お互いに未来を見つめながら、二人揃って" 未来へ " と向かって歩みを進める | 音楽三昧 ・・・ Perfumeとcapsuleの世界

お互いに未来を見つめながら、二人揃って" 未来へ " と向かって歩みを進める

若き実力派女優の清原果耶氏に魅了され、今では彼女の代表作の連続テレビ小説・『おかえりモネ(2021年)』の作品としてのクオリティの高さとその世界観に完全に嵌ってしまっている、今日この頃。

 

 

さて一年前の今週から " 菅モネ・コンビの「気象勉強会」 " が始まったということで、菅モネ・ファンの方々はその思い出に沸き立っている(笑顔)。それに便乗するわけでもないのだが・・・・・ 

 

今回のエントリーは、菅モネ・ファンの方々のワクワクが止まらない(?!) "  菅モネ・コンビの「気象勉強会」 " の特集記事を書きたいと思う。この記事は非常に長くなりそうなので、予定では前編と後編の二回に分けて展開する予定だ。基本的にはこの「気象勉強会」 が始まった近辺の第5週・『勉強はじめました』第6週・『大人たちの青春』における「気象勉強会」 のエピソードだけを抽出して、話を展開していきたいと思う。

 

また最初に断わっておくが「気象勉強会」の、このシーンが "ドキドキした " とか " 感動した " という内容は基本的に書かない。あくまでも、菅モネの二人にとって「気象勉強会」はどのような意味があったのかということを考察していくエントリーとなるため、その辺はご了承頂きたいと思う。

 

 

 

ではこの「気象勉強会」とはどういうものか。簡単にまとめておくと、気象に興味を抱いた主人公の永浦百音(モネ 演・清原果耶氏)が独学で勉強を始めるものの、彼女は理系的思考、科学的思考に弱く苦戦を強いられる。その状況をたまたま目にした、診療所の青年医師である菅波光太朗(演・坂口健太郎氏)が、成り行きで無償で百音に勉強を教えることになった。このことを当BLOGでは「気象勉強会」と呼称することにする。

 

この「気象勉強会」が始まる経緯をまとめたエントリーも作ったので、ドラマを観ていない方々やストーリーをもう一度把握したい方々は、こちらを参照して欲しい。

 

 

 

※目次

 

○俳優のセリフや体技以外での表現方法が『映像力学』である

 

○未来はどちらへと向かうのか

 

○主人公はどこに立っているのか

 

○では『おかえりモネ』はどちらへ時間軸が進むのか

 

○主人公・百音の立ち位置が " 下手 " になった場合には "何が "表現されているのか。

 

○菅モネ・コンビの「気象勉強会」では "上手 " は誰だ?

 

○「気象勉強会」では、むしろ学んでいるのはどちらだ?

 

○そもそも、なぜ菅波は百音に勉強を教えようと思ったのだろうか

 

○立ち位置から見えてくる「気象勉強会」の本当の意味

 

○演出家・ 桑野智宏の演出の綿密さ

 

 

 

 

 

○俳優のセリフや体技以外での表現方法が『映像力学』である

 

 

成り行きで始まった「気象勉強会」。このエピソードのまとめエントリーを読んで頂いた方々の中には「百音が菅波に師事することで成長していくんだね。」と感じた方も多いかもしれないが・・・ 実はそんな簡単な話ではないところが、このドラマを非常に魅力的にしている。

 

そしてこの作品の映像上には非常に多くの情報が潜んでいることを、意外と『おかえりモネ』・ファンの方々が気づいていない様子であることが少し残念でもあるのだ。

 

 

さて映像作品は画面が2次元という特性を持っているため、視聴者に何かを伝える場合には、俳優のセリフや体技以外で考えると、舞台の構図や配置、登場人物の動く方向や立ち位置、画角、被写界深度、ライティングなどの画像上での情報で、伝えたいものを表現していく。

 

それで皆さんは『映像の原則』というものをご存じだろうか。あの『機動戦士ガンダム』・シリーズを手掛けた富野由悠季氏が、映像一般に関する原理・原則を体系化した理論の一つだ。そして書籍化され、2002年に出版されている。

 

この理論では、構図、登場人物の動く方向や配置などで " 登場人物の心理的、物語的な効果を引き出せる " といった、『映像力学』について論じている書籍でもある。したがって、『機動戦士ガンダム』・シリーズの映像を解説したものは、この理論が前提として語られているものが多い。

 

それで富野氏が提唱する『映像力学』については実は以前からあったもので、欧米の映画制作などでは積極的に取り入れられ、かなり厳密にルール化されている。要するに欧米の映像制作の現場での慣例・慣習となっていた手法を、富野氏が理論立てて、体系化したということなのだ。

 

しかしこの富野氏が体系化した考え方は、欧米の映画などでは当てはまらないことも多い。これは日本は欧米とは逆の方向のベクトルとなることが多いためだ。要するに、『映像の原則』は日本のアニメ制作の実情で捉えた理論なのだ。そして日本のTVドラマもアニメと同じ方向のベクトルで制作されているものが多い。

 

 

したがってこのエントリーでは、日本のTVドラマやアニメの実情で捉えた理論体系で分析し、考察していきたいと思う。

 

 

 

 

○未来はどちらへと向かうのか

 

 

映像作品は画面が2次元という特性があり、また視聴者とは対面で接するため左右の捉え方が難しい。したがって日本の映像制作では、向かって左側を下手、向かって右を上手と呼称する。このエントリーでは、以降は下手・上手で説明したいと思う。

 

 

 

 

 

 

それで、ドラマやアニメは主人公が行動することでストーリー自体が進んでいくので、主人公が基本的にどちらの方向へと向かって進んでいるのか・・・・ " 下手から上手へ " と進むのか、それとも" 上手から下手へ " と進むのかが非常に重要になってくる。要するに映像作品においては、主人公がいつも向かって進む方向が、時間の進む方向でもあり、その主人公が向かって進む方向に " 未来 " があるということになるからだ。

 

また主人公がいつも進む方向とは逆に向かって進んでいる場合は、過去へ(故郷へ)と戻っている、ネガティブな状況に陥っているなどの表現していることが多い。

 

 

いやいや、上下に進んでもいいじゃないかと思う方々もいらっしやるかもしれない。しかしスクリーンやモニターにはアスペクト比があり、横長が基本であるため上下にスペースが少なく、縦の動きは窮屈な画作りとなる傾向だ。したがって上下の進行は、ほとんど用いられない。あえて言うなら、地球から宇宙空間へと進む場面で用いないこともないが、宇宙空間に出てしまえば、ほぼ横進行へと変換される。

 

 

それで、日本のTVアニメでその進行を見てみると、例えば『宇宙戦艦ヤマト』や『未来少年コナン』は " 上手から下手へ " と進む。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

日本のアニメのほとんどが、この " 上手から下手へ " の進行を用いており、実は日本のTVドラマのほとんどもこの進行を用いているのだ。当然、主人公の顔の方向が "未来へ" と向いていることになる。また主人公と出会う存在は、必然的に下手から現れることが多くなる(ちなみにTVゲームは欧米の影響を受けているためか、スクロールのほとんどが逆方向の " 下手から上手へ "の進行となる)。

 

さらに主人公と同じ方向を向いている存在は、主人公と同じ心情だったりするが  " 下手から上手へ " と向かい合って対峙する存在は、主人公にとっては抵抗する存在だったり、障壁的な存在として表現されていることも多いのだ。

 

 

また帰還する、あるいは故郷へ(過去へ)と戻るという表現の場合は " 下手から上手へ " と主人公を進ませることが多い。

 

 

それで未来へと進むのが基本的に " 上手から下手へ "の進行ならば、画面上のスペースから鑑みると、主人公を上手に配置するのが余裕のある画作りにもなるため、合理的である。したがって、日本のTVドラマの多くは主人公の定位置を上手にしたものが非常に多い。

 

逆のことを言えば、主人公が定位置の上手にいない場合、特に主人公が下手の立ち位置で、顔が上手方向を向いている時はどういうときか。これは、主人公が劣勢の状態やネガティブな心理状況など " 主人公が今おかれている状況 " を、演出家は画面上で表現しようという意図があったりする。

 

 

 

 

○主人公はどこに立っているのか

 

 

日本のTVドラマは、やはり日本の古典芸能の慣習に影響を受け、それが制作手法に取り入れられているものもある。これは特に登場人物の立ち位置に垣間見られる。

 

例えば能の演目で、神のような神聖な存在が登場する場合、その立ち位置は上手となるのが基本だ。そうなると必然的に下位の者たちは立ち位置が下手となる。そもそも " 上手・下手 " という語源はここから来ている訳だが。

 

それで、この影響からか日本のTVドラマにおいては、主人公よりも上位の存在や尊敬する存在、力量が上の存在を上手の立ち位置に配置することが多い。

 

したがって、主人公が "上手に立っているのか " 、" 下手に立っているのか " といった立ち位置で、主人公の社会的な地位や立場、その力量なども表現できるわけだ。

 

 

 

 

 

○では『おかえりモネ』はどちらへ時間軸が進むのか

 

 

アニメと違って、TVドラマの場合はロケーション撮影があったりする。したがって視聴者に見せたい風景や構図、あるいは光源などの関係から、必ずしも進行を " 上手から下手へ " と固定できないことも多い(逆にセットでの撮影の場合は、そのような制約の要素は少なくなる)。

 

しかし物語の重要なエピソードを見れば、このドラマの基本的な時間軸の進行方向がどちらなのか判断できる。では『おかえりモネ』で、実際の進行方向を探ってみよう。

 

 

 

まず第1話の主人公・百音の初の出勤シーンは " 上手から下手へ " の進行だ。

 

 

 

*第1週・1話「天気予報って未来がわかる?」の主人公・永浦百音の初の出勤シーン

 

 

 

 

 

また、百音が故郷へと帰るとき(過去へと戻る)は  " 下手から上手へ " の進行で、しっかりと " 故郷が過去のものである " といった表現がなされている。

 

 

 

 

 

第3週・11話「故郷の海へ」の主人公・永浦百音が故郷に帰る際に乗った船のシーン

 

 

 

 

 

逆に帰省を追えて、百音が気仙沼から登米へ(未来へ)と向かう道すがらは  " 上手から下手へ " の進行で、彼女が乗った船も、帰省時とは逆の" 上手から下手へ " の進行となっている。

 

 

 

 

第4週・20話「みーちゃんとカキ」の主人公・永浦百音が再び登米へと向かうシーン

 

 

第4週・20話「みーちゃんとカキ」の主人公・永浦百音が再び登米へと向かう際に乗った船のシーン

 

 

 

 

 

そして百音が気象予報士を目指して、登米から東京へと向かう道すがらも  " 上手から下手へ " の進行となっている。

 

 

 

 

 

第9週・45話「雨のち旅立ち」の主人公・永浦百音が東京へと旅立っていくシーン。百音の視線の先に未来が待っている

 

 

 

 

ちなみにこのシーンは非常に興味深いと思う。第5週・21話の、偶然乗り合わせた百音と菅波がBRTから降車した後に、二人揃って『登米夢想』に向かって歩くシーンがある。

 

 

 

 

第5週・21話「勉強はじめました」の主人公・永浦百音と青年医師である菅波光太朗が複合施設・『登米夢想』 へと向かうシーン。百音が下手、菅波が上手の配置であり、「気象勉強会」のシーンと見比べると非常に興味深いと思う

 

 

 

 

やはり  " 上手から下手へ " の進行となっているのだが・・・・・ これで不自然さを感じる方はかなり鋭いと思う。実は前述の " 永浦百音が東京へと旅立っていくシーン "と同じロケ地を同じ方向に向かって歩いているのに "一方は東京へと向かうためにBRTのバス停に向かう " 、 " 一方はBRTのバス停を背にして『登米夢想』に向かう " ということになってしまっている。要するに、このロケ地を同じ方向に歩くことは、地理的には真逆のことを行っていることになるのだ(苦笑)。

 

実は実際の地理的方向を考慮して、映像上の進行方向を決めるということは、このような映像作品においてはほとんどしないことが多い。

 

地理的に矛盾があったとしても " このドラマの主人公の基本的に決められている方向へと進ませる " ということが、映像制作の現場では重要視される。繰り返しになるが、それがストーリー自体の進行方向と、時間軸が進む方向を示しているからだ。したがって、主人公の向かう方向に未来があり、主人公の視線は未来を見ていることになるのだ。ということは、このシーンで既に百音と菅波は、

 

 

 

 " お互いに未来を見つめながら、二人揃って未来へと向かって歩いている "

 

 

 

ということを、映像上の演出で暗示していると考えられる。また、この後の放送回から「気象勉強会」が始まることから鑑みると、このシーンで既に勉強会が始まることをも暗示しているともいえると思う。こういったことからも、このシーンは非常に重要で象徴的なものだろう。

 

 

何はともあれ、例にもれず『おかえりモネ』も日本のTVドラマの基本となっている " 上手から下手へ " の進行 (時間軸の進む方向) で考えてよいと思う(まぁ、NHKの制作するドラマは基本的にこの進行を用いるので調べるまでもないのだが)。それに伴って、『おかえりモネ』での主人公・百音の定位置は基本的に上手となる。

 

また主人公・百音がいつも進む方向とは逆の " 下手から上手 " に向かって進んでいる場合は、基本的には過去へ(故郷へ)と戻っている、ネガティブな状況に陥っているなどと考えてよい(他の登場人物も同様) 。

 

 

 

 

 

○主人公・百音の立ち位置が " 下手 " になった場合には "何が "表現されているのか。

 


上記のように、『おかえりモネ』での主人公・百音の定位置は上手となるわけだが、逆に百音が下手の配置になっている場合はどのような状況なのか。こちらを見てほしい。

 

 

 

第7週・33話「サヤカさんの木」より

 

 

 

このシーンは、百音が気象予報士の朝岡覚(演・西島秀俊氏)が前日に話していた " 気象におけるリードタイム " についてもう一度説明してほしいと教えを乞う場面。またこのシーンでは " 百音の人生を左右する言葉 " が朝岡から授けられる場面でもある。

 

このように百音が尊敬する人物、上位の人物、力量が上の人物、あるいは " 教えのようなもの授けるシーン " では、その人物が上手に配置される。要するに『おかえりモネ』においては、百音に気づきを与えたり、背中を押すようなシーンでは、その役割を担った登場人物が上手の配置に来る。

 

 

 

 

*百音の祖父や父、母とのシーンでは、百音を下手に配置することが多い。百音とって祖父や父、母が尊敬の対象であることを表現している

 

 

 

 

また興味深いことに、幼馴染の同級生であったとしても教えを与えてくれたり、気づきを与えてくれるシーンでは、百音が下手に配置されているのだ。

 

 

例えば幼馴染が一堂に会したシーン。前半のカットでは百音が一番上手に配置されている。

 

 

 

第3週・15話「故郷の海へ」より

 

 

 

 

 

しかし、幼馴染である及川亮(りょーちん 演・永瀬廉氏)が、 百音に " 海風 " というものを気づかせるカットになると、立ち位置が入れ替わって、下手に百音・上手が亮という映像になるところが象徴的だろうか。

 

 

 

 

第3週・15話「故郷の海へ」より。気象に興味を持ち始めた百音が、漁師である亮が気象の知識が豊富であることに驚くカット。思い出話をするシーンであるため、二人とも顔が上手(過去)を見る方向となっており、過去を振り返っていることをしっかりと映像で表現されている

 

 

 

 

このように同級生であったとしても気づきを与えてくれる存在は、当然ながら尊敬できる存在であるということを表現しているのだろう。

 

 

 

またシーンによっては、百音が他の登場人物と対峙した時に、百音の方が下手に配置されていると " 物理的・心理的に相手よりも劣勢になっている " ということも表現していることもある。

 

 

もちろんすべてがこの法則に従っているわけではなく、前述したとおり、特にはロケーション撮影の場合は視聴者に見せたい風景や構図、あるいは光源、登場人物との身長差などで、この原則を崩さなければならない場合もある。しかし基本的にはこのようなロジックで画作りが成されていると考えて間違いないと思う。

 

 

 

 

 

○菅モネ・コンビの「気象勉強会」では "上手 " は誰だ?

 

 

それではようやく、菅モネ・コンビの「気象勉強会」を分析してみる。基本的にはこのような配置だ。

 

 

 

 

 

 

 

この「気象勉強会」ではほぼ、菅波が下手、百音が上手となる配置だ。もちろん、主人公である百音が上手にくるのは、なんらおかしくもないのだが・・・ このシーンでは菅波に教えを乞う場面であり・・・  勉強を教えてもらっているにもかかわらず、百音の方が上位(?!)にということになってしまう。普通に考えれば、むしろ教授している菅波の方を上手に配置して "尊敬の対象" として表現してもおかしくはない。

 

 

こういったことから鑑みても、この配置には制作サイドの " 隠れた意図 " が垣間見られると思うのだ。

 

 

 

 

 

○「気象勉強会」では、むしろ学んでいるのはどちらだ?

 

 

指導や教育を施した経験のある方々の中で " 指導や教育の場面では、むしろ指導者側が学ぶことも多い " という感想を持った方も多いかと思う。したがって " 教えることは学ぶこと " ということで、この「気象勉強会」では菅波が下手となる配置しているということも考えられるが、オレはもう少し違った見方をしている。

 

遡って思い出してほしい・・・ 菅波の前で百音が気象予報士のテキストを出した時、彼はなんと言ったか。

 

 

 

-------------------------------------------------------------------------------------------------

 

『買う本が間違っています。その本は少しハードルが高すぎますね。漫画とか絵本から始めた方がいいんじゃないんですか。永浦さんの場合。』

 

○第5週・21話「勉強始はじめました」より

 

-------------------------------------------------------------------------------------------------

 

 

 

 

皆さんが百音だったとした場合にどう思いますか? ちょっとカチンときませんか?(苦笑) そうなのだ。菅波は圧倒的に人とのコミュニケーション能力が低く、人の心や空気が読めない人物像として描かれているのだ。

 

したがって、この週のエピソードでもある、菅波の指導医の中村信弘(演・平山祐介氏)から訪問診療を手伝ってほしいと言われても、そういった理由からか空気を読まずに、完全に拒否する。だって日ごろから世話になっている指導医の頼みごとを、普通の感覚であればシャットダウンの如く、完全拒否はなかなか出来ないと思う(苦笑)。

 

またこれまでの百音とのエピソードから鑑みると、菅波はお世辞というものが言えない人物像だといえる。いくら年の差があるとは言っても若い女性の百音に対してであれば、たとえ下心が無かったとしても多かれ少なかれ、やさしい言葉やお世辞は言うものだと思う。しかし菅波はこの時点では、一切そのような言葉をかけたことがない。したがって彼には、そのような哲学自体がないのだろうと考えるのだ。

 

 

 

またこのBRT車内の百音とのやり取りでは、菅波はこのようなことも語っている。

 

 

 

------------------------------------------------------------------------------------------------- 
 
菅波 :  中村先生は僕の指導医です。頭が上がらないんです。ちょうどよかったんです。東京と登米で1週間おきに入れ違っていれば、中村先生と一緒に仕事をしなくて済みますし。
 
百音 :   そんなに嫌いなんですか?』

 

菅波 :   う~ん・・・ 嫌いですね。

 

百音 :   まあ、タイプも全然違いますしね。』

 

菅波 :  あの人と一緒にいると・・・ 自分の未熟さばっかり思い知らされる。

 

 

○第5週・21話「勉強始はじめました」より

 

-------------------------------------------------------------------------------------------------

 

 

 

 

要するに、菅波という人物は "まだまだ人間として未熟である" ということもあり、人間性で考えると " ある部分では、むしろ百音よりも相対的に劣っており、幼い " といったようなことを、彼を下手の配置することで表現しているのではなかろうか。

 

 

さて、ここで菅波自身が感じている " 未熟さ " とは何か。「気象勉強会」が進む中で、菅波はこのようなことを百音に話している。

 

 

 

 

-------------------------------------------------------------------------------------------------

 

『僕は患者の望みより " 自分の治したいという欲 " を優先させてしまう。本質的には患者のことを考えていない。患者の気持ちや生活を丸ごと診る "訪問診療 " には向いていません。

 

 

○第6週・30話「大人たちの青春」より

 

-------------------------------------------------------------------------------------------------

 

 

 

指導医の中村は、体育会系のノリの明るくおおらかな性格で、人とのコミュニケーションの能力も非常に高い。したがって " 患者やその家族の気持ちを汲み取る能力 " にも長けているのだろう。

 

菅波が中村に感じているコンプレックスのような感情は " 人の気持ちを感じ取る能力の欠如 " であり、それを克服して人間的な成長を果たせば、医療従事者としてもさらに成長する。そして、もっとより良い医療が提供できる医療従事者になれるとも考えていたのではなかろうか。

 

 

 そして " それ " をやってみたいが、踏み切れない自分もいる・・・ 登米に赴任してからの菅波の葛藤は、そういった部分にもあるのではなかろうか。

 

 

 

 

 

○そもそも、なぜ菅波は百音に勉強を教えようと思ったのだろうか

 

 

「気象勉強会」の始まりは偶然であった。そして当然報酬を貰うわけでもないわけだから、約2年も続いたと考えると、菅波自身にもそれなりのモチベーションが必要となる。では菅波のモチベーションとは何か。

 

百音に勉強を教えることで、逆に百音から人とのコミュニケーション能力を学ぶ、あるいは人の気持ちを感じ取る能力を学ぶということを、菅波は実は潜在的に求めていたのではないのだろうか。

 

 

そうであれば、「気象勉強会」での基本的な配置が菅波が下手で、百音が上手に配置されるのも、映像上での演出手法とその表現としての整合性が取れてくるというわけだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

また " 教える " という行為は、知っていることを並べ挙げても、対象者が理解するとは限らない。対象者の知能レベル・基礎学力・語彙力・リテラシーなどを把握し、それを踏まえて噛み砕いた言葉やイメージしやすいような表現を用いて、適宜なタイミングで順序立てて説明しなければ、対象者の深い理解へとは導けない。

 

さらに、相手の表情や反応を汲み取り "どれだけ理解できたのか" 、 "どの部分が理解できていないのか" ということを瞬時に判断して、再び、言葉や表現を対象者が理解できるものに変更しなければ、" 教える " という行為における成果は期待できない。

 

 

要するに " 教える " という行為は、究極のコミュニケーション・スキルを問われるものなのだ。だからこそ、教えれば教えるほど、教授する側の方が "むしろ学びを得る " とも言える。おそらく、菅波は潜在的にそのことに気づいているのだろう。だからこそ、『次回は " 雲が出来る仕組み " について考えてみましょう。』という言葉は、彼から思わず溢れてしまっていたということが、実は本当のところではなかろうか。

 

 

 

 

 

○立ち位置から見えてくる「気象勉強会」の本当の意味

 

 

さて、ここまで書いても疑り深い方はいると思う。

 

 

 

 

 

 

" 百音は謙虚な性格もあって下座を意識して座っていために、映像上では菅波が下手、百音が上手になっただけでは? "

 

 

 

確かに百音はカフェ・「椎の実」の入り口に近い所に座っているので " 下座 " を選んでいる可能性もなくは無いのだが・・・ 冷静に考えてみてほしい。

 

百音は絵本を読んでいるところを人に見られたくないから、カフェ・「椎の実」の営業終了後にわざわざ場所を借りたわけだ。誰かが来る予定もないし、同席者もいない場所で、百音があえて下座を選ぶ理由とは・・・ オレには全く思いつかない。

 

この画面に映っているのは女優・清原果耶ではなく " 永浦百音 " という人物の人生なのだ。だからこそ、この後に、菅波が入ってくることを全く彼女は知らない。そうなれば彼女にとって下座を選ぶ必然がない。

 

 

しかし・・・ 女優・清原果耶自身は、この後、菅波光太朗を演じる俳優・坂口健太郎がここへと飛び込んでくることを知っている。だからこそ彼女が先に上手を陣取ることで、後から入ってきた彼は、必然的に下手に行かなければならなくなる・・・ いや、そう仕向けているのだ。要するに画面の向こう側、いわゆる制作現場では、撮影の隅々まで計算しつくし、管理しつくした結果、完全にコントロールされた映像が仕上がってくるわけだ。

 

もっと言えば、たとえ " 永浦百音 " にとっては偶然の所作であったとしても、女優・清原果耶にとっては " その場所に座ること " が必然でなければならない。そう、演出意図によって立ち位置や段取りがすべてコントロールされているからだ。こちらを見てほしい。

 

 

 

 

第7週・33話「サヤカさんの木」より

 
 
 

これは震災直後に朝岡と中村が、復興支援で登米に来た時の思い出話をカフェ・「椎の実」でしているシーンだ。下手に登米組(地元組)、上手に東京組(復興支援組)という配置だ。東京組は客人となるだろうから、実生活で考えれば上座に座らせるだろう。しかし入り口は上手側となるので、このカットでは東京組は下座に座っていることになってしまう。

 

 

実は映像作品の制作においては、やはり上座・下座というのはあまり考慮しない(ただし会社のオフィスなどでのシーンはやはり新人を下座に座らせる画をとるため、それを考慮してセットが組まれることもあるが)。映像作品で重要なのは、やはり登場人物を上手に配置するのか、それとも下手に配置するのかなのだ。

 

今回のシーンでは、復興支援に来てもらった東京組の方が登米組にとっての "尊敬の存在" となるため、東京組を上手に配置している。このように画面上での立ち位置や配置で、視聴者に登場人物の関係性やその状況を表現しているのだ。画面の向こう側には偶然はない。すべて必然だけでコントロールされている。

 

 

 

ではもう一度、「気象勉強会」の様子を見てみよう。

 

 

第6週・30話「大人たちの青春」より。

 

 

 

やはり勉強を教えている菅波が下手という立ち位置なので、演出家サイドは " 「気象勉強会」は、百音から菅波が学びを得て、彼の人間的成長を促す場所 "ということを表現することに重要視していることが伝わってくる。

 

 

しかし・・・・ このシーンには " もう一つの演出 " が隠されている。既にお気づきの方も多いかとは思うが、菅波が画面の手前側、百音が画面の奥側に配置されているのだ。

 

 

シナリオ的にはこの二人は奥手で、まだ関係性にもまだ距離感があるという展開である。したがって勉強を教えているにも関わらず、決して対面には座らせず、むしろ一席開けて対角線上に座らせて物理的な距離を作ることで " 二人の関係性には隔たりがある " というこを表現していることは間違いない。 またもう一つの演出上の狙いとしては、対角線上に配置すると会話シーンでは百音が菅波に顔を向けることになるので、彼女の表情をカメラで捉えやすくなるという効果も狙っているとは思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

もちろん上記のような理由もあって、このような配置を採用していることもあるのだろうが、オレの解釈ではこの配置は "遠近" を用いた、ゲシュタルト心理学的な表現も含めているのではないかと考えている。

 

 

 

 

 

第6週・26話「大人たちの青春」より。

 

 

 

 

菅波を手前側に配置すれば映像的には大きく見え、百音を奥側に配置すれば菅波よりも相対的に小さく見える。要するに、

 

 

 

" 百音にとって菅波は「知識が豊富にある尊敬すべき存在」であるということを配置ではなく、画面に映る大きさで表現する "

 

 

 

といったアプローチを演出家サイドは試みているのではなかろうか。だからこそ、百音は決して菅波を尊敬していないわけではないということが伝わってくるのだ。

 

 

以上をまとめると「気象勉強会」は、百音にとっては当然ながら気象の知識を深めていく場所だったのだが、菅波にとっても人間的な学びの場所だったのだ。そして菅波は百音から様々なことを学び、人間的に成長していく中で、徐々に考え方や行動がかわっていく。それがこのドラマの " もう一つの見所 " なのだろうと思うのだ。

 

 

 

 

 

○演出家・ 桑野智宏の演出の綿密さ

 

 

第5週・『勉強はじめました』 、第6週・『大人たちの青春』の演出を担当しているのが桑野智宏氏であるのだが、彼の演出は非常に綿密で巧みだ。その真骨頂が、やはり第5週・23話の「気象勉強会」の始まりのシーンだ。

 

 

偶然、カフェ・「椎の実」に来た菅波は、成り行きで雨が降るメカニズムを " 気温と飽和水蒸気量との関係性 " と絡めて百音に説明する。この時のカットは菅波が下手、百音が上手の配置だ。

 

 

説明を続けてもなかなか理解しない百音。そこで菅波は、氷を使った結露を見せることで深い理解に結び付けようと思いつく。

 

 

 

 

*菅波が下手、百音が上手の配置

 

 

 

 

ようやくそのメカニズムを百音の頭の中でイメージが出来て "深い理解が得られた瞬間 " を捉えたカットは、菅波の立ち位置が移動してカメラが切り替わることで、二人の配置が入れ替わる。百音が下手となり、菅波が上手と変化するのだ。

 

 

 

 

*百音が下手、菅波が上手と入れ替わる

 

 

 

 

これは百音が深い理解が得られた瞬間は " 菅波から教えを授けられた " といったことを配置を入れ替えることで表現しているのだと思う。さらに言えば、菅波はあえて百音よりも姿勢を低くしている。これは " 菅波も百音から学ぶところがあった " ということを表現しているのだろうと思う。

 

 

このシーンを最初に観たとき、オレは「このドラマは本当に丁寧に綿密に作られているな・・・」と唸らされ、度肝を抜かれてしまった。

 

 

ドラマにおける映像表現は、舞台の構図や配置、登場人物の動く方向、立ち位置、画角、被写界深度、ライティング、効果音、劇伴・・・・・ こういったものを駆使して、俳優のセリフや体技、表情での表現を補強したり、また隠れた意図などを表現したりしているのだ。

 

 

 

 

さて演出を詳細に分析してみると、「気象勉強会」では百音も学んでいるのだが、むしろここで得たものが大きかったのは菅波の方だったのではないかということが分ると思う。そして彼はここで人間的な成長と医療従事者としての進化を果たしていくのだ。

 

 

さらに・・・ 百音の成長と菅波の進化の兆しが、第6週・『大人たちの青春』で最高潮を迎える。次回のエントリーは「気象勉強会」の特集記事の後編として、この辺りのことを『映像力学』の視点から紐解きたいと思っているのだが・・・ エントリーを書いていて、ふと冷静になってみると・・・ こんなエントリーってニーズあるのかな(苦笑)。

 

 

まぁ、いずれにしても後編は書くつもりではあるのだが・・・・・ ご意見などを頂ければ幸いだ(笑顔)。