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小川健次ブログ

あんなことやこんなこと。考えるヒントと、そのまとめを部分的に切り取ってみる。

アファーメーションで心のプログラミングを書き換える

■アファーメーションとは

米国の心理学者シャド・ヘルムステッター博士によると、私たち人間は生まれてから成人するまでのあいだに、平均で14万8千回もの否定的な言葉を潜在意識にプログラミングされているとのこと。

これは、私たちの心の大半は潜在意識(無意識)によって成り立っており、その潜在意識が、外部から入力された「できない」「無理だ」という否定的な言葉のイメージで構成されていることが、思考と行動を抑制する主要因であるということを意味している。

逆に言うならば、私たちが潜在意識に書き込む情報を、肯定的なものへと差し替えることができれば、思考と行動も肯定的なものへと変えることができるということであろう。

しかし、一歩世間に出てみれば誰でもが体験するように、世にあふれる情報のほとんどが、否定的な話題やネガティブなニュースで溢れている。

たとえそれが直接的な否定でなかったとしても、前例や慣例を押し付ける風習や、個性の決めつけなど、思考や行動を抑制する情報は、いたるところから潜在意識に書き込まれることになる。

だからこそ、否定的な情報をはるかに上回る、大量の肯定的な情報を私たちは潜在意識に書き込むことをしなければならない。

その方法として一般的なのがアファーメーション(深層自己説得)である。

アファーメーションとは、自分自身への言葉の投げかけ。

外部から入ってくる否定的な情報以上に、自分の潜在意識に情報を書き込んでいるのは誰かといえば、それは自分自身以外をおいて他にいない。

その自分をして、自分自身の潜在意識に対して意図的に肯定的な言葉を投げかけを行うことで、潜在意識のプログラミングを書き換えようという手法である。

フランスの薬剤師であり心理学者エミール・クーエが、その技法を用いた診療法で大きな成果を挙げたことでも有名ではあるが、ここでは、ナポレオン・ヒルの言葉より引用してみよう。

潜在意識は肯定的な思考と、否定的な思考を区別することができない。潜在意識は私たちがインプットする思考を、極めて事務的に処理していく。したがって潜在意識は、恐怖に基づく思考も、勇気や信念に基づく思考も、同じように現実に変えてしまうのだ。
(中略)
もしあなたが、恐怖や疑惑、他人へのひけめにまどわされていると、マイナスな深層自己説得、つまり自己暗示がはたらき、あなたの人生をつまらないものになってしまうだろう。
このようにあなたのコントロール次第で、引き出した潜在意識はあなたを幸福にもできるし、不幸のどん底に落しいれることもできる。しかし、深層自己説得によって、誰でも想像をはるかに超える力を発揮することができるだろう。
思考は現実化する(きこ書房) ナポレオン・ヒル著

■アファーメーションの方法

それでは、私たちが日常的に使うアファーメーションを、どのように作るべきか、そのポイントをここに記す。

なお、このアファーメーションのポイントについては、提唱者ごとに若干の表現の違いがある場合があるが、基本原則としてはほぼこのとおりと思って差し障りはない。

1、意図が明瞭であること
それが何を目的にしたことなのかが、自分ではっきりとわかること。必ずしも具体的である必要はないが、解釈の幅が広がるような文言は避ける。

2、短文であること
ストレートに潜在意識に言葉を届けるためにも、できうる限り短文であるほうが望ましい。また、長い文だと言葉にしずらく、忘れやすい。

3、肯定的な単語を使うこと
それが自分にとって価値があり、肯定的だと評価できる単語を使うこと。わざわざ否定的なイメージを想起させる言葉を使うのは無意味。

4、現在進行形であること
今現在すでにそれが達成しつつあるという前提での言葉とする。「そうなりたい」という希望ではなく、「そうなりつつある」という形で。

5、過度の期待を込めないこと
確実かつ絶対に達成するという期待感によって、モティベーションが高まるなら構わないが、それが精神的負担(プレッシャー)になるようであれば、実現できれば儲けもの、くらいの期待感で。

6、感情を込めて読むこと
人は感情の込められた言葉によって動かされる。自分自身に対しても感情を込めて語りかけよう。

上記のポイントに従って、アファーメーションを日常的に行うことで、潜在意識のプログラミングが徐々に書き換えられていくだろう。

しかし、注意すべきは、これが即効性のある処方箋ではないということだ。
これまでに潜在意識に書き込まれた数多くの否定的なイメージや、その言葉の書き換えを、一朝一夕でできるようであれば、それは魔法やまじないの類である。

潜在意識への書き込みは、これまでの人生の積み重ねによって成り立っているものだ。その成り立ちを書き換えるのであれば、これまでと同じように積み重ねというプロセスを経なければならない。

とはいえ、アファーメーションを日常生活の中で意識的に行うことにより、肯定的な情報の取り込みが集中的に行われ、その潜在意識の書き換えが加速度的な早さで行われるであろうことは言うまでもない。

さらに、アファーメーションの継続は、あなたの肯定的な言葉に対するアンテナ感度を高めることにも繋がり、これまで以上に肯定的な情報のインプット量が増えるということも、見逃してはならない。

つまり、アファーメーションは、一朝一夕で驚くほどの成果を挙げるものではないが、継続的に行えば必ず大きな成果として現れるものである。
そして、それには血のにじむような努力は不要なのだ。

ましてや仮に、万一それで大きな成果が上がらなかったところで、失うものは何もないであろう。

だとするならば、毎日の生活の中でほんの数分、自分自身に肯定的な言葉を投げかけることが損になることなどなく、むしろ得になる可能性を秘めている分だけ、取り組んでみる価値があるのではないだろうか。
■失敗すりゃいいってもんじゃない

それがどんなことであれ、行動したこと、経験したことというのはすべて自分の財産になるわけで、こればっかりはお金で買ったりできる問題ではありません。

特に逆境とか失敗とかいうやつは、そのやり方だと失敗する、という事実を体験を通じて知ることができるだけでなく、別の方法ならうまくいくというノウハウまで学べる、これ以上ない財産。

しかも、それを話しのネタに、講演や出版などの商売の可能性まで拡がるので、ある意味では換金性のある財産ともいえるかもしれません。

とはいえ、失敗や逆境に遭遇すれば、何でもいいかといえばそうでもない。

まったく同じ失敗を何度もする人、いっつも同じ逆境に陥る人っていますよね。毎回同じ失敗。いつまでやっても同じ逆境の繰り返し。

ところで、こんな言葉があります。
逆境には、それと同等かそれ以上の種子が隠されている。
ナポレオン・ヒル

同じ失敗を何度も繰り返す人、堂々めぐりの逆境から抜け出せない人。それはそれでもいい。何もしてないより、行動しているだけはるかにマシだから。

でも、上の言葉をもう一度よーーーく読んだほうがいい。

逆境には、それと同等かそれ以上の種子が「ある」んじゃないんです。「隠されて」いるんです。
つまり、逆境そのものに価値があるんではなく、逆境の中にある種子を見つけないといけない。

しかも、それは「実」ではなく「種子」。
種子を見つけた上で、それを実になるよう、自分で育てる必要があるってことです。

つまり、反省。課題の抽出。解決方法の策定。実施。

当たり前です。特に仕事やってりゃ、誰でもこんなことは日常的に取り組んでいることで、わかっていて当たりまえ。

自分の部下や後輩が、同じ失敗繰り返してたら、何て言うんでしょうね。
「おいおい、まず問題点が何かをはっきりさせようぜ」
くらいのことは誰だって言うはずなんです。

では振り返って、自分の目標に対する、自分の行動、それによって起こった失敗や、遭遇している逆境についてはどうでしょう。

問題点をはっきりさせていますか?
その解決方法を策定して、それに取り組んでいますか?

それらが明確になって、はじめて「成功への種子」が見つかるんです。そして実施していくことで「種子を実」に育てていくことができる。

そしてその過程を踏むことで、体験した失敗や経験が、自らに血肉化されかけがえの無い財産になるんです。

繰り返して書いておきますが、失敗はしたほうがいい。逆境にも遭遇したほうがいい。それは行動の証だし、それがなければ始まらないから。

ただ、同じ失敗の繰り返しや、いつまでたっても逆境続き。そんな堂々巡りをしていたところで、そこにどんな価値があるのかは、ときに冷静になって考えたほうがいい。

だいたい同じ失敗何度もしたり、堂々巡りの逆境から抜け出せないでいたりすると、疲れるし、精神衛生上も健全な感じがしませんよね。

失敗や逆境に対する反省。そして課題の抽出。それに基づく解決方法の策定。こういう自己分析をやることで、堂々巡りから抜け出せる。成功への種子が見つかるし、それを実に育てられんです。

もちろん自己分析というくらいだから、その原因を常に自分の心構えと行動を起点に考えないといけない。

あいつのせいだ、周りがこうだったからだ、状況がああだったからだ、運がどうの。
そんな風に自分以外の何かを理由にしていてもはじまらない。だってそれはいくら考えても解決できないことだから。

自分のことなら解決できます。自分で決めればいいだけだから。だから原因は、自分の心構えと行動を起点に考える。

そうすることで、逆境や失敗に隠されている成功への種子を発見し、実へと育てていくことができる。

逆境や失敗を、自分にとっての価値ある経験。かけがえのない財産にするためにも、ときどきこんなことを考えてみるといいかもしれませんね。
●愛はブーメラン

世の中というのは不思議なもので、自分が投げたものはブーメランのように自分に帰ってくるもんだと、あらためて感じています。

なんだか、しみじみ言ってみると歳のせいかと勘違いされそうですが、まだまだ年齢を理由にどうこう言えるほど長く生きてませんのであしからず。

ただまあ、まだ短い人生の中という、極めて小さな世界を基にした経験値からだけでもはっきり言えることは、それが何であれ、もちろんお金であれ善意であれ、憎悪であれ敵意であれ、投げると返ってきてしまうもんだということです。

ということを言うと、博打で使った金は返ってこないじゃねーか、という反論がきそうなのでちょいと補足。

要するに全てなんです。投げたものすべて。

博打で投げるのはお金だけじゃありません。短絡的に金儲けをしたいという欲求や、現実から目を背けたいという逃避、それだけではなく、単に遊びたいという感情など、人それぞれいろいろあるでしょうが、お金だけじゃなく色々一緒に投げてるわけです。

それらが全部差し引きされて、リターンされていると考えればいいわけです。

短絡的に儲けたいという欲求を投げると、博打の胴元からも同じ感情が返ってくるので、その感情の強いほうが勝つ。
もちろん博打の胴元やるくらいだから、儲けたい欲求は、賭ける側より絶対的に強いんです。だから胴元が勝つのは必然。

もちろん胴元のほうが諸事立場が有利になるということもありますが、それも含めて感情のリターン。だから博打は基本的には誰がやっても賭ける側が負けるんです。そしてそれは自分が投げたもののリターンなんです。

逆に言うなら、博打で確実に勝つには短絡的に儲けようという発想では困難で、相応の研究や分析、そしてときには引く勇気、進む勇気が必要です。大変なんです。それだけの労力を尽くせばそれに見合ったリターンもあるでしょう。

でも結局のところ、だったら真面目に働いたほうが分がいいということになりますわな。

ちなみに上記の理由から僕は博打は一切しません。

と書きながら、テーマをついて忘れてた。
えーと、すべてはブーメランのように返ってくるという話しでしたな。

そう。だから誰かに対して愛を投げれば愛が、憎悪を投げれば憎悪が返ってくるんです。

で、重要なのは、それらはときに形を変えて返ってきたり、随分と時間が経ってから返ってくることもあるってことです。

しかし、形を変えたとしても、そこに介在する感情は同じです。愛には愛。憎悪には憎悪。

いくら愛を投げても返ってこない。返ってきた気配すらない。
その場合はあらためて考えてみるべきです。それが本当に愛だったのかと。
単に自分の寂しさを紛らわせたかっただけじゃないのか、単に自己保身のためだっただけないのか、単に誰かの関心を引きたかっただけじゃないのか、と。

憎まれる覚えがないのに憎まれる。
その場合もあらためて考える。相手が望んでいないことを無理に押し付けたりしていないか、勝手な自己満足の善意だったのではないか、意図せず軽口で人を傷つけたりしていないか、と。

もし、心から何かを求めているのであれば、それと同じものを求めている人に対して、あなたが求めていることをまず投げる。差し出す。あげちゃう。
見返りを期待せず、そのまま相手に尽くしてみる。
相手の機嫌を取るのが目的ではなく、相手が求めているものを手にすることが目的なのでここ注意。

そうやって投げたブーメランが、いつか必ず手元に返ってくるもんです。

と、あまり大袈裟に考えるのもアレなんで、もうちょっと身近な話しで言えば、誰でも優しくされれば、優しさを返したくなるし、憎まれれば憎み返したくなる。

だから、自分がそうして欲しいことを、同じ思いを持ってる人にやってあげればいつかそれが返ってくるということですな。
●誰がやんの?俺でしょ!

いつやるのかと言えば今なわけで、じゃあそれを誰がやるのかといえば俺、すなわち自分。

あいつが動かないから、あの人がOKしないから。
そんなことをボヤいても始まらないし、ボヤいて問題解決すんならとっくの昔に解決してるはずですわな。

だったら自分でできることをやればいい。他人がどうのはまるで関係ない。自分がやればいいだけ。

組織のルールだとか、グループの和とかを重んじるのもいいですよ。それを重んじてて問題解決するならば。
もしくは、問題を解決するよりも、組織のルールやグループの和のほうが重要で価値あることならば。

動けば確執や衝突もあるでしょう。でもそれが信念に基づいていて、価値あることだと考えてのことならば、むしろ確執や衝突からもっと価値あることが見えることだってあるわけです。

リーダーが無能だから自分を評価してもらえない。
だったらリーダー以上の力を発揮して、リーダーよりさらに上に対して自分の力を誇示すればいいだけでしょう。無能なリーダーを踏み台にするくらいの気概がない人間は、誰も評価しませんよ。
自分がリーダーになれば問題解決です。

部下が無能だからうまくチームが動かない。
だったら部下の仕事を全部自分でやればいい。手本を示せばいいだけでしょう。手本を示しても動かないのは、手本の示し方が悪い。もしくはホントに無能なら決断して総入れ替えすべきです。少なくとも仲良しグループ目指すんじゃないならそうすべき。
自分でやれば問題解決。

でも結局組織やグループの力が強くて自分の力は知れている。
だったら、その組織やグループから飛び出すことも選択肢としてありでしょう。自分が力を発揮できないとわかっているのに、その組織にいる理由もないわけで。
自分で飛び出せばこれも問題解決。

いい人にめぐりあわない。
覚悟のない人には覚悟のない人しか近寄りません。何もせず口だけ開けてボーっと待ってる人に関わりたいと思う人はいません。
そんな人に近寄ってくるのは、うまい儲け話しで身ぐるみ剥がしてやろうと考える詐欺まがいの連中だけですよ。
自分で覚悟を決めればそういう人にめぐりあいます。

いろいろ言って結局は状況や環境、他人を理由に何もしない。
それもいいかもしれません。自分の人生の選択を、状況や環境、そして他人に委ねるのであれば。

でもね。だったらボヤくのはやめたほうがいい。もう全部状況や環境、そして他人に委ねたわけだから。あとは流れ流されの生き方で、そう割り切ればいいだけ。

もちろん、善し悪しの話しではありません。生き方にいいか悪いかなんてない。
そんなのは自分の価値観による選択にしか過ぎないので、どんな生き方しようがそれは千差万別好き勝手でいいんです。

とはいえ、状況や環境、他人を理由にボヤいたり、ストレスを感じているくらいだったら、まず自分で行動起こせばいいんです。何であれできることをやるんです。
周りがどう言うかなんて関係ない。どう思うかなんて知るか!と。

みんな色々言いますけどね。応援してるとか、頑張れとか。
まあ実際には言うだけですけどね。いざとなったら誰も助けてくれないし、守ってもくれない。言うだけですよ。上っ面だけ。いい人面で。結局は他人事だから。

そしてもちろん批判もされますよ。和を乱すとか、勝手なことやりやがってとか。あげくの果てには的外れな論評なんかもされたり。

それでもやるんです。それでも動くんです。
自分しかいないんだから。自分を行きたいところへ連れていってくれるのは。そして最後まで見放すことなく付き合い続けてくれるのも。

そのくらいホントに本気の覚悟を決めて自分で動けば、状況なんていくらでも変わります。そしてなんやかんやで志を同じとする誰かが必ず助けてくれます。そこまで覚悟を決めてれば。

自分でやると決めて動くことです。

当たり前のことなんです。当たり前。
何を今さらと思う人も多いでしょうが、これが当たり前すぎてときどき抜け落ちる。

ついつい、状況がどうだ、環境がどうだ、あいつがどうだ、そんなふうに他者に責任を転嫁しそうな自分がいたときに、
『お前自身は? お前の覚悟はどうなんだ?』
と、自分に問いかけてみることも、必要だろうといろいろ考える今日この頃。
●イメージしたところで何も起きない

イメージが鮮明になりすぎて、本当にそれを手にしたくてたまらない。そのためにいてもたってもいられず、自然に行動に移ってしまう。まさにじっとしていられない。

というところまで、心から強く強く切望することができれば、結果的に行動が生まれるし、そこまでの思いを持って行動する人には誰かが力を貸してくれるものです。

思いの結果は行動です。

行動に移ってしまうほど、強い思いを持っているか?

逆に言うならば、そのくらいの強いイメージを描き、それを行動に移すことができず、上辺だけでイメージが云々と言ったところで何も起こらない。

ただ思い、ただ誰かが助けてくれるのを待っている、ただ空から幸福が降ってくるのを待っている。
そんな人誰も助けてくれませんよ。空から幸福も降ってきません。

いや、ごく稀にそういうこともあるかもしれません。ごく稀に。宝くじが当たるとか。
でもそれって、再現性がありますか?
誰にでも同じことが起こりますか?

誰でもボーっと口空けて待ってりゃ、理想の人生を実現できるんなら、世に貧富の差なんてありません。
フェイスブックやツイッターに、いいこと投稿してりゃいいこと起こるかって、起こりゃしませんよ。

それらは前提条件の一つにすぎないんです。その前提条件の一つだけ、手軽そうなところにだけ手を出してみたところで、何も起きない。いや、人の悪口や批判ばっか言ってるのに比べりゃ100億倍ましですが。

世の中で、「イメージだけすればいいんです」「いいことだけ言ってりゃハッピー」と唱えているセミナー屋さんをよく観察してみれば答えは一発。
彼ら、すっっごく働いてますから。すっっごく忙しいし。すっっごく勉強もしてます。

本当は行動してるんです。そして行動の必要性もみんなわかっているんです。商売上そこをはしょったほうが、いろいろ都合がいいからそうしているだけのことで。

それに何もしないでイメージだけでうまくいくのであれば、みんな真似して、すぐ競争にさらされます。結果的に楽じゃなくなるし、そこで行動できてない人は、淘汰されることから免れられない。

結局、綺麗事で気持ちいいこと言ってみたところで、現実には競争があるんです。限られたパイの奪い合いだから。

競争とはかけ離れてれば、行動なんかしなくても大丈夫。そんなこと言っても無駄。
コンビニのバイトにしたって、あなたがその店で働いているせいで、他の誰かがその店で働けない。
あなたの会社の商品が売れれば、他の誰かの会社の商品が売れない。

だから最後は行動なんです。
イメージだけして何もしなけりゃ、あっと言う間に出し抜かれ、追い越され、あれよあれよと追いてけぼり。

思い通りになるかならないか。それは行動。そして、その行動を生み出すための前提条件としてのイメージなんです。

行動の差が結果の差。
その前提条件が鮮明で強烈、いてもたってもいられないくらい、イメージをはっきりと描けているかの差ということでしょう。

いろんなセミナー行ったり本読んだりするのも、行動の一つともいえますが、それも結局は前提条件。
そこで得た知識を基にイメージを鮮明にして、その上で自分のやりたいことを実現するために具体的な行動が必要なんです。

そして、行動を喚起するほどの鮮明なイメージを描くには、潜在意識下にある本来の自分、自分が理想とする本来の自分の姿を発見することからはじまるんです。

何となく、自分が心から望んでいるわけじゃあないけど、だいたいこんな感じのイメージならまあ良しとするかあ。周りからの批判もなさそうだし~。
というイメージをいくらしたところで、そりゃ心に響きませんよ。行動したいと思わない。

だから詳細な自己分析のプロセスを経て、浮き彫りになったやりたいことのイメージや、それを実現する課題解決のためのイメージなど、ステップを踏んで潜在意識のイメージの書き換えが必要なわけです。

もちろん、そういうプロセスをすっ飛ばして、直感的に自分の理想をみつけて、すぐに行動できる人も現実にはたまにいます。が、そういう人も多くはない。
■困難の真実

いやまあ毎日生活していると、いろいろと難しいと思う状況だの、厳しい状況だのというのはあるもんです。

もちろん、その難しさや厳しさには状況や環境、それに感じ方の個人差があるわけで、何をもって難しいとか厳しいと言うかには、いろいろ議論の余地はありますわな。

なので、誰と比べて何をもって厳しいとか、何と比べて何をもって難しいということではなく、ここではあくまでも、ごく一般論的に各個人が主観的に、厳しいとか難しいとか感じる心のありようについて考えてみます。

いいものも悪いものこの世には存在しません。
いいと思うからいいものが生まれ
悪いと思うから悪いものが生まれるのです。
ジョセフ・マーフィー

起こりうるすべての事象について、いいか悪いかを決めてるのは誰か。そりゃ決めた本人であることは当たり前の話し。

誰かがいいか悪いかを決めるから、それがいいことにも悪いことにもなるわけで、誰かがいいか悪いか決めなけりゃ、その事象自体にいいも悪いもないわけです。

なので言ってみれば、この世に困難なるものも本来は存在しない。困難だと思う、これは困難だ、そう決めるから困難になる。

だから困難だと思わなければいい。困難だと決めなければいい。
と、言うのは簡単ですが、現実的にはそんなことは無理。実際に無理難題に直面すりゃ誰でも「あちゃー。こりゃ厳しいわー」と思うもんです。これはしょうがない。

が、そうすると、でもマーフィー先生は、あなたが心でそう決めるから困難になるって言うし、困難であることを認めるってのは少し矛盾するんじゃないか、という疑問が生まれたりもするんです。

ということで、ここからが重要。

困難は困難であると認めてもいいんです。それがその人にとってそう思うならば。

でもそこには二つの事実があるんです。

一つはその困難を乗り越えることで、得られるものが必ずある。
もう一つはその困難を乗り越えようとする過程で、得られるものが必ずある。


厳しくて難しい状況だ。で終わってしまえば、その人にとってはそれが事実で、単に厳しくて難しい状況ということだけなわけで。

厳しくて難しい状況ながら、そこからはこういうものが得られる。
という事実まで少し洞察すれば、厳しくて難しい状況は変わらないとしても、現実として起こる心の動きが明らかに変わるし、その後の結果も大きく変わるわけで。

厳しくて難しい状況であるという事実を、「なんて楽しいんでしょう」と無理矢理に変換することは不可能であっても(たまにそれを素でできる人がいますが普通は無理)、ほんの少し洞察を加えるだけで、見えるものはずいぶんと変わるはず。

すべての事象を大きく転換するように、ものの見方や考え方をガラっと変えるということは、可能であればやればいいんですが、なかなかどうしていきなりは難しいもんです。

であるならば、今までのものの見方や考え方にちょっとだけプラスしてあげればいい。それだけでも大きな違いが生まれます。
これなら簡単で、すぐにでもできますわな。

要するに、困難に立ち向かうことによるインセンティブを自分の中で明確にしてあげれば、そのインセンティブが一つの事実として存在しはじめるってことです。

潜在意識にポジティブなイメージを送りこみながら、起こることをすべて肯定的にとらえて、見えるもの感じるもの、そして人生そのものを理想の形にしていくジョセフ・マーフィー博士の潜在意識活用法則。

その使い方はちょっとした工夫を加えるだけで、ずいぶんと実用性が増すもんです。
■約束を果たす

一所懸命かどうかなんて別にどうでもいいんです。約束したことを100%果たしているかが重要なんです。

「そんなに一所懸命じゃなくてもいいじゃない。」

そういう一見すると優しそうなことを言う人もいますけどね。でもそれも事実。一所懸命じゃなくていいんです。約束を100%果たしていれば。

借りた100万円を明日まで返さなきゃいけないのに、まだ満額工面できない。でもね、一生懸命にならなくていいですよ。返せばいいだけだから。

一所懸命な姿勢を見せる。
それはそれで重要です。でも姿勢見せたってチャラにはなりませんから。姿勢で飯が食えますか?食えませんよ。姿勢より約束を果たすかどうかなんです。

一応言っておきますが、僕は一所懸命なのを否定していません。いや、むしろ大切だとさえ思っています。大切であると同時に、それは当たり前のことでしかないんです。

それ以前にもっと重要なことは結果なんです。自分との約束。他人との約束。これを果たしているかどうかなんです。

一所懸命だけど、毎月会社では20万の価値しか生み出さない。でも彼を雇うには毎月100万円かかる。しかも会社の資金繰りは逼迫している。
自分が社長の会社がそうなったらどうしましょう。

一所懸命に約束果たそうとしていても、いつもその約束を果たせない人と、チャラそうなくせに必ず約束を果たしてくれる人。
どちらと次の約束をしたいと思うでしょう。

■できる約束

要するに、一所懸命全力でやれば、果たせる約束をすればいいんです。
できない約束して、その達成のために一所懸命やって、苦労して、その結果約束果たせず、信用は失い、挙句の果てには自己嫌悪。

さらにその挽回のために、同じかそれ以上の約束して、また同じことの繰り返しで約束果たせず。まさに『負の一所懸命スパイラル』

もうね。疲れるでしょ。それ。

まあ他人との約束なんて、あの手この手の言い訳を駆使すれば、辛うじてでも取り繕うことができるけど、自分自身との約束だともう目も当てられない。

せっかく目標設定して、行動計画作って、一所懸命やってみる。でも結果が出ない。というより出せない。だって目標設定が間違ってるから。そもそも果たせない約束だから。それで自己嫌悪。自己イメージは下がるし、そのうち心がポキっと音をたて・・・。

本当にそれが一所懸命、それこそ全力出せば実現できる目標なのか。ぶっちゃけ言うとちょっと無理、と思ったりしていないか。
もし自分に対して疑念があるなら、目標をもう一度見直したほうがいい。

そして確実に(もちろん一所懸命やれば)、達成できる目標へと再設定すべきでしょう。

一所懸命やってりゃ誰か認めてくれるか。自分の自尊心が高まるか。いや、認めませんよ。世の中そんな甘くない。第一結果が出なきゃ自分自身が一番イヤでしょ。

だったら結果の出る約束、達成できる目標にシフトすればいいじゃないですか。

他人との関係性でもそうです。約束に対して一所懸命やってくれても、いつも結果の出ない人より、確実に約束を果たしてくれる人と約束したい。
だからできる約束すればいいんです。

そうやって、約束は確実に果たす。
でもそれじゃまだ約束を果たしたに過ぎないので、当たり前のこと。当たり前レベルからまだ脱却できていない。
約束果たして100%。それは当たり前なのでそれじゃ評価対象外なんです。

そこからさらに、どのくらいのプラスアルファを積み上げられることができるか。どのくらい101%以上にできるか。
それが他者からの評価、そして自分自身の自己評価を高めることになるのでしょう。

でっかい目標持つのは素晴らしいことです、野心はでっかく抱きたい。
でもそれも間違えると、『負の一所懸命スパイラル』に陥るハメになるので要注意。そのためにも、自分自身を知ること。

自分にとってその目標はどういう位置づけであるのか、自分はそれを達成する現時的な可能性がどこにあるのか。
常に101%以上の結果を出し、他者からの評価、そして自己評価を高めるためにも正しい自己分析は重要なんです。

一所懸命は当たり前。そもそも一所懸命じゃない人なんか、誰にも相手にされません。一所懸命なその力を、もっと効率よく使うべきじゃないかと。

正しい目標設定に向けて一所懸命行動して目標達成。
さらにプラスアルファを積み上げて自己評価も自己イメージもUP。できる勝ち癖つけて、さらに次へとステップアップ。もちろん他人とも約束も果たしまくり。

誰だって、そんなの一所懸命のスパイラル』を生み出すほうがいいに決まってますわな。
■悪口の正体

なぜ私たちは他人の悪口を言うのか。
なぜ私たちは他人に悪口を聞かされるのか。

他人の悪口に貴重な時間を割き、エネルギーを浪費してしまうのは、他者を貶めることで自分の立ち居地を相対的に上げたいという、短絡的で一時凌ぎの願望によるものといえるでしょう。

そのような消極的で非生産的な願望によって得られるものとは何でしょう。
一時的には優越感を得ることができ、それによって少なからず気が晴れることもあるかもしれません。
で も そ れ だ け。

逆にそれによって失うものは何でしょう。
他人からの信頼、信用、友情、愛・・・など、あげていけばキリがありません。

そのような事実は、誰もがこれまでの経験の中から理解しているはずです。にも関わらず悪口にいそしむクセが抜けないのはなぜでしょう。

理由はカンタン。

だから。

そう。暇なんです。
往々にして忙しい人、つまり明確な目標を持ち、その実現のために行動している人にとっては、他人の悪口を言ったり、悪口に耳を傾けている時間がもったいない。無駄以外のなにものでもないし。

悪口そのものが自分の決めた目標達成の糧にでもなるんなら、そういうこともあるでしょうが。
ないない。そんなこと。

周りを見渡してみて、「あーこの人の目標への行動意欲ってすごいなー」と思える人って、他人の悪口言わないし、耳を傾けてもいないですよね。

それを自分に当てはめてみても同じです。誰だって本当にやりたいことにエネルギーを注いでいるときって、他人の悪口なんて言ってるのは無駄だと思うし、聞きことすらウザいんです。

だから暇なんです。
他人の悪口言う人って。


それと、自分の周りには悪口言う人ばっかりだ。そう感じてる人も同じ。
目標達成のために積極的に忙しく行動をしている人には、悪口言う人も近づかないんです。言っても無駄だと直感的にわかるから。

だから、周りの人の悪口のせいで、自分の行動ができなくて云々・・・と言う人は、もう一回自分の目標に対しての意欲、そして行動を確認してみたほうがいい。

だから同じように暇なんです。
他人の悪口を聞かされる人も。


では、どうすれば悪口言ったり聞かされたりしなくなるのか。

一つには、これまで述べたように明確な目標の設定。単にアドバルーンとして掲げるためのものではなく、達成意欲が湧き、その意欲が実際の行動へと転嫁できるほどの情熱を伴ったもの。
そうすれば他人の悪口の世界から必然的に隔絶されます。

とにかく動く。やる。いろいろ考えたり聞いたりするより、目標に向けて行動をSTART!
まさにDo it now!

悪口言ったり聞いたりする暇なんて、なくなりますから。

そしてもう一つには、ここでは詳しく触れていませんが、潜在意識レベルでのクセ付けを変えること。日常的にクセとして身についた潜在意識下における思考のクセを把握し、それを修正することですわな。
■イメージは物質化する

いわゆるイメージの力というものについては、成功哲学の祖であるナポレオン・ヒル博士の言葉をまま引用するとわかりやすい。

思考というものは一つの実体、しかもその思考内容そのものを現実化しようとする衝動を秘めている実体、といってもよい。それは強力なエネルギーを持っている。それゆえ、思考が明確な目標、忍耐力、あるいは強い願望とあいまって成功に向かって作用しはじめるとき、思考は強烈な実体になる。
『思考は現実化する(きこ書房)』より
ナポレオン・ヒル著 田中孝顕訳


思考(=イメージ)とは、浮かんでは消える、曖昧で形もとりとめもないものではなく、ましてや「無」などでもなく、あくまでも実体として存在するエネルギーそのものである。
なぜなら、現実を創り出すための原因であり過程であり、手段でもあるからだ。

そう考えると、現在がいかなる状況であれ、それは過去からのイメージの積み重ねの結果によるものであろうということは、おのずと合点がいく。

私たちは、起きた様々な事象に対し、その要因を他者や周囲の環境に求めてしまいがちではあるが、実のところすべては自らのイメージが実体化したということにすぎないのではないか。

ナポレオン・ヒルの成功哲学の正統継承者として知られ、『ザ・シークレット』ではメインアンカーを務めたボブ・プロクターは次のように述べる。

現代の人は「目に見えるものがすべて」という考えの下、五感で知覚できるものだけを信じる傾向にあります。しかし、一部のビジョナリーパースンたちは、「心の目で見たものが現実になる」という根本的な原則に気づいています。まず心に描いたものがあって、その後に現実になって現れることを知っているのです。
『イメージは物質化する(きこ書房)』より
ボブ・プロクター著 岩本貴久監訳


重要なことは、私たちは、起こったことについてイメージしているのではなく、イメージしたことが起こっている、という事実であろう。

つまりそれは、イメージというエネルギーの使い方や、向けるべき方向への操縦法、すなわち考え方やイメージの結果によって、私達の『今』が存在しているということであり、逆説的に言えば、考え方やイメージを自分の理想に近づければ『未来』は理想に近づくということを意味している。

この根本原則を見落としたまま、手練手管のテクニック論のみを模索し、現状改善を試みたところでは、一時的な改善を見られたところで、継続的かつ永続的な改善を図ることは難しい。

物事の本質を突き詰めていけば、そこに根本要因があり、それを改善しなければ問題解決を図ることが困難であるように、より深く、根本の根本にまでその要因を突き詰めれば、それは私たちの思考、すなわちイメージへと行き当たるのであろう。

前述のボブ・プロクターはこうも述べる。

わたしたちにもともと備わっている真の能力を生かして、すばらしいイメージで心のスクリーンを満たすのです。そして、それらのイメージが、あたかもすでに実現しているものとして確信し、期待するのです。
『イメージは物質化する(きこ書房)』より
ボブ・プロクター著 岩本貴久監訳


あれやこれやと表層的な問題に右往左往するのではなく、自らの内面に目を向け、これまで描いていた自分の未来のイメージを、できうる限り理想のイメージへと近づけるようにすることのほうが、あらゆる問題解決のスタートとしては相応しい。

もちろん、眼前に存在しうる、すぐに解決すべき物理的事象については、イメージ云々よりも今この瞬間にでも即時に動いて対応すべきであろうことは語るまでもない。


参考書籍
イメージは物質化する(きこ書房)
ボブ・プロクター著 岩本貴久監訳
■なぜ決められないのか

そもそも私たちはなぜ迷うのか、いうことについて考えてみたほうが良いんじゃないかと考えるわけです。

なぜ迷うか、というその理由を細かく挙げればいろいろありますが、大雑把に言えばこんなところでしょう。

1、どっちの選択にも確証的な予測が成り立たない
2、どっちを選択しても問題ない

仮に確証的な予測が成り立っていれば、迷う必要はないですよね。ほぼ成功する予測のほうを選ぶか、ほぼ失敗するほうを選ばなければいいわけです。
話しは早いし答えは簡単。そこに迷う余地はないわけです。

逆に言うと確証的な予測が成立しない以上、迷ったところで意味はあまりないってことになりますわな。

そしてもう一方、どっちを選択しても問題ないという場合。ラーメン食べようか、うどん食べようか迷うようなもんです。どっちを選んでも人生に大きな影響はありません。

迷ったときにちょっと考えてみればいいんです。この選択がどんだけ自分の人生を左右する決断なのかを。そう考えるとほとんど影響なんてないもんすよ。

もちろん、たまたま行ったラーメン屋で、隣に座った異性と劇的な出逢いが生まれ、結婚にまで至るという影響はあるかもしれませんが、そのような不可抗力については何を選択したところで起こる可能性はあるわけです。なので、ここでは無視していいレベル。

ということで、迷うということは、どっちを選んでもどうなるかわからない、もしくは、どっちを選んでも大して影響がないということ。

だったら、自分の好きなほう、楽しそうなほう、いわゆるインスピレーションに身を委ねて「えいやっ」と決めてしまっていいんじゃないかと。

決めて動けば見えてくることもたくさんあるし、動くことによって得られた経験値が、次にまた選択をする機会を迎えたときに、参考になるわけじゃないですか。その経験値はお金じゃ換えられませんから。

もちろん、「えいやっ」がいつでもできるようになるためには、自分が何を好きで、どんな価値観を持っているかを、自分自身で把握しておく必要があるのは言うまでもありません。
さらに、判断の根拠となりえる情報へのアンテナ感度を鋭くしておくことも、日常的に必要なこと。

そうして最後は決めればいいんです。
好きなほう、楽しそうなほうを。

『そんなこたぁわかってる。
それでも決断できずにいるんだがどうすればいいのか』

なんて聞かれることもたまにあるので、一言追加しておくと。

そういう人は、そうやって「決断しない自分でいることを決めてる」ってことなのでしょうね。言うなれば決断しないで迷ってる自分が好きなんです。
表面的にはそうじゃないと言われるかもしれませんが、結果的にはそうなんです。

それが良いとか悪いとかじゃなく、最終的には自分にとって何が適しているのか、ということだけですから。
とにかく決めて行動しながら、多くのことを積み上げていくのか。それとも迷っている状況を受け容れながら、そうした状況でいるのか。

だから決められないんじゃなく、決めない自分でいることを決めている。ということになるんです。

こればっかりは誰か他人がどうすることでもないので。最後は自分自身と向き合うしかないですよね。もちろんそれは僕も含めて誰でもが。