おはようございます。
市川学です。
エゴとの対話をしていたら、
ものすごいシフトが起こりました。
そう、シフト、です。
私の中の、今までの常識が、完全に崩れ去りました。
世界が違って見えています。
本当に、驚いているのと、
こんなに嬉しい気持ちを感じることが出来て、
本当に幸せだし、解放感に満ち溢れています。
過去、これほど大きな意識の変容は体験したことがありません。
現実は、なんにも変わっていないのに、
こんなにも気持ちが変わるなんて、
本当にびっくりしています。
今回のシフトを、一言で表すと、、、
『苦しみからの解放』です。
『苦しみからの解放。』
もうちょっと言うならば、
『エゴの苦しみからの解放』です。
苦しい、と感じるのは、エゴなんです。
愛は、傷つかない、と言ったりしますよね?
本質のあなたは傷つくことがない、とか。
傷つく、苦しむ、それはエゴなんです。
でも、それはおそらくはほとんど意識されていない、
無意識に隠されている領域の話しです。
よっぽど意識的にエゴの動きを観察しなければ、
おそらくは見えてこないんじゃないかと思います。
いろんなパズルのピースが、
一つ一つ、完成形に向けて進んでいって、
最初は関係ないモノ通しだった、
それぞれのピースがありますよね?
それが、繋がった瞬間、みたいな感覚です。
それぞれ単体では、意味をなさないピースが、
完成することで、それぞれ大切な意味を持ちますよね?
それと同じ感じです。
どれもこれも、全部必要な出来事だったんだ、
今の現実は、この気づきのために、
ずっと前から用意されていたんだ、っていう、
そういう感覚でした。
なんにも、苦しむ必要はなかったんだ、って。
【なにが苦しいのか?】
例として私の場合の話しをしますね。
私は、今回の気づきを通して、
やりたいことだけを選択していく人生。
そういうものを手にしました。
やりたくないことは、やらなくていい。
っていうことが、完全に腑に落ちました。
やりたいことだけを、選んでいけば、
本当に自分らしい人生を送ることが出来る、
って、確信しています。
それはなぜかというと、
私の価値観の中で、やりたいことをやる、
っということよりも、
自分は正しいのか、間違っているのか?
この価値観の優先順位のほうが高かったんです。
自分がやりたいことがあるとしても、
それが、常識的に正しくなければ、
その選択が出来ないような自分がいました。
それでもやりたいことがあるから、
その正しさを無理やりにでも証明して、
自己正当化をして、私は進んでいました。
心の奥底では、こんなこと間違っているのでは?
っという感覚を抱えながら、常に自己否定が入りながら、
毎日を過ごしていたことに気が付いたんです。
正しいとか、間違っている、ということはない、
っということを常日頃、思っていながら、
正しいとか、間違っている、ということに、
ものすごくこだわっている自分がいたのです。
ここに私の苦しみの正体がありました。
では、私の中の正しさ、とはなんだったのでしょう?
・・・
それに気づいたのは、
感情的なざわつきと、その時の思考です。
例えば、
人に親切にするべき、であるとか、
モノは大切に扱うべき、とか。
他人が、自分の大切にしているモノを、
粗末に扱っていたりすると、ものすごく、
心の中に摩擦が生じていたんですね。
まぁ、そのことにすら、
気づいていなかったりもしたんですけどね。
気づいていなかった、っというか、
モノを大切にするのは当たり前、
っという価値観があったのですが、
その価値観を持っていることに気づいていなかった。
っというべきでしょうか?
。。。
例えばなんですけど、
買い物をしていて、お店の商品をですよ、
その商品を手に持って、バン!と投げつけるように置く。
これ、私の中ではありえないんですね。
投げるようにポン、っとするとかもありえない。
すっごく粗末に扱っているように感じるし、
たとえ、自分が買う商品だとしても、
そういう風にモノを扱うのはないでしょう、と。
この思考がエゴだ、っていうことに、
今回私は初めて気が付いたんですね。
私の中の、無意識的な正しさの主張がここで始まるわけです。
そうすると、そういうことをする人は、間違っている、
っと否定している自分や、嫌悪感がくるんですね。
この流れが、私の中では当然のことすぎて、
まったくエゴとは認識出来ていない感情の流れでした。
誰かを批判したり、そういうのがエゴだ、
っというのはわかっていたのですが、
自分のこととなると全く見えていなかったんですね。
だいたい、そんなことを考える前に、
ものをそうやって投げたり、
粗末にすることがありえないでしょ、
ってそういう思考しかなかったので。
でも、相手を否定するのは、エゴ、
まぁ、ここまではまずはわかった、と。
次に、思考や感情も、エゴである、と。
そう認識した時に、
自分の中では大切にしていた、
モノを大切にするべき、丁寧に扱うべき、
っというこの思考もエゴである、と気づきました。
モノを丁寧に扱うことは、良いことだとは思っていますが、
それを人におしつけたり、そういうことをしない人を批判する、
そういうのは、完全にエゴだな、ってわかったんです。
っとここまでいった時に、
私の中で、全ての苦しみが幻想で、
あ、苦しみがなくなる人生、ってあるかも。。。
っという境地に達したんです。
今まで、本当に辛かったのは、
自分が大切にするものがあればあるほどに、
私が大切にするものを、大切にしない人がいる。
大切にしている、ということを証明しようとしたり、
それを人に伝えようとすればするほどに、
自分が正しい、相手は間違っている、というような、
二元論にどうしても陥ってしまうことがありました。
だから、ただ、その思考を手放すんだ、って、
そういうことを思っていました。
正しいも間違っているもないから、
人それぞれ、そこは自由じゃんって。
でも、やっぱりそれだけだと、
私が大切にしていることを、大切にしない人を見ると、
正しいことをしている自分が否定されているようで、
どうしても、感情的な摩擦からは解放されませんでした。
今回の気づきは、私が大切にしていること、
その思考や感情すらも、エゴである、ということです。
どんなに大切な価値観も、エゴです。
本当の私、という存在と、
私はこれを大切にしている、という思考や価値観が、
完全に同一化してしまっている、という状態です。
その価値観を持っている自分に価値がある、と。
そういう風に感じてしまっている自分。
本来の自分、宇宙と一体となっている、
空間としての自分、というのは、
なにがあってもなくても、それで完全です。
なにを大切にしていようと、大切にしていなかろうと、
その価値、意義、はなにも変わることがありません。
私達は、この世界に、ただ純粋な存在として、
この空間にただただ、在る、という存在です。
今、この瞬間を、ただ生きている存在です。
純粋な生命のエネルギーをただただ全うしている存在です。
価値観、というのは、
ただのおかざりで、この世界で、
より自分にとって望ましい反応をもらうための、
一つのツールのようなものです。
例えば、ものを大切に扱う人、であれば、
人に与える印象が良くなるかもしれませんよね?
もっとわかりやすくいうと、
テーブルマナー、とかってありますよね?
あれが出来ると、ちゃんとしてる、とか、
どこにいっても恥をかかずに堂々としていられる、とか、
そういう現実を生きることが出来ますよね。
でも、それであなたの価値は変わりますか?
。。。
変わりませんよね?
テーブルマナーが出来ようが、出来まいが、
まったく変わることがないんですよね。
テーブルマナーが全く出来なくて、
恥をかこうがなんだろうが、
あなたという存在は、1mmも揺るぐことはない。
そうですよね?
・・・
でも、ですよ、
実際、この現実に生きていたらどうでしょう?
恥をかいたら、なんだか自分の価値が、
下がったように感じるかもしれませんよね?
他人から、テーブルマナーも出来ない、
そういう無作法な野蛮な人、って思われるかもしれませんよね?
でも、ただただそれだけのことです。
あえて、誤解を恐れずに言えば、
そこには、なんの価値もないのです。
・・・
モノは大切にしなさい、っていうのは、
おそらくは親とか学校で教わってきましたよね?
そういう価値観というのは、
この現実社会で、より良いポジションで、
より影響力を発揮するような人になるために、
効果的であると認められるから教えられると想うんです。
一つの知恵として、教えてくれてると思います。
でも、それはただのエゴです。
価値観なんて、ただのエゴでしかない。
常識なんて言うのもそうです。
会社のミッション、ビジョン、崇高な理念とか、
これまた誤解を恐れずに言えば、ただのエゴです。
自己満足の飾りみたいなもの。
これは、誤解がうまれるかもしれないので、
もう少し詳しく言いたいのですが、、、
崇高な理念が、崇高な理念であるためには、
エゴ、というものを越えていなければいけない、と感じます。
どんなに崇高な理念でも、
それが、人に押し付けるような感じになったり、
これが正しいんだ、なによりもこれが正義なんだ!
というような感じになってしまったら、
崇高な理念は、個人のエゴにまみれてしまう、
という意味です。
理念は理念として、存在しているから、理念。
それを自分の価値を上げるために利用したり、
自分のためだけに利用しはじめてしまったら、
それは、エゴ、になってしまう、ということです。
少し話しがそれました。。。
人の価値観、自分にとって心地よい価値観を採用して、
人生を楽しんでいくことは、そのままでいいと思います。
あなたの中の愛を広げていくことでもあると思います。
私も、モノを大切にしたりとか、
そういう価値観というのは、これからも持っていきます。
ただ、その価値観を持っていない人のことを、
とやかく言うとか、批判的な行動はやめようと思います。
それは、コントロールできない外部の存在を、
コントロールしようとしていることでもあって、
そういうことをしようとするから、無力感を感じる。
わざわざ、無力感を感じにいってる、
と言ってもいいくらいです(笑)
わざわざ、自ら苦しみを生みだしている、
と言っても、言い過ぎではないとも思います。
そういうところで、深い部分で感じているのは、
愛ではなくて、恐れでしかなく、エゴです。
ここまで読んでいただくと、
エゴ、というのは敵、みたいな感覚になるかもしれませんね。
でも、エゴさんは、敵ではありません。
エゴ、って悪いものなかな?
という疑問は私の中にもあったんです。
でも、今回のことですごくよくわかったのは、、、
エゴ、っていうのは、
本来の力を持った自分、そういう存在の自分を、
感じるために、絶対に必要だった存在、ということ。
対比、として、必要だった存在なんだなぁ、っていうことです。
永遠を感じるには、
時間の制限がある必要があるのと同じように、
この現実で、本来の自分を感じるには、
エゴ、という存在がどうしても必要だった。
だから、わざわざ、エゴさんも存在してくれている。
そんな風にも感じています。
本当に無駄な存在とか、不必要な存在、って、
この世界には、なんにもないですね~。
ありのままの存在で、ただ存在しているだけで、
やっぱり、価値がある。
そんな表現も、あまりしっくりこないなぁ、とも感じて、
ただ、存在しているだけで、ありがたい、というのかな。
全ての存在は、私達がどう在りたいか?
その選択肢として、ただ存在している。
いろんな存在の、その幅の中で、
自分がどういう存在で在るかを決めるために、在る。
そんな感覚もあります。
こういう気づきを通じて、
内側の愛が広がっていく、というのも感じます。
今回の気づきは、本当に、
全ての苦しみからの解放になりました。
無意識、っていうのは、本当に無意識なんですね。
無意識だから、無意識の領域で力を持ちます。
でも、無意識が意識出来たら、その時は。。。
ステキなことが起こりますよ♪
っというわけで、本当にありがとうございます。
深呼吸をして、のんびりしてくださいね♪
P.S
明後日、31日(月)が新月です。
新月の意図なんかを、思い浮かべるのも楽しいです♪
では^^