、3月だというのに小雪が舞う会場前で、入口が開くのを待っていた。
まだ、外食チェーンもコンビニも乏しい時代で、ホール前の売店で肉まんを買って空腹を満たした。
その売店はホールが閉鎖された今も営業している。
87年の記念のプログラム。
じつはこの時、メニューインのリサイタルはNHKで放送された。
当時、病床にあった小林は、妻の呼びかけに応えて、テレビのメニューインを聴いたようだ。
じつに死の前日だったという。
蛇足になるが、憧れのメニューインを聴いた帰り、薄雪のつもる石畳を歩いているとき、同行の女性のつけていた模造真珠のネックレスが突如として切れて、街灯に光る雪道にばらばらと弾け散った。
これも記憶に焼きついて忘れられない思い出だ。