"当事者 "と " 非当事者 "の対立構造と埋められない深い溝 | 音楽三昧 ・・・ Perfumeとcapsuleの世界

"当事者 "と " 非当事者 "の対立構造と埋められない深い溝

さて、最近になってようやく注目し始めた若き実力派女優の清原果耶氏。 そして遂に彼女の代表作の連続テレビ小説・『おかえりモネ(2021年)』の作品としてのクオリティの高さとその世界観に、完全にオレは嵌ってしまった。

 

 

 

さて、前回のエントリーでは第3週・ 『故郷の海へ』の前編というものだったので、今回はその後編ということになる。第3週が内含しているテーマにいよいよ迫っていくエントリーだ。

 

 

 

 

○ "あの日 "と百音

 

 

亀島中学吹奏楽部の思い出話に花が咲き、夜遅くなってしまったので永浦家に泊まることになった元メンバーたち。過去には民宿だった永浦家は、吹奏楽部の強化合宿にも使われていたそうで、久しぶりにメンバーが一つ屋根の下で寝ることに。

 

 

それで他のメンバーは既に寝てしまったが、主人公の永浦百音(モネ 演・清原果耶氏)と野村明日美(スーちゃん 演・恒松祐里氏) は眠れないようだった。

 

 

 

 

 

 

 

明日美からこんな言葉が飛び出す。

 

 

 

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『モネは・・・・・ なんで音楽やめちゃったの ? 』
 

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一見眠ったように見えた百音だったが、実は明日美の言葉をしっかりと聞いており・・・・・・ 百音は " あの日の光景 " が走馬灯のように脳裏をめぐって、虚ろな表情を浮かべる。

 

 

 

 

 

 

 

 

物心ついた頃から音楽が大好きだった百音。父・耕治(演・内野聖陽氏) の影響もあってか、幼少期から管楽器に慣れ親しむ。中学に入って、廃部寸前だった吹奏楽部の立て直しに尽力したのも彼女だった。音楽に無我夢中だったあの頃・・・・・ 百音の中学時代は光輝いていた。

 

中学の教員や耕治の勧めもあって、進学は仙台の音楽コースがある高校を志願した百音。実力的はギリギリだったが思い切って受験に挑み、その合格発表の日を迎える。その日とは2011年3月11日。そう・・・・・ " あの日 "だ。

 

 

 

 

 

 

○百音の "あの日 "とその運命

 

 

百音が受験した仙台の音楽コースの合格発表の翌日には、卒業コンサートを控えていた吹奏楽部。百音は仙台で合格発表を見届けると、すぐに亀島に戻って翌日のコンサートの練習をするつもりだった。

 

 

 

 

 

 

 

父・耕治と仙台に出向いて合格発表を見届けるが、残念ながら不合格となる。落胆した百音を励ますためにか、大学時代に通った仙台のジャズクラブで昼食を食べようと提案した耕治。そこに向かうことになった。

 

 

昼食を終え、卒業コンサートの練習のために亀島へと帰ろうとする二人だったが、思いがけずにジャズのライブ演奏がこの後に控えいるようだった。『聴いて帰るか?』 との耕治の問いに、『練習があるから帰る』と答える百音。帰ろうとすると演奏が始まり、そのサックスの響きに・・・・・百音は一瞬にして心を奪われて、『観ていっても良い?』と問いかけ、やさしくうなずく耕治。不合格に落ち込んでいた様子だったが "やはり音楽が好きだ " という気持ちが沸々と湧き上がってくるところが、その表情から伝わってくる。

 

 

 

 

 

 

 

そして・・・・・ 2011年3月11日・pm2:46   そう・・・・・ " あの瞬間 " が迫ってくる。

 

 

 

 

 

○ "当事者 "と " 非当事者 "の対立構造と安達奈緒子の脚本が描く世界の説得力

 

 

この作品では震災発生時の様子は再現されていない。島へと戻れなくなった、父・耕治と百音が本土の高台から被害を受けた故郷・亀島の様子を対岸から眺めるだけに留めている。

 

したがって倒壊した家屋や津波の映像などは全く用いられず、永浦家の被害状況も取り上げていない。ごく僅かな間接的なアプローチだけで、被害状況を表現することに留めているのが印象的だ。こういった手法は被災者の方々への配慮もあるのだろうが、もう一つ理由があるようにオレには感じられた。それは、

 

 

 

 

「結局のところ・・・・・ 当事者でなければ " 本当のこと " は絶対に分らない」

 

 

 

 

ということを提示しているようにも思えるのだ。いくら震災の様子を目にしたとしても・・・・ 安全な場所から眺めているだけでは本当のことは何も分らない・・・・・ そのことを百音に付きつけるように物語は進んでいく。

 

 

 

 

 

震災から一晩明けて、本土の高台から故郷・亀島を目にした百音は・・・・・・ その惨状に衝撃を受けて一筋の涙を流す。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

震災発生から数日が経って、ようやく百音たちは島に戻ることができた。父・耕治は自宅の様子を見に行くということで、百音は一人で家族が避難していると思われる避難所の体育館へと全力で走って向かう。ようやくその避難所の給食室で・・・・ 亀島中学吹奏楽部のメンバーとも再会できた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

給食室のシーンで特に注目して頂きたいのが、映像の構図と演者の表情とその演出だ。このシーンを初めて観たとき・・・・ オレは得も言われないような衝撃を受け、胸が締め付けられるほど苦しく切なくなっていった。そしてこのシーンによって、オレは完全に『おかえりモネ』の世界観に嵌ってしまったのだ。

 

このシーンの構図は映像の世界ではよく用いられるもので、百音と吹奏楽部メンバーの間に調理台を挟んで対面させることで両者の間に境界線を引き、

 

 

 

 

 " こちら側とあちら側には大きな隔たりがある "

 

 

 

といったようなことを表現する典型的な手法だ。その証拠として、あれだけみんな仲が良かった吹奏楽部のメンバーだったのに、本土で足止めを食らってようやく戻ってきた百音に対して、『無事で良かった』という言葉を誰一人もかけず、呆然と無言のままのシーンとなる。そして一方の百音も同様で、吹奏楽部のメンバーに『無事で良かった』といった言葉も発せず、空間に沈黙が漂う。

 

 

さらに吹奏楽部のメンバーが百音を見つめる "この表情 "も印象的だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

この異様とも思えるシーン。百音がいなかったこの数日間・・・・・・ 亀島は地獄だった。彼らの目と表情は "その地獄を目にしてきたことの象徴 " なのだろうと思う。そしてこの異様とも思える雰囲気を、感受性の高い百音はすぐに感じ取っている。

 

 

 

 

" 自分の故郷が被災した。自分の親しい人も多く被災した。でも・・・・・ 震災当時とその後数日間の地獄のような光景を、私は知らない・・・・・ "

 

 

 

 

この第3週では、亀島中学吹奏楽部のメンバーが思い出話に耽るシーンがやたらと多い。これは仲間との思い出は、みんな各々の中で共有しているといった証拠でもあるのだ。しかし・・・・・ 震災発生からの数日間だけは・・・・・・ " 百音とメンバーとは一緒に共有できない巨大な何か " が生まれてしまっていた。そして、

 

 

 

 

" 故郷が一番大変な状況の時に、仲間と一緒になって支えられなかった自分 "

 

" 仲間が一番大変な状況の時に、力を貸せなかった自分 "

 

 

 

 

たとえ不可抗力であったとしても、自分に対しての不甲斐なさ、悔しさ、後ろめたさが百音の中に生まれ、深い心の傷となった瞬間なのだろうと思うのだ。

 

 

そうは言っても、百音は震災自体を全く体験しなかったわけではない。震災発生時は震源に近い宮城県仙台市に居た設定だ。その仙台市では最大震度6強を観測した地点もあり、相当な揺れと恐怖感を百音も味わったわけだ。それでも・・・・ "非当事者的な視点 " でこの物語は進んでいく。なぜか。

 

そう、東日本大震災の被害の多くは揺れによる建物の倒壊や火災ではなく、津波によって大きな被害を受けたことだ。

 

 

 

 

さて、オレ自身は東日本大震災の当時は首都圏に居たわけだが、震災発生時は相当の恐怖だったことを今でも思い出す。ご存じのように首都圏は地震が多い地域だが・・・・・ これまでの地震体験の中で " あの日 " 以上の揺れと恐怖感を味わったことはなかった。

 

過去のエントリーで、PerfumeのLiveでオレが仙台に遠征した時、東日本大震災に関連して東北の方々の心情に思いを馳せる記事を書いたことがあったのだが、コメント欄で批判されたこともあった。

 

 

 

『あなたは首都圏の安全な場所に居たのに・・・・・・ わかったようなことを書くな』

 

 

 

といったような内容だった。しかし・・・・・ 実は首都圏は被災地だった。東京都や千葉県、神奈川県では死者が出ている。千葉県に至っては津波で死者が出ている。そして首都圏は湾岸地域では液状化にも悩まされた。だからこそ、オレは東北の被害はとても他人事のようには思えなかったのだ。もしかすると関東より西側にお住いの方々は、首都圏の被害状況をご存じないのかもしれない(批判のコメントを書いた方は、西側の方と思われた)。

 

 

そうはいっても、東日本大震災の被害の大半は東北だ。しかも東北でもその被害の多くは内陸部ではなく、沿岸部に集中していた。なぜか。そう・・・・・ 津波が・・・・・ 多くのものを奪ったのだ。特にこの物語の舞台となっている宮城県は、津波による浸水面積327 km2 、浸水域は人口の約33万人と最大の被害を受けた。

 

 

要するに、東日本大震災はかなり広い範囲で影響があり、首都圏でも被害はあったのだが、首都圏を震災の当事者とはとても言えない。なぜか。我々首都圏居住者のほとんどは津波を目にしていなく、また津波の恐怖も体験していないからだ。

 

 

そして被災の中心であった東北でも、内陸部と沿岸部でその被害に大きな差があった。 そういったことから、この作品では制作側、特に脚本を担当した安達奈緒子氏は、このように表現したかったのかもしれない。

 

 

 

 

百音 ・・・・ 被災地域に居住しながら、震災当日の津波の恐怖感は体験していない = 震災の非当事者

 

吹奏楽部メンバー ・・・ 震災当日に津波の恐怖感を体験することで、心に深い傷を負った = 震災の当事者

 

 

 

といったような明確な対立構図を作り出したかったのではなかろうか。ここに " 安達脚本 " の奥深さと凄みがあるようにオレは思うのだ。

 

 

これまで東日本大震災をテーマとした映画やTVドラマは数多く作られたが、"震災の当事者目線 "で語られている作品がその大半だろう。そういった作品の場合、我々のような震災の非当事者である多くの視聴者は、哀れみを感じても・・・・・ " その先に存在する何か " に辿りつけなかったように思える。

 

 

この作品が画期的だったのは、被災地域に居住する主人公の百音が " 震災の非当事者 " であるとした仕掛けだ。この仕掛けによって被災した親しかった人々に思いを馳せながらも、百音の視点は我々のような震災の非当事者である多くの視聴者とシンクロして等価となるのだ。このシーンの百音の立ち位置がモニター側、いわゆる視聴者側に立っていることがその象徴だろう。

 

 

 

 

 

 

 

要するに、百音のように被災地域に居住しながらも、勉学や出張などの何らかの事情によって、東日本大震災発生の当日は一時的に津波に対して安全な場所にいた方々も多いことだろう。また我々のように東日本大震災の強烈な揺れの恐怖感を体験しながらも、津波の恐怖感は体験していない方々は東日本に相当数いるはずだ。

 

 

ということは、震災の強烈な揺れの恐怖感を体験しながらも、津波の恐怖感は体験していないといった "東日本居住者や東北内陸部居住者の視点というものを百音に背負わせる " ことで " その先に存在する何か "を提示し、その共感を得ることを狙っているのではなかろうか。では " その先に存在する何か " とはいったい何なのだろうか。

 

 

 

それは・・・・・・ 震災の非当事者の我々が日々感じている "サバイバーズギルト " にも似た思いだ。

 

 

 

 

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『でも " あの日 " ・・・・・・ 私・・・・ 何もできなかった・・・・・・。』

 

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だからこそ・・・・・・ 百音が感じた、自分に対しての不甲斐なさ、悔しさ、後ろめたさといった "サバイバーズギルト " のような心情とその苦しみが、オレの胸にも突き刺さってくる。 そして、

 

 

 

 

 

「その痛みは・・・・・ 本人でなければ本当のことは分らない」

 

 

 

 

ということも我々に提示しているということなのだろう。これはこの作品全体を通奏低音のように脈々に流れるテーマであり、今後もあらゆるところで取り上げられる。このようなことを我々に突き付けてくる安達氏の脚本の奥深さと凄さに・・・・・ オレは脱帽するしかない。

 

 

 

 

 

 

○たった一人の妹・未知の異変

 

 

避難所の給食室で吹奏楽部のメンバーと再会し、空間に沈黙が漂う中・・・・ 百音の背後から『おねえちゃん・・・・』と力なく囁く声が聞こえる。彼女のたった一人の妹・未知(みーちゃん 演・蒔田彩珠氏) の声だった。咄嗟に振り返り、走り寄って未知を抱きしめる百音。ここでようやく百音の感情が爆発する。

 

 

 

 

 

 

 

 

百音は自分のマフラーを外して、未知に巻いてあげながらこのように語りかける。

 

 

 

 

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『大変だったね。頑張ったね!! 寒かったでしょう!! 』

 

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彼女の姉としての思いがひしひしと伝わってくるシーンだ。そして祖母の消息を尋ねた時に何も語らない未知。百音に不安な感情が沸き起こると、間髪入れずに及川亮(りょーちん 演・永瀬廉氏) が無事であることを伝えてきた。

 

それでも・・・・・ 目を伏せたままの未知。

 

 

 

 

そして、支援物資を運ぶ海上自衛隊の哨戒ヘリコプター「SH-60J」の轟音に包まれる二人。吹奏楽部のメンバーや未知がこの数日間に体験したことの凄まじさを体現しているようで・・・・・ 百音はその轟音に思わず恐れおののく。

 

 

 

 

 

 

 

 

泣き止まない妹に・・・・・ 百音は未知の計り知れない "その異変 " を感じ取る。

 

 

 

 

 

 

○百音の " あの日 " の後悔と贖罪

 

 

この情景が一晩中駆け巡っていたのか百音は早く目覚めて、縁側で一人ぼんやりとしていた。そして "2011年8月の情景 " を思い返していた。震災から5ヶ月が経過し、父・耕治からもう一度音楽を始めてみないかと語りかけられる。『これからなんじゃないのかな・・・ 音楽とかが大事になってくるの』

 

それに対して百音は・・・・・ キッパリと言い切った。

 

 

 

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『違うよ、お父さん。音楽なんて・・・・ 何の役にも立たないよ。』

 

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この言葉には・・・・・ " あの日の自分の選択に対する後悔 " が滲み出ている。

 

 

震災当日は百音は仙台の音楽コースの合格発表ため、めったに離れない亀島から離れて本土に居たわけだ。そして本来のスケジュールであれば合格発表を確認したら、翌日に控える卒業コンサートの練習のためすぐに亀島に戻り、仲間と合流するはずだった。

 

しかし、不合格ということで落ち込んだ気分を慰めようと仙台のジャズクラブに寄り道をしてしまった。すぐに帰れば練習に合流できたにも関わらず、ジャズクラブでのライブ演奏が始まると、そちらの方に心惹かれてしまって帰ろうとしなかった・・・・・・。要するに、

 

 

 

" 自分の我を優先させたことで・・・・・ 一番大変な状況の時に故郷や仲間を支えられなかった。力を貸せなかった  "

 

 

 

という思いに苛まれていたということなのだろう。そうなのだ。百音にとって "音楽 = 自分の我 " の象徴になってしまったわけだ。音楽を優先してしまった後悔。自分の我を優先してしまった後悔。そして、このことが大切な仲間やたった一人の妹との間に、大きな溝を作ってしまうというキッカケになってしまったのだ。3年経過しても・・・・・ 百音はそういった思いに苦しめられていた。

 

 

もうサックスなんて・・・・・ 二度と手に取れる訳がない。

 

 

 

そのようなことを縁側でぼんやりと考えていると・・・・・・  亮も起きてきて隣に座った。百音の様子から、その心模様をそこはかとなく感じ取ったのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

亮は百音に浜で朝日を見ようと語りかける。

 

 

 

 

 

 

○今もまだ残る、百音と仲間との埋められない溝

 

 

 

亮に誘われて、メンバーたちと妹・未知と浜辺に朝日を見に来た百音。相変わらず思い出話に花が咲く。

 

 

 

 

 

 

 

 

ここで寺の息子である後藤三生(みつお 演・前田航基)が、砂でカメを作ると無邪気に言い出して、一人で作り始める。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それに促されるように、他のメンバーは三生の方に駆け寄るのだが・・・・・・ 百音はついていけずに一人取り残される。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

妹・未知に『おねえちゃん』と促されてようやく・・・・・・ 仲間の元へと向かう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

このシーンも、

 

 

 

 

 " こちら側とあちら側には大きな隔たりがある "

 

 

 

 

といった震災以降に生まれた、" 仲間と百音との埋められない溝 " を象徴するような演出だ。3年が経過しても  " あの日 " のように仲間との溝は埋まっていない。そして彼女はそのことに相当苦しんでいるのだろう。

 

 

そしてこれは・・・・・ 仲間との溝だけではなく・・・・・ たった一人の妹・未知との溝も抱えている百音だったのだ。

 

 

 

 

 

そして、百音と未知との間に生まれた溝は・・・・ 第4週で露わとなる。この辺の話は次回のエントリーでまとめたい。