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嶋原 末廣屋 葵太夫のブログ

たんとの方がRTとファボしてくれはってYahooでまで話題なうにのり、おおきに。

遅なってすんまへん。



逆に簡単に説明しすぎて、混乱させてしもてすんまへん。

ちゃんと今回説明さしてもらいます。




まず情報源は、司が30年前から長年図書館や資料館通ったり、骨董市で見つけた掘り出し物資料や古い新聞、お客様が資料になるような物を見つけた物を頂いたり教えて下さったり、地元の人が教えて下さったり・・・
それは、嶋原だけでなく、吉原や、色んな花街や元遊郭だったとこなどの人達からどす。
せやからどの本や資料や言われても全部は覚えてまへん。

それから、その大事な資料は個人的に知り合いには見せてもネットに載せるつもりはおへん。


この世界にいてるかこそ、見聞きもできるし、色んなことを教えて貰えるし、情報が入るんどす。


信じる信じひんは個人どす。


読んでくれはるんやったらゆっくり読んどくれやす^ - ^


これは説明どすけどもっと知りたい方いはると思うんどすよね(o^^o)

司は花街の話しをしだすと3日位喋り続けますから、もっと細かくは実際に会った人のみ聞けますえ(笑)
15年前からコツコツ個人新聞も出してますし(o^^o)



ほな長おすけど、どうぞ^ - ^







【日本最古の花街 嶋原】
日本でもっとも古い花街は、応永4年(1397)には核となる「傾城局(けいじょうきょく)」ができておりました。その後、応仁の乱などで移転を繰り返してきましたが、豊臣秀吉の天下統一に伴い、『京の都を繁栄さすため』、二条柳馬場辺りに移し、日本初の『公許花街』となりました。天正17年(1589)の事で、『柳町』と呼ばれておりました。
その後、徳川家康の時代になり六条三筋町に移転。
この町で有名な「吉野太夫」が生まれております。

大変賑わったこの町は、時の所司代・板倉周防宗茂の命令により現在の場所へ急な移転をしました。その移転騒動が「まるで島原の乱のようだ」と言われ、ここを「嶋原」と呼ぶようになりました。寛永18年(1602)の事です。
ここは「朱雀野(しゅしゃかの)※西新屋敷」という場所で、周りは田んぼや畑ばかり。どんどんどんどん足を運ぶ人が少なくなり衰退・・・
現在は「角屋もてなしの文化美術館」さんと、置屋と揚屋を兼ね備えた「輪違屋」さんだけになってしまいました。

花街には必ずある歌舞練場も雨漏りがひどく平成9年に取り壊されました。

今、葵太夫の御披露目と同時に司太夫が独立し、「末廣屋」という置屋を始めました。




【太夫】
正五位の別称で、十万石の大名に相当します。









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