ありふれた幸せは、奇跡のようにほんの一瞬しかない。 "その瞬間"を・・・ 逃してしまわないように | 音楽三昧 ・・・ Perfumeとcapsuleの世界

ありふれた幸せは、奇跡のようにほんの一瞬しかない。 "その瞬間"を・・・ 逃してしまわないように

若き実力派女優・清原果耶氏の代表作である 連続テレビ小説・『おかえりモネ(2021年)』 。 その筆者の感想と『映像力学』の視点から分析・考察したのが " 『おかえりモネ』と人生哲学 " という一連のシリーズ記事だ。それで今回は、第8週・「それでも海は」の特集記事の第3部ということになる(第2部はこちらから)。

 

今回の記事は第8週・39話を中心とし、そのエピソードから波及する他の放送回も含めたエピソードも、時系列を越えて構成している。 したがって基本的にセリフの引用は注釈がない限り、39話のものと考えて頂きたい。また今回は筆者の感想を中心として、 『映像力学』の視点も交えながら分析・考察していきたいと思う。

 

 

 

 

※目次

 

○プロローグ

 

○彼の " 人の親 " としての満たされなさを・・・ 時間は解決してくれるのだろうか

 

○彼女を葬り去らなければ・・・ 俺たちは未来へと歩き出せない。『映像力学』によって浮き彫りになる " 彼の心の歪み "

 

○ " 消せない傷 " と共に生きて行こうとする・・・ 彼

 
○素直じゃないんだから・・・ そんな彼女と彼を温かく見守りたい
 
○並んで同じ方向を向いてくれる存在がいるからこそ・・・ 人は " 力強く未来へ " と歩いて行ける

 

○ありふれた幸せは、奇跡のようにほんの一瞬しかない。 " その瞬間 " を・・・ 逃してしまわないように 

 

 

 

 

 

○プロローグ

 

 

主人公の永浦百音(モネ 演・清原果耶)は、翌年の1月に控えている3度目の気象予報士の資格試験の受験に備え、2015年の年末から実家の亀島に帰省して集中して勉強することにした。

 

年が明けた2016年1月のとある日、及川新次(演・浅野忠信氏)がいなくなったと騒ぎとなり、永浦家はその行方を探すことに。ようやくその姿を発見し、亀島の津波で流された自宅跡地に座っていた彼。最近ではアルコール依存症の治療も進み、飲酒の誘惑を断ち切っていた新次だったのだが・・・ とうとう酒に手を出して、自宅跡地で座って飲んでしまっていたそうだ。

 
 
*津波で流された自宅跡地で、携帯電話の留守番メッセージに残された愛妻・美波の " 最期の言葉 " を聞きながら酒を浴びるように飲む新次。この場所は " 美波の最期の場所 " だった。 第8週・39話「それでも海は」のアバンタイトルより
 
 
 
そして泥酔した新次を百音の 父・耕治(演・内野聖陽氏)と母・亜哉子(演・鈴木京香氏)、祖父・龍己(演・藤竜也氏)で、永浦家に連れて帰ってきた。
 
 
 
 
 
○彼の " 人の親 " としての満たされなさを・・・ 時間は解決してくれるのだろうか
 
 
永浦家では、ようやく酔いから醒めた新次にその一連の事情を聴くことになった。
 
 
 
 

 

 

耕治は、『ここのところ酒も止めて、病院にも通ってたんだろう。土木の仕事もキッチリやってるし、金も少しずつだけど返してる。 " ちゃんとしよう " って・・・ 頑張ってたんじゃないのか? 』と新次に問う。

 

何も答えない彼に、龍己がさらに『酒でも飲まないとやってられないことでもあったか? 』と問うと新次はそれを否定し、ようやく重かった口が開く。そして新次の否定した言葉の中に・・・ 永浦家の全員が " これまでの彼とは違った雰囲気 " をそこはかとなく感じ取る。そして新次は、龍己の目を見ながら思ってもみなかった言葉を口にする。

 

 

 

 

『新次 : 5年て・・・ 長いですか。


『龍己 :  え ? 』

 

 

『新次 : お前、まだそんな状態かよって、あっちこっちで言われるんですよ。でもね・・・ なんでか、もう、ずっーとどん底で・・・ 俺は何にも変わらねえ。』

 

 

 

 

*耕治の問いかけには対しては答えず、龍己の問いかけに対してようやく重い口を開く新次。青色の矢印は龍己の座る方向を指す。新次は龍己の目を見て答えていることが象徴的だろう

 

 

 

さて皆さんは、このシーンでなぜ新次は耕治の問いかけには答えず、龍己の問いかけには答えたと思いますか?

 

筆者の考察として、その理由の一つには、 昔は遠洋漁業でならした龍己のことを " 漁師の先輩 " として、 新次は非常に尊敬していることが挙げられると思う。そしてもう一つの理由として考えられるのは・・・ それについては後程説明したいと思う。

 

 

 

そして、とうとう・・・ 新次の息子・亮 (りょーちん 演・永瀬廉氏) が、永浦家に駆けつける。

 

 

 

 

*お互いの目が合う亮と百音。亮のそこはかとない " 後ろめたい " ような表情が印象的だ

 

 

 

この百音と目が合った時の亮の表情・・・ 皆さんはどのように感じましたか? 筆者は・・・ 父・新次の醜態とそれを迎えに来た亮自身のこの姿を、

 

 

 

 

[ この姿は誰にも・・・ 特に百音だけには絶対に見られたくなかった・・・ ]

 

 

 

 

といったような、そこはかとない後ろめたさと悲哀に溢れる表情に感じられるのだ。そして、おそらくこれまでの亮は、百音たちには " この表情 " しか見せてこなかったのではないかと思う。

 

 

 

 

*震災直後 (2011年5月頃) に亮の住む復興住宅を訪れた百音たち。その際に『大丈夫』と言って " 作り笑顔 " を見せた亮。第8週・37話「それでも海は」より

 

 

 

他人に自分の弱さは絶対に見せない・・・ そのために " 無理して作る笑顔 " の亮 。ある意味、彼も " 意地とプライド " ということ最も重要視している哲学を持っているのではなかろうか。そしてこの気質は、父・新次から受け継いでいるということなのかもしれない。

 

 

亮が永浦家に到着しても、新次は話を続ける。このどん底状態の中でも、漁師として日々成長していく亮の姿が、父親としての喜びを感じさせれくれたと語る彼。さらに・・・ このように語った。

 

 

 

 

 

『新次 : (亮の)言ってることガキなのに、" その声 " がもう子供じゃなかったのが、俺はもの凄く嬉しくて。 もしかしたら、俺に似て筋がいいんじゃねえかなと思って。』
 

 

 

 

 

この新次の話を聞いている時の龍己、耕治、亜哉子の温和な表情が印象的だ。すると新次は急にすすり泣きをはじめ、彼の話を聞いていた永浦家の面々も、その変化に驚いて空気が一変する。

 

 

 

 

 

『新次 : それを・・・ しゃべる相手が・・・ 話す相手がいないんだ。本当だったら、一杯飲みながら・・・ " 一緒に親バカだな " って言い合える美波がいないから・・・

 

 

『新次 : なんだろうな・・・ それで気付いたら、家があったとこ戻ってた。本当に毎回、迷惑かけてごめんな、耕治・・・ もう、本当にごめんな、もう・・・』

 

 

 
 
 
 
 
この客間に座っている永浦家の三人は " 人の親 " だ。これまで龍己は故・雅代と、息子・耕治の成長の喜びをお互いに分かち合いつつ、共感してきただろうし、耕治と亜哉子は、娘・百音と未知の成長の喜びをお互いに分かち合いつつ、共感してきたわけだ。人の親としての醍醐味は、
 
 
 
[ 夫婦二人で、子供たちの成長を見守ってそれを共有し、" その喜び " をお互いに共感し合う・・・ ]
 
 
 
ということに尽きるだろう。もちろん新次は亮の成長を、龍己や耕治、そして亜哉子たちとで共有することは出来るだろう。しかし・・・ " 亮の親としての喜び " までは一緒には共感はできないのだ。その親としての喜びを、唯一共感できた存在が・・・ 愛妻・美波だったわけだ。その新次の喪失感と孤独感は計り知れない。そして最初の方で新次はあえて龍己に、
 
 
 
『5年て・・・ 長いですか。』
 
 
 
 
と問いかけている。その理由は耕治とは違って、龍己は愛妻・雅代を既に亡くしているからだ(2013年頃逝去か)。したがって、妻を亡くして3年目を迎えた龍己に新次は、
 
 
 
 
[ 3年経って・・・ 喪失感を払拭できましたか? 5年経っても、喪失感を払拭できないって・・・ 長いですか? ]
 
 
 
 
と聞きたかったのではなかろうか。このセリフの裏側には、新次の胸の内が隠されているように感じられて・・・ 筆者はしょうがないのだ。そして何よりも、龍己や耕治、そして亜哉子は新次の語る " 人の親としての気持ち " が痛いほど分る・・・ だからこそ誰も何も言えなくなってしまった。
 
 
 
そして、この新次の話を立ち聞きしていた息子・亮の表情が・・・ 切なすぎる。
 
 
 
*亮の喪失感を湛える表情を目にする百音。亮のこのような表情を初めて目にしたためか、百音に表情に驚きの色が垣間見れる
 
 
 
これが母・美波を失った喪失感を湛える、亮の本来の心情を如実に表した表情だろうと思う。そしてこのような彼の表情を・・・ 百音は初めて目にしてのではなかろうか。亮を見つめる百音の表情に驚きの色が感じられるのだ。
 
 
そして誰も何も言えなくなってしまった永浦家の客間には・・・ 新次の喪失感と孤独感の重い空気だけが満たされていく。
 
 
 
 
 
○彼女を葬り去らなければ・・・ 俺たちは未来へと歩き出せない。『映像力学』によって浮き彫りになる " 彼の心の歪み "
 
 
永浦家の客間に閉塞感が漂う中・・・ それを打ち破るが如く、亮が戸を開いて入ってきた。『よっしゃ、一曲歌うか! 』
 
 
 
 
 
 
 
 
この時の亮が戸を開く所作が、非常に印象的だ。
 
 
 
 
*永浦家の客間の戸を勢いよく開いて入ってくる亮。 " 上手から下手へ " と歩いて入ってくるのが象徴的だ。赤色の矢印は下手側を指し、そのの先には " 未来 " がある
 
 
 
永浦家の " 客間の引き戸 " がまるで、新次のその喪失感で作られてしまった " 心の壁 " のメタファーように感じられ、それを打ち破って壊すが如く、亮が勢いよく戸を開けるのだ。さらに言えば、彼は " 上手から下手へ " と入ってくる。『映像力学』 的な視点で考えると ( 詳しい理論はこちら )、亮のこの動きは " 未来へと向かって進む " という意味合いがあるため、
 
 
 
[ 俺が・・・ おやじを " 未来へ " と引っ張って連れて行くんだ・・・ ]
 
 
 
 
という気持ちが表現されているのだろう。亮は『耕治さん、まだアレありましたよね・・・ 』と、永浦家にあるカラオケ用の「8トラックレコーダー」を探す。永浦家で食事会・宴会があると、生前の母・美波が一番手に取り出して使ったものだ。
 
 
 

*子供たちも交えた宴会のシーン。ありふれた幸せが、この瞬間に " 永浦家の客間 " には満ち溢れていた。第8週・37話「それでも海は」より
 
 
 
しかし新次の気持ちが痛いほど分る耕治は、亮の行動に止めに入ると・・・ その耕治を亮は突き飛ばして、
 
 
 
 
『亮 : いいじゃないですか! メカジキ、50本揚げて、祝杯挙げてぇけど・・・ 俺、誕生日まだだから、酒も飲めねえし・・・ 一曲歌わせてもらってもいいでしょ!? 』
 
『亮 : ほら・・・ おやじ! ほら、おやじ! 母ちゃん、よく歌ってたやつ、歌ってやるよ! 』
 
 
 
 
と言って、母・美波の十八番だった 『かもめはかもめ (1978年) 』を泣きながら歌い始める亮。しかし亮の方を一切見ない父・新次。
 
 
 
 
 
 
 
 
そして、こちらを見ようともしない新次に業を煮やしたのか・・・ 母・美波の " 最期の言葉 " が留守番メッセージに入っている、新次の " 今、唯一の心の拠り所である携帯電話 " を取り上げて・・・ 投げつけて壊してしまおうとする亮。彼のフラストレーションが最高潮にまで達した瞬間だった・・・。
 
 
 
 
 
 

さて、亮が「かもめはかもめ」の『もう、電話もかけない・・・』と歌った後に、父・新次の携帯電話を取り上げるところが既にメタファー的と言っても過言ではないのだが・・・ このカットは、新次と亮の心模様が " この1カット " に巧みに詰め込まれていることを、皆さんはお気づきになっただろうか。
 
 
 
まず一つ目は・・・ もう言うまでもないのかもしれないが念のために。新次は上手側を向いてうなだれている。『映像力学』的な視点で捉えると、 上手側に向いている場合には " 過去を見つめている・ネガティブ思考・不幸 " ということを表現しているため、新次が心理的に相当参って、ネガティブな状態になっているということを表現していることは言うまでもないだろう。
 
 
そして二つ目は『ローアングル(仰角)・ショット』を採用していることだ。このショットを採用すると座っている新次よりも、立っている亮の方がより大きく見える。このことによって、このシーンでの亮の " 力強さ " や " 荒々しさ " などを表現しようとしていることが考えられる。もっと言えば、
 
 
 
 
[ 昔は逞しかった父親が・・・ 今はその見る影もなく、弱々しい父親の姿にイライラし、その感情をぶつけてしまう息子 ]
 
 
 
 
 
といったようなことを映像で表現しようとしていることが考えられるのだ。
 
 
 
 
『永瀬廉 : 亮が "ガッ "って入ってきた時に、監督さんに「おやじを一回見てみて」って言われたんですよ。で、一回そのとおりにやってみたら・・・ いろいろこみ上げてきてしまって。なんとも言えない・・・ 新次さんの背中をしてて。もう、もやもやしてたものが・・・ 若干イライラもして、みたいな。「なんでこんな感じなんだよ。いつまでそうなってんだよ」 みたいな。
 
 
○「おかえりモネ」ファン感謝祭 in 気仙沼(2021年9月23日放映) より
 
 
 
 
そしてもう一つあるのだが・・・ 皆さんお気づきだろうか。何かそこはかとない不自然さを、このカットから感じないだろうか。
 
このカット・・・ 実はカメラをわざと傾けて撮ってるんです。
 
 
 
 
*赤いラインが水平と垂直を示している。前額面上で20度程度傾けて撮影している感じだろうか
 
 
 
 

このようにカメラを傾けて撮影する技法を『ダッチアングル・ショット』というのだが、これはどのようなことを表現しているのだろうか。まず映像撮影の基本は、当然、画面の水平・垂直をしっかりと出すことであり、それによって映像に安定感を付与できるわけだ。

 

それとは逆に画面を傾けた構図で撮影すると " 不安定で落ち着かない " などといった感情が視聴者に生まれてくる。これを逆手にとって、登場人物の" 不安定な心情 " や "心の歪み " といったようなことをサブリミナル的に視聴者に伝えるために『ダッチアングル・ショット』という技法を使うのだ。

 

今回のシーンでは『ローアングル・ショット』と併用し、手前にこたつもあるため、仕方なくカメラを傾けて撮影したことも考えられなくもないが・・・ 傾けなくても撮れるよなぁ・・・ これ。

 

 

それでストーリー展開から鑑みると、以前の記事でも指摘したとおり、亮はまだ母・美波の喪失感を払拭してはいない。それにも関わらず、亮は母の " 最期の言葉 " が入っているという、彼にとっても非常に大切なものであるはずの " 新次の携帯電話 " を父親から取り上げて、しかも投げつけて壊そうとまでしているのだ。これは、

 

 

 

 

[ こんなものがあるから・・・ おやじも俺も未来へと歩き出せないんだ・・・ ]

 

 

 

 

といった亮のフラストレーションが、むしろ亡き母という、ある意味 " 亡霊のような存在に嫌悪感を抱く " というまでに振幅したことを表現しているのではなかろうか。さらに言えば、

 

 

 

 

 

[ 父親を縛り続けている "母という存在 " を葬り去ってまで・・・ 未来へと父親を導こうとする息子 ]

 

 

 

 

といった、亮の " 不安定な心情 " や "心の歪み "のようなものを、この傾いた映像の『ダッチアングル・ショット』で表現しようとしているのではないかと筆者は考えている。

 

 

 

 

 

 

○ " 消せない傷 " と共に生きて行こうとする・・・ 彼

 

 

母・美波の " 最期の言葉 " が留守番メッセージに入っている新次の携帯電話を取り上げて、投げつけて壊してしまおうとする亮だったが・・・ 耕治に一喝され、思いとどまる。そして新次は、今の思いの丈を亮に語る。

 

 

 

 

『新次 : 歌なんかやめろよ・・・ お前。俺は、歌なんかではごまかされねえからよ! 』

 

 

 
 
 
そして亮から携帯電話を取り返した新次は、その携帯電話を見つめながらこのように叫ぶ。
 
 
 
 

『新次 : 俺は立ち直らねえよ。絶対に立ち直らねえ! 』

 
 
 
 
 
 
 
 
 
新次のこの言葉を聞いた亮は " 未熟な自分の力では、まだ父親を未来へと連れていけないのか " といったような感じで、縁側にへたり込んだ。
 
 
 
 
 
*相反する心情の息子と父。亮は下手側を向きうなだれ、新次は上手側を向いてうなだれる。赤色の矢印は下手側を指し、青色の矢印は上手側を指す
 
 
 
『映像力学』的な視点で捉えると、登場人物が下手側を向いているということは " 未来を見つめる " ということを表し、上手側を向いているということは " 過去を見つめる " を表している。したがって言うまでもなく、亮は " 未来を見つめ "、一方の新次は " 過去を見つめていく " といったようなことを表現していると考えられるのだが・・・ 新次の、
 
 
 
 
『俺は立ち直らねえよ。絶対に立ち直らねえ! 』
 
 
 
 
というセリフを皆さんはどのように捉えましたか? 新次は本当にこれからも " 未来へとは歩みを進めない " ということを語っていると思いますか? 
 
まず筆者は、この " 立ち直る " という言葉がキーワードだと考えている。そして新次の中での立ち直るという概念は " 過去(故・美波)を葬り去る " ということと等価になっているのではないかと感じられるのだ。それと同時に新次は、
 
 
 
 
[ 過去(故・美波)を抱えながら、それと共に・・・ 人生の歩みを進められないのか? ]
 
 
 
 
といった、自分自身への問いかけや模索といったものを、『絶対に立ち直らねえ!』という言葉に込めているのではないだろうかと考えている。そしてこのことは " 復興 " という言葉にも通じるところがあるのではないかとも考えているのだ。要するに " 震災の当事者 " にとっての " 復興 " という言葉は、
 
 
 
 
[ 過去を葬り去ることで、未来へと歩みを進められる ]
 
 
 
 
というように聞こえ、そこはかとなく急かされている気分になる方々も多いのではないかと感じられる。だからこそ、このシーンで新次は龍己に、
 
 
 
 
『5年て・・・ 長いですか。』
 
 
 
 
と問いかけているような気がしてしょうがないのだ。もっと言えば物質的、あるいは物理的に震災前の状況へと戻せば・・・ すべてが元通りになるわけではない。絶対に震災前へと戻せないものがある。" その傷 " は・・・ 絶対に消すことが出来ないものもあるのだ。
 
 
 
 
[ 早く立ち直れって・・・ そんなに簡単に言わないでほしい ]
 

[ 復興って・・・ そんなに簡単に言わないでほしい ]

 

 

 

 

時間の長短は関係ない。まだ消えない傷、消せない傷が残っているのに・・・ そう簡単に元の生活に戻れるわけがない。これが新次を筆頭とした " 震災の当事者 " の本音なのではなかろうか。消せない傷と共に生きていく・・・ 新次はそのようなことも考えているのかのしれない。

 

 

 

そして、一見 " 未来へと向かおうとしている " ように見える亮なのだが・・・ 以前の記事でも指摘したように、彼自身の抱えている深い苦しみは今もまだ全く癒えておらず、実は心理的な状態としては " とても未来へとは歩き出せるような状態ではない "ことを窺わせている。このことは中・後半の東京編や気仙沼編でも露見してくる。そうなのだ。また亮も、新次と同様に " 未来へと歩き出すため " には・・・ まだ払拭しなければならないことを抱えたままだ。

 

 

 
いずれにしても新次と亮はお互いに背を向け、お互いの心情に共感を持っていない。この及川親子の深い溝が埋まるのにも・・・ これからまだ長い時間が必要になっていく。
 
 
 
 
 
 
○素直じゃないんだから・・・ そんな彼女と彼を温かく見守りたい
 
 
及川親子の騒動があったため、牡蠣の研究データが全く取れなかった百音の妹・未知 (みーちゃん 演・蒔田彩珠氏)。夜遅くから、ようやくデータを取ることに。それを見かけた百音は未知に声をかける。
 
 
 
 
 
 
百音は未知が大学へは行かずに、県立の水産試験場に就職すると決めたのは " 亮の存在 " があったからかと問う。未知は否定するが、百音は続けてこのように語る。
 
 
 
 
『百音 :  でも、違くてもね・・・ みーちゃんは、りょーちんと " 同じ方向 " を見てる。それって、りょーちんはすっごく心強いと思うよ。 』
 
 
 
 
*『みーちゃんは、りょーちんと " 同じ方向 " を見てる』と百音が未知に語りかけるカット。百音が未知から目線を外しているのが象徴的だ。おそらく演じる清原氏は、百音の脳裏には " あのこと " を思い浮かべながら語っているといったようなことを考慮し、それを表現した演技なのだろう
 
 
 
 
さて、なぜこのタイミングで百音姉妹のこのシーンが入ってくるのか。鋭い方々は既にお気づきだと思う。キーワードは百音が語った、
 
 
 
 
『みーちゃんは、りょーちんと " 同じ方向 " を見てる』
 
 
 
というセリフだ。及川親子の騒動で浮彫になったように、亮と新次はお互いに背を向け、親子なのにも関わらずお互いの心情には共感を持っていない。そして幼馴染に対しても、自分の弱さを見せたくない亮。このままでは彼は孤立無援の状態になってしまう。
 
『りょーちんと " 同じ方向 " を見てる・・・ 』  百音の脳裏には確実に " このエピソード " が浮かんでいる・・・ そうなのだ!!! 実はこのシーン、このエピソードの伏線回収だったわけなんですね。
 
 
 
*新次の過去の悲しいエピソードを思い出して、気象予報士の資格試験の勉強が手に付かなくなった百音。とりあえず今出来ることということで、縄跳びを手に取った瞬間に菅波から電話がかかってくる。偶然にも菅波は縄跳びの記憶能力の向上効果についての情報を、百音に知らせようとしていた。" カットバック法 " を用いた中で、菅波と百音は共に同じ方向を向いているように見える編集のため、二人は " 同調者・共感者 " であることを表現している。第8週・38話「それでも海は」より
 
 
 
そうなのだ。この及川親子の騒動の直前にあった " 菅波と百音の電話でのやり取り " の中で、
 
 
 
 
[ 私には・・・ 同じ方向を向いて、共感してくれる人がいる・・・・ ]
 
 
 
 
といった " 菅波という共感者がいる" ということが、百音は非常に心強かったということを心の底から実感したのだろう。
 
このままでは孤立無援の状態になりそうだった亮だったが・・・ 実は、彼にも同じ方向を向いて共感してくれる " 未知という存在がいる " のだ。百音は潜在的な " 亮の気持ちを代弁し、それを未知に伝えたかった " といった機能を持つシーンなのだろう。それでも未知は照れのためか、
 
 
 
 

『未知 : 違うって言ってるのに。』

 
 
 
 
と再び否定するが・・・ その否定の言葉を聞いた時の百音の表情が印象的だ。
 
 
 
 
*未知の『違うって言ってるのに』というセリフの直後の百音の表情。[ 素直じゃないんだから・・・ ] といった百音の心の声が聞こえてきそうな表情が印象的だ。赤色の矢印は下手側の方向で " 未来を見つめている " といったことを表現している。また、未知と百音が同じ方向を向いたカットで構成されているのが印象的だ。百音は未知や亮にとっての " 良き共感者でありたい " と考えているカットでもある
 
 
 
 
[ 素直じゃないんだから・・・ ]
 
 
 
という "百音の心の声 " が聞こえてきそうな表情が印象的だろう。そして姉として、また幼馴染として未来を見つめる未知と亮を温かく見守っていきたいと考えつつ、それと同時に百音自身も " 二人にとっての良き共感者でありたい " という、彼女の思いが伝わってくるようなカットにも感じられるのだ。
 
 
 
 
 

○並んで同じ方向を向いてくれる存在がいるからこそ・・・ 人は " 力強く未来へ " と歩いて行ける

 
 
及川親子を一晩、永浦家に泊めることとなった。及川親子が寝静まった後、耕治夫婦はゆっくりと語り合う。
 
 
さてこのシーンも、なぜこのタイミングで入ってくるのか。繰り返しになっているため、もう既にお気づきの方は多いかと思われるが・・・
 
 
 
*亜哉子と耕治を並んで座らせて語り合うシーン。横に並んで座ることで、必然的に " 同じ方向を向いたカット " になる。赤色の矢印は下手側の方向で " 未来を見つめている " といったことを表現している
 
 
 
そうなのだ。ここも " 同調者や共感者 " をテーマとしているシーンになっているのだ。その証拠として、もし映像が手元にある方であれば確認して頂きたいのだが、このシーンの直前の百音と未知のやり取りでの " 最後の百音のカット " がまだ映っているにも関わらず、その映像に耕治のセリフが被さるように入ることで " オーバーラップ " のような演出手法になっていると思う(39話・11:55~)。
 
 
 
 
*百音のこの表情が映し出されている状態で、耕治の『寝たかな・・・ 亮』というセリフがオーバーラップのように入ってくる。第8週・39話 11:55~
 
 
 
要するに、このシーンの直前の百音と未知のやり取りと、この耕治と亜哉子が語り合うシーンは " 一連の共通したテーマの連関 " として機能している・・・ いや、もっと言えば、百音と菅波の電話でのやり取りのシーンも含めて、これらのシーンのすべてが連関して、機能していると言っても過言ではないだろう。そう!!! 第8週・「それでも海は」の、週全体の大きなテーマの一つが、
 
 
 
[ 同調と共感 ]
 
 

ということになるのだ。さて話を戻すと、耕治は亜哉子にこのように語りかける。
 
 
 
 
『耕治 : 新次・・・  亜哉子以外の誰が言っても・・・ 病院なんか行こうとしなかったと思う。俺の言うことは、絶対に聞かないだろうし。だから・・・ 本当に助かった。』
 
 
 
 
と亜哉子が、新次のアルコール依存症の治療に付き添っていたことに感謝する耕治。息子・亮は新次の心情に共感を持ってはいない。さらに新次は周囲にも迷惑かけ、もうほとんど孤立無援の状態になりかけていた。
 
そうなのだ。そのような新次であっても・・・ それでも手を差し伸べてくれた " 亜哉子という存在 " に、彼はかろうじて救われていたということだろう。しかし亜哉子は結局、力が及ばなかったことを悔やむ。そのことを否定するように、耕治はこのように語る。
 
 
 
 

『耕治 : いや、" 船のこと " があってから・・・ あいつから逃げてた俺が悪い。多分、あいつ・・・ これから先、何度も同じことするよ。酒もやめるって言いながら、きっと何度も今日みたいになる。』

 
 

『耕治 : でも・・・ 今日、飲んでしまったのなら・・・ 明日から・・・ 明日から、また前を向く1日目を始めればいいって・・・ そう言ってやりたい。言い続けてやりたい。

 
 
 
 
*『言い続けてやりたい』と耕治が語る際のカット。耕治が『言い続けてやりたい』と語る瞬間になると、耕治が下手側を向くカットに切り替わる。赤色の矢印は下手側の方向で " ポジティブ思考 " ということになるため、新次が語った『絶対に立ち直らねえ!』と語ったことに対して、耕治は決して悲観してはいないということを映像で表現しているのだろう
 
 
 
この耕治の、
 
 
 

明日から・・・ 明日から、また前を向く1日目を始めればいいって・・・ そう言ってやりたい。言い続けてやりたい。 』

 

 
 
と語るこのシーンでは、亜哉子と耕治を横に並んで座って語り合っているため、お互いの表情を捉えるためにイマジナリーラインを越える " ドンデン返り " が繰り返される。しかし耕治の『言い続けてやりたい』と語るセリフの瞬間になると、彼が下手側を向くカットに切り替わる。『映像力学』的な視点で捉えると、下手側を向いている耕治の心情は " ポジティブ思考 " ということになるわけだ。これは新次の語った、
 
 
 
『俺は立ち直らねえよ。絶対に立ち直らねえ!』
 
 
 
というセリフに呼応しているものと考えられ、新次が語った『絶対に立ち直らねえ!』ということに対しても、耕治は決して悲観してはいないといったことを映像で表現しているのだろうと思う。さらに言えば新次が模索しようとしている、
 
 
 
 
[ 過去(故・美波)を抱えながら、それと共に・・・ 人生の歩みを進められないのか? ]
 
 
 
 
という、彼のこれからの生き方に寄り添い、その心情に同調・共感して、その歩みを支えて見届けていくのだという、耕治のこれからの覚悟と決意が、『言い続けてやりたい』というセリフに込められているように感じられるからだ。そして耕治はさらに続けてこのように語る。
 
 
 
 

『耕治 : 必然的に付き合わせることになると思うけど・・・ 』

 
 
『亜哉子 : 幼馴染3人だけの問題にしないでよ。私は仲間外れ?』
 
 
 
 
 
 
 
百音には菅波。亮には未知。未知には百音。新次には耕治。耕治には亜哉子。それぞれには、それぞれの " 同調者や共感者 " という存在がいるからこそ・・・ 人は心強く、未来へと歩みを進められる。
 
 
そして、この第8週・「それでも海は」という週は・・・ そのようなことを我々視聴者に伝えたかったのではなかろうか。
 
 
 
 
 
○ありふれた幸せは、奇跡のようにほんの一瞬しかない。 " その瞬間 " を・・・ 逃してしまわないように 
 
 
さて、第8週・36話の冒頭では百音の成人式と振袖の写真撮影についてのエピソードが入っていると思う。
 
 
 
*第8週・36話「それでも海は」の冒頭のシーンより
 
 
 
百音は成人式が気象予報士試験の前日となるため帰省はせず、また費用がもったいないと振袖の写真撮影はしないことを耕治に告げる。そして百音は、未知が成人式の時にその分も含めて盛大にやってあげればと提案すると、未知もそれにかかる費用を顕微鏡の購入代金に充てたいと、まったく乗り気ではない。そのことでがっかりする耕治。
 
 

さて皆さんは、なぜこのエピソードが第8週に入っているのか、お気づきだろうか。そうなんです!!! やはりこのエピソードは、この部分の伏線回収になっているんですね。

 
 

 

 

『新次 : それを・・・ しゃべる相手が・・・ 話す相手がいないんだ。本当だったら、一杯飲みながら・・・ " 一緒に親バカだな " って言い合える美波がいないから・・・』

 

 

 
 
上記でも論じたように、人の親として・・・ これまで龍己は故・雅代と、息子・耕治の成長の喜びをお互いに分かち合いつつ、共感してきただろうし、耕治と亜哉子は、娘・百音と未知の成長の喜びをお互いに分かち合いつつ、共感してきたわけだ。人の親としてのその醍醐味は、
 
 
 
 
[ 夫婦で子供たちの成長を見守って二人でそれを共有し、" その喜び " をお互いに共感し合う・・・ ]
 
 
 
ということに尽きるだろう。" その喜び " を理不尽にも奪われてしまった新次を目の前にして・・・ 特に耕治と亜哉子には、まだまだこれからも成長していく百音や未知という、楽しみな存在がいるわけだ。 " その喜び " を夫婦で分かち合って、共感し合うことの貴重さやありがたさを、新次の " その思い " や姿を通して、耕治と亜哉子は心の底から思い知ることになったのではなかろうか。そして、
 
 
 
 
[ 夫婦二人ともに健在でなければ・・・ この幸せをお互いに分かち合い、共感し合うことは出来ない。そして、それは実は稀有で貴重な瞬間なのかもしれない・・・ ]
 
 
 
 
と耕治と亜哉子は実感したのだろう。そういったもともあってか、第8週・40話では亜哉子は、百音と未知にこのように語りかける。
 
 
 
 
『亜哉子 : 成人式の写真ぐらい・・・ いつか撮らせてあげて。お父さん・・・ 自慢の娘たちの晴れ姿、すっごく楽しみにしてんだから。 』
 
 
○第8週・40話「それでも海は」より
 
 
 
 
 
[ 子供たちの成長を・・・ 夫婦そろって喜び合うことの幸せ・・・ ]
 
 
 
 
そんなありふれた幸せも・・・ 貴重なものであることを、永浦家の面々は新次を通して知ったのだ。そして、どのような家庭であったとしても、家族みんなが揃って笑顔でいられる " 奇跡のような瞬間 " は・・・ 実はほんの一瞬であり、長くは存在しない。亜哉子は耕治を慮って・・・ 娘たちにそのように語ったのだろう。
 
 
亜哉子に促されたこともあって、成人式の振袖のカタログに目をやる百音と未知。数日前の・・・ この永浦家の客間には、新次の喪失感と孤独感が溢れていた。しかし今、この瞬間の客間には、亜哉子と百音、そして未知から放出される溢れんばかりの幸せに満たされている。それを離れて見つめる耕治の眼差し。彼にとって成人式の振袖の写真撮影など、本当は既に取るに足らないものだろう。それよりも、それをキッカケにして、
 
 
 
 
[ " 母と娘たち " の溢れんばかりの幸せなシーンを・・・ 眺めていたかった ]
 
 
 
 
 
 
 
 
といった心情だったのではなかろうか。客間の " 母と娘たち " の幸せそうなやり取りを察知した、祖父・龍己もその様子を見に来る。
 
 
 
 
 
 
 
 
『龍己 : にぎやかだな。 』
 
『耕治 : ん? ああ・・・ 』
 
○第8週・40話「それでも海は」
 
 
その " ありふれた幸せ " は・・・ 奇跡のようにほんの一瞬しかない。そのようなことを耕治は脳裏に浮かべつつ、しかし " その瞬間を逃してしまわないように・・・ 今はその幸せを精一杯噛みしめよう " とも考えているようにも見える。そして耕治は・・・
 
 
 
 
 
 
 
やはり・・・ 新次の抱えている喪失感と孤独感にも思いを馳せているように・・・ 彼の表現から筆者はそのように感じられたのだ。
 
 
 
さて次回は、第8週の特集記事の最終回となる。亮の思い、百音の思い、そして新次の思いが交差する・・・ " あの名場面 " が心を打つ、第8週・40話を集中的に取り上げたいと思う。乞うご期待!!!