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小川健次ブログ

あんなことやこんなこと。考えるヒントと、そのまとめを部分的に切り取ってみる。

■自分の価値は自分が決める。自分の扱われ方は自分が決めたとおりになっている

自分の価値を低く見積もってる人ってのは、他人からもその価値を低く見積もられてしまうもんですわな。逆に自分の価値を高く見積もっている人は他人からもその価値を高く見積もられるってもんで。

結局のところ自分の価値を決めてるのは誰かって、自分以外の誰でもありませんわ。

もちろんそれは、不必要に自分を背伸びしたり偽ったりして他人に見せるということじゃない。
自分の強みと弱みを把握して、自分自身の心を掌握しながら、ありのままの自分自身に対して誇りと自信を持っているということ。

他人を見下したり、自分に対して卑屈になることでもない。あくまでも自然体で、自分ができることに対しては自信を持ち、自分にできないことができる人には敬意を払えるということ。

その上で、自分のこと、自分の評価できることに誇りと自尊心を持っているということ。まあそれが何だっていいんです。死ぬほど金持ってるとか、世界を驚かす業績をあげたとか、そんなもんは必要ない。

誰かに愛されている、身近な誰かを助けられる、家族を大切にしているなどなど。
誰だって多かれ少なかれ誇れる自分のパーソナリティってあるじゃないですか。それに自信を持てばいい。それができる自分を自分で評価してあげればいい。

逆にちょっと人には言えない恥ずかしいことや、人と比べて劣等感を感じることだってある。そんなもん誰だって同じこと。ちなみに僕もここでは言えないあんなことやこともありまくり。

とはいえ、そんなところに目を向けたところで意味がない。それを隠そう守ろうとしていよいよ内向きになるだけ。それはそれで考えたって無くならないので華麗にスルー。

できる自分のパーソナリティに目を向ける。そこから生み出される付加価値に期待する。だから自分を高く見積もることができる。セルフイメージが高まるから、他人からも相応の対応になる。そういう人を安っぽい扱いなんかしませんよ。

周りの誰が決めてるのでもない。結局自分の価値は自分が決めているだけ。
そして自分が周りからどう扱われているのかも、職場だろうが家族間だろうが恋愛関係だろうが、それらは全部自分が決めたとおりに扱われているだけってことですな(^。^)y-.。o○
伝えて損することはない。伝えなければ得られるものもない。

いつでも気にかけている、支えるつもりでいることを言葉や態度で伝えればいい。
それが自分にとって報われないことであったとしても、それで損することも失うものも何もない。

伝えた思いが返ってこなかったって、失うものも損することも何もない。そりゃ返ってこなけりゃ凹むし、心も折れる。だけど、んなもんは泣きながら酒飲んで寝ちまえば、翌朝かそのうちに忘れる。

まぁそもそも何か返ってくるんじゃないかと、見返りを期待すること自体がおかしいのかもしれませんがね。

見返りなんか気にせんことですよ。何も期待しないことですよ。スルーされたって別に死ぬわけじゃないし、困ることはありませんよ。っつーかだいたい自分がそれなりの代償払ってるかって、払ってるわけでもないでしょ。

だからあれこれ考えずに、思いは相手に伝えることです。期待した答えが返ってこなっかたらどうしようとか考えない。それで見返りなんか考えない。それで損したとか考えるセコいヤツなんて最初から誰も相手にされないし。

見返りとか期待するから何も言えなくなるんです。
何の見返りも期待しない。何も返ってこなくたっていい。でもそれで相手がもし喜んでくれたらどうか。相手が信頼してくれたらどうか。それはそれで嬉しいじゃないですか。気分も良くなるじゃないですか。

伝えたからと言って返ってくるわけじゃない。でも伝えなければそもそも何も返ってこない。伝えておけば返ってくることもある。
それで誰かが不幸になるわけでもなければ、誰かが損することもない。

スルーされたり拒否られたりして心が痛むだけ。ちょっとのあいだ凹むだけ。それも経験。経験があれば成長もある。それはそれでしょうがないけどそれでいい。結果的に得することもある。時間が経てば笑い話しの宴席のネタ。

とはいえ、言ったからには伝えたからには責任も生じるので、そこからは逃げられない。言いっ放しの口だけ番長は、何も言わないのと同じかそれ以上にタチが悪い。

口に出して相手に伝える。言ったことの責任は取る。当たり前のことですよ。仕事だろうが家庭のことだろうが、人間関係も恋愛も同じこと。その当たり前のことができるかどうかが、信用できる人とそうでない人の違いなのかもしれませんな。(^。^)y-.。o○
■得られるものは差し出す代償によって決まる。何も差し出さなければ何も得られない

誰であれどんなことであれ、何かを得ようとすれば何かを差し出さねばらないというのは、世の道理。
人間は限られたことしかできない。必ず死ぬのは万人平等。それがいつかはわからなくても死ぬまでの時間に限りがあるのは皆同じ。

限られた時間の中ではできることに限りがある。
だから何かを手に入れるには、何かを手放す。代償として差し出す。それは時間やお金である場合もあれば、ときに大事な人間関係だったり、ときに心の支えであったりすることもある。

試験に合格するために、観たいドラマを観ない。合格するまで遊ばない。友人との連絡もとらない。それも一例。
目標の売上達成するために、家族との時間を減らず、ランチの時間も仕事する。それも一例。
愛する相手のために、遠距離だろうが飛んで行く。何かのついでじゃなくて、そのために仕事休んで相手に尽くす。それも一例。

どれが良いか悪いかは関係ない。自分が価値あると思うもの、手に入れたい守りたいと思うものを優先すればいいだけだから。
そこには必ず代償が必要だというだけの話し。

何も差し出さない。でも願望や目標、やりたいことは全部実現したい。それもいいかもしれません。それでうまくいくのなら。
とはいえ、ほとんどの場合、結局何も手に入らない。あれもこれもと手を出したり、どれがいいかと考えているうちに機を逸する。そして気づけば、齢のみ重ねてひたすら後悔。

何かをコトを成している人をよく見ればわかるように、何も差し出さずに結果のみ手に入れた人はいない。必ず何かを差し出している。
結局時間は有限。できることにも限りがある。その中での取捨選択。

逆に言えば、何かを差し出せば何かが必ず手に入る。それは求めていた目標かもしれないし、その場しのぎの怠惰な安らぎかもしれない。差し出した代償に応じて必ず何かが手に入る。そして手に入るものは差しだした代償に相応しいものしかない。

何を得たくて、そのために何を代償として差し出すのか。いつどのように差し出すのか。

それを決めることができるのは他の誰でもなく自分自身。何のために、いつ、何を代償として差し出すか。
あとはその覚悟と決断だけってことですわな(^。^)y-.。o○
■当たり前のことからは当たり前の結果だけ。一歩余分に進むクセをつけるから可能性が拡がる。

だいたいこのくらいだろう、そう感じるときにこそ、思考と行動をもう一歩余分に進めてみる。

限界とは、結局のところ自分自身が決めるもの。このくらいだろう、そう自分で思ったところが限界地点。もちろん、物理的な限界というのはある。超能力で空飛べるかっと言ってもそれは無理。

しかし、自分自身で決めた限界の壁ならば、自分自身でそれを乗り越えていくことはできる。
自分自身がここまでだ、と思うところが限界ならば、そう思う領域を広めればいいだけのこと。

とはいえ、ある日突然それができるかといえは、まあなかなか難しい。
なのでそれがどんなに小さなことでもいい。いつもだったらここで終わり、ここまでが限界、と感じる一歩先まで思考と行動を進ませてみる。

今までだったらそこで止まってしまっていた思考を、あと一歩だけ進めてみる。そこで思考を停めずに、少しでいいからいつもより深く考えてみる。もしくは一つでいいから別の角度で考えてみる。

行動も同じ。いつもだったらそこで終わらせてしまう行動をあと一歩だけ進めてみる。こんなもんだろうというアウトプットに何か加えてみる。これくらいしかできないと思うところで、もう少しだけ粘ってみる。

そこで止めない諦めない。

今の時点でできること、今の時点で考えられることは、考えられて当たり前。できて当たり前。当たり前の思考と行動からは当たり前の思考と行動しか生まれませんよ。

これまでと同じ思考と行動、その延長にはこれまでと同じ結果しか出ないなんてことは、普通に考えて当たり前。

もう一歩先。これまで以上の思考と行動の先に、これまで以上の何かがあったりするもんです。つまりは自分自身の可能性を拡げるってことは、もう一歩先に進んだときに、はじめてできることでしょう。

そして重要なことは、小さなことでもそれを継続すること。
たまにちょっと少し前進してみただけなら、すぐ元通り。その日の気分でできたことでも、翌日の気分でできなくなる。

だから習慣になるまでひたすら継続。それは小さなことだっていい。いつもより、そして昨日より、何か一つ前進する。限界だと思ったそこで何か一つ試みてみる。

そこで止めない諦めない。

限界の壁は自分で取り壊すことができるにしても、無意識のうちにすぐにまた修復してしまうももの。なので修復される前に、そこをとっとと耕して新しい種を蒔いてしまったほうがいいってことですな(^。^)y-.。o○
■何かをやるのに誰の力もいらない

何かをやろうとしているときに、誰かの力を期待していると、結局何も始まらない。力を貸してくれる誰かを探しているうちに日が暮れ、時が過ぎ、気づいたときにはタイミングを逸してる。

だから誰かの力なんて期待すべきじゃない。期待するものでもない。

まずは自分でやることです。自分がやればいいんです。
あれこれ言ってても何も始まることなんてないですよ。っつーかそもそも、そんな口だけ番長には誰も力を貸してくれることはないでしょう。

それに、誰が協力者に相応しいかを考える前に、自分自身が誰かの協力者として相応しいかを考えたみたほうがいい。

求めるものがお金であれ、立場であれ、恋愛や人間関係であれ、自分で覚悟を決めて、自分で決断をし、自分の力でそれらを手に入れよう思わない人を協力者として認めてくれる人がいるかどうかを。

もちろんコトを成すには協力者が必要なのは当たり前。

しかしそれは、単に施しを受ける関係ではなく、共に有益である互恵関係でなければ協力者とはいえないでしょう。何のメリットも無い人と誰も協力者の関係なんかになりはしませんよ。

そのためにはやはり覚悟をもった決断。
誰かが助けてくれたらやる、それは何も決めてないのと同じこと。何の覚悟もありませんと言っているのと同じこと。

覚悟と決断によって裏付けられた行動があるからこそ、たとえ今の時点では結果が伴っていなくても、この人と協力者になりたいと誰かが思ってくれるもんでしょう。

なので、何かをやるのに誰の力もいりませんよ。
自分がやると決めて、自分でやればいいんです。ただそれだけ。それ以上のことはごちゃごちゃ言わない。ごちゃごちゃ言ってるうちに気も萎える。

そうして動けば誰かが認めてくれる。誰かが助けてくれる。少なくとも何もしないで誰かが手を差し伸ばしてくれるのを待つより近道。

もちろん自分で決めて動いたところで誰も助けてくれないこともある。それはそれでいいじゃないですか。最初から自分でやると決めてたんだから。とことんまでやればいい。
それでもよほどうまくいかなければ、手段方法を考え直せばいいだけのこと。

スタート地点は、どこかの誰かの協力の有無にあるのではなく、自分自身の心の中にしかないってことですな(^。^)y-.。o○
■決めるのはあんたじゃない。割り切ればストレスもなくなる。

ストレスというのは、いわば抵抗というやつであって、向かいたいという期待の伴う方向に、思い通りに進めないときに感じるもの。

よってストレスを無くすということは、ストレスの原因そのもの、つまりは、その対象人物を排除するのが手っ取り早い。
こちらから意図的に排除することができなくても、こちらが相手に近づかない。関わらない。別に粛清せよとか、そういうことじゃない。

そういうときは、相手に期待をしないことです。
なぜストレスを感じるか。それは期待どおりの反応がないから。期待どおりに動いてくれないから。自分の望んだとおりの結果にならないから。まあ、単純に生理的に嫌いという場合もありますが、その対処はまた別項で。

相手に期待をしないこと。それは、相手をまず、あるがままに認めるということ。
相手のできることできないこと、相手のパーソナリティを直視する。それが自分にとって好きか嫌いかなんて考えない。っつーかそんなん関係ない。

この人はこういう人なのね。それで納得。それ以上もそれ以下もない。期待もしないし望みもしない。その人はあくまでもその人であってあんたの分身じゃない。

期待というのは、支配と表裏一体。相手を自分と同一視して、相手を自分の思い通りに動かしたいという心の動きに近いもの。

好きと言っても返ってこないし凹む。そりゃ返ってくることを期待しているから。自分の望みを相手に押し付けてるのと同じこと。好きならそれでいーじゃん。返ってこようが返ってきまいが、あんたが好きかどうが、その気持ちを伝えたいと思うがどうか。それだけのこと。

部下が言うこと聞かない。そりゃ聞かそうと思うから。あんたの言葉は聞かないやつなんだからしょうがない。手段方法で言うこと聞こうが聞くまいが、結果を出せる環境つくるのがあんたの仕事。そのかわり結果が出なけりゃさようなら。

と、少しシビアに書いてみましたが、そんくらい開き直ってしまえば、ストレスなんか感じませんよ。そうは言ってもゼロにはなりませんがね。

なので先日もそんなこと書いた気がしますが、最後は手放す。相手に託す。自分の思いは正しく伝え、希望も伝え、あとはそれをどうするかを決めるのは相手次第。

信用信頼しているから手放せる

相手次第だから期待をしない。期待しないから、その後は粛々と進める。レスポンスがあろうとスルーされようとそれが相手の判断。望まないレスポンスであっても、そういうもんだと割り切って淡々と。

もちろん育児や教育には当てはまらないし、心掛けとしては、関わるすべての人に期待を持って接したいというのは当たり前。
なので、これは職場や恋愛、友人、知人、家庭などの人間関係に強いストレスを感じる人に向けての処方箋として。

要するに最後に決めるのはあんたじゃなくて、相手でしょ。ってことですわ
な(^。^)y-.。o○
■価値の有る人と無い人

この世に価値のない人などいないのはまあ当然としても、自分にとって価値の無い人ってのがいるのはしょうがない。

別に良し悪しや好き嫌いの話しじゃありません。ましてやその人の人間性に関わる話しでもなんでもない。

単に自分にとって付加価値を生み出せる相手なのかどうかというだけ。
物質的な価値に限らず、精神的に成長できるかどうか、あらたな発見や学びがあるかどうかなど。

ただ何となく寂しさを紛らしたいとか、ただ何となく力や立場のある人なので都合良さそうだからとか。
そんな関係性がこれまで自分に価値をもたらしてきたどうかを、少し省みてもいいじゃないかと。

仕事での人間関係や異性関係、家庭内でも同じこと。
その人のパーソナリティと自分のパーソナリティの中で、共鳴し合うことによって価値を生み出すのはどの部分なのか。それをお互いに把握しあって握り合っているかどうか。

落ち込んでるときや、怒りに震えているときなど。感情が揺さぶられているときというのは、何となく誰かの近くにいたくなったり、身近にいる相手につい心が引き寄せられてしまいがち。それはそれでしょうがない。

単なる惰性や馴れ合いで継続してる人間関係も、まあときにはいいかもれません。それはそれでストレス解消になる場合もあるし。

とはいえ、それを維持するのにかかる物質的精神的、そして時間的コストに対して、どのくらい自分にとっての付加価値が生まれているか。それがコストに見合わないか無駄であるならとっととそんな時間は圧縮!圧縮!

自分がやりたいことに対して誰がどんな能力を持っているか。彼らがやりたいことに対して自分はどんな能力を発揮できるか。

それがお金なのか技能なのか性格なのかはそれぞれですが、それらの適合具合によって生み出される付加価値から、自分の人間関係を考えてみれば、おのずと付き合うべき価値ある相手というのがわかってきますわな(^。^)y-.。o○
●謙虚であること

どのような仕事であろうと、第一線で長く活躍している人というのは謙虚であることがほとんど。逆に消えていなくなるという人というのは総じて威張る。

例外もあるのでしょうが、少なからず僕がこれまで関わった人をこの基準で考えてみると100%このとおり。
まあ誰だって威張る人とは仕事したくない。というより、同じスペックであれば仕事しやすい人と仕事したいと思うのが人情ですわ。

んじゃ謙虚であればそれでいいのかといえば、それはまた別。謙虚であるというのはあくまでも必要条件の一つでしかないということは、言うまでもないことでしょう。

そして、謙虚であるということは、やたら他人に媚びへつらうとか、エラい人の太鼓持ちになることではありませんわな。

あくまでも相手を自分と異なる存在として認めること。価値観や考え方、文化的背景や育った環境等がすべて異なった別の存在であり、それを認めてリスペクトするという意味でしょう。

だから別に相手を尊重すればいいだけで、自分を下げる必要はない。必要以上にへりくだれば、今度は相手からのリスペクトを失うだけで、正常な関係性が失われる。

もちろん自分の考え、主義主張が絶対的に正しく、それを強要して他人の心を支配しようというのは問題外。それじゃ反発されるだけ。威張りちらしてその場は支配できても結局は自分がいないところで、早く死んでくれねーかな、と悪口言われるのがオチですわ。

人間関係全般において言えることですが、そもそも『自分と相手は違う』。この当たり前のことを、当たり前すぎて忘れるから、話がいつもややこしくなる。ポジショニングが上か下かでストレス感じる。おまけに疲れる。
これはそれが夫婦であろうが彼氏彼女であろうが、上司部下であろうが後輩先輩であろうが友人関係であろうが同じこと。

そして謙虚で人に愛される人というのは、この当たり前すぎる事実を常に忘れていない。自分を下げることなく、相手を自分と異なる存在としてリスペクトしているから、あくまでも対等。あくまで自然な関係。そこにどっちが上でどっちが下かも、心を支配するも支配されるもない。お互いにとってストレスのない心地よい状態を維持できる。

とはいえ、男女問わず、私を支配してあなたの色に染めてーっと望んでる人もいることもあるので、そのあたりはまあ勝手にどうぞってことですわな(-。-)y-~
■信頼信用しているからこそ手放せる

人間できることに限界はある。もちろん可能性は無限大。でも現実社会でできることには物理的にも限界はある。それはもうしょうがない。

そして限界を超えた先のことには手が及ばない。無理。それはもう無理です。
なので無理な領域のことであれこれ悩むことは無駄。悩んだってどうにもならない。陽は西からは昇らない。過ぎた昨日は返ってこない。

だからやることやったら手放すことも必要ですわ。良い意味での開き直り。どうにもできないことに固執しない。やるだけやったら後は手放す。

人間関係でも同じこと。相手の心は支配できない。最後は相手が決めること。伝えられることを伝えたら、あとは手放す。最後の最後まで交渉したら、あとは手放す。相手を信用して任せてしまえ。

世の中のすべては自分の思い通りにいかないですよ。
思い通りにやってる人は、思い通りにいかないことを知っている人。だから思い通りにいかないところは、やることやったらスパっと手放す。それが思い通りの結果を呼び込んでいるだけでしょう。

まあ手放せるというのはそれだけ自分のやってることを、そして相手のことを信用、信頼しているということでもあるんでしょうがね。手放してくれる、つまり相手を信用信頼してくれているということが伝わる。だから結果的にうまくいく。
逆に自分も他人も信用、信頼できない人ほど、どうにもならないことやどうでもいいことに固執するもんですし。

手放したりゃいいんです。どうせそっから先は自分じゃどうにもならない。
それまで自分がやってきたことはもちろん、目の前の相手を信頼して、あとは野となれ山となれ。


とはいえ中途半端に放り投げるのは単なるやっつけ仕事。そんなのは無価値で無意味。主体的に自分や相手を信じて手放すこととは意味が違う。

やれるとこまではやったらいいんです。伝えられることまでは伝えればいいんです。そこまでは力を尽くす。そしてそれ以上のことは手放す。そっから先はあれこれ考えないし、くよくよしない。

どうにもならないことで心をざわつかせているよりも、次の課題にさっさと切り替えるほうが生産的。っつーか、どうにもなならいことで凹んでいるより、さっさと手放して酒飲んで遊んでたとほうが精神衛生上も健全ってことですわな。
■言い返しても失うだけ。ときには黙って守ることも必要

どんなに大切な相手だったとしても、ちょっとしたコミュニケーションのすれ違いが大惨事を引き起こすことってありますわ。

さらにすれ違いが加速すると、お互いが感情爆発。
おめーなんか好きでもなんでもねーよ。あんたの顔なんか見たくないわよ。この脳無しの役立たずめ。

本心から思ってなくても、つい脊髄反射で口から飛び出る。売り言葉に買い言葉で、勢い余って言ってしまう。言ってはいけない、ホントはそんなこと思ってない。それがわかってても言ってしまって大惨事。

だから、そこはじっと我慢。何を言われても感情に流されずに黙るしかない。ベタすぎて、何だかなーと思うけどこれが結局一番の処方箋。

もちろんそれよりもっと以前に、そういう状況にならないような方法をとるのが一番ですが、そうなってしまったらもう手遅れ。あれこれ小手先でどうにかしようとせずに、口を開かず黙って耐える。

言われ話しで黙って我慢するストレスも結構大変ですが、余計な一言ですべてをブチ壊しにしたときの凹み具合に比べりゃ可愛いもん。それに黙るストレスなんてその場だけ。一晩眠れば翌朝はお互い忘れてるもんです。

黙ってるだけだとどうしてもおさまりつかない。暴れたい衝動が止まらない。
そんなときはメールに気持ちを殴り書き。宛先欄に相手の名前を入れて、言いたいことを、恨みの言葉も尽きるまで書く。

するとあら不思議。書きながら気持ちの整理がついて、感情的になっているのもバカバカしくなってくる。その場はおさまらなくても、送信せずに一晩置いて、翌朝読み返してみると、怒りの内容がいかにくだらないかがよくわかる。

あとは速やかに書いた文書はすっかり削除。もちろん間違っても送信ボタンは押してはいけない。このときの送信ボタンはまさに自爆スイッチなのでそこはくれぐれも注意して。

要するに感情的になってるときに発する言葉なんて、たいがいロクなもんじゃないってことですな。だからそんなときは、おとなしく黙る。それで非難されても相手も感情的になっているのでどうにもならない。

せっかく積み上げた信頼や、培った愛情も、感情的になったときの些細な一言ですべ台無しブチ壊しになるもんです。んなこたあ誰もが一度や二度くらいは経験あること。だからそろそろそういうのはやめにして、その場は黙って耐えるというのも生き方の知恵。

お互い落ち着いて、アタマ冷やしてしまえば、ホントにどうでもいいこととで感情的になってたことがよくわかりますしね。