基本的な私の考え方なので、全員そうだって言い切ってないです。
私は以前から、「存在すると思えば存在する、存在しないと思えば存在しない」
そうやって考えていました。
例えばなんですが、日本の裏側にも人は住んでるけど、私達は普段は
その方々の事を認識する事が出来ない。認識することがなければ、
その人は存在していないことになる。その逆も然りです。
この場合は遠くに住んでいる人を例にあげたけども、お隣さんでも
夜勤とかで日中は全然顔を出さない方とかいたら、認識出来ないので、
結局は「いない」と、脳内では認識されてしまうのですね。
意外とシンプルなもので、定義一つで物事というのは変わってきます。
嫌いな人も、その人がいると思うから嫌いという感情が出てくる。
好きな人だっていると思うからこそ好きになるのであって、
いないと思えば好きという感情すらも生まれてきません。
要は思い一つで物事は容易に変わっていくものだったりします。
私は祖父がプロテスタントの牧師志望だった人で、(牧師にはならなかったけど)
小さい頃からキリスト教に触れてきて、幼稚園がプロテスタントの幼稚園、
中高がカトリックと、わりとどっぷりキリスト教にたずさわってきました。
そのおかげもあってか、妙な新興宗教にはまることはなく、
逆に勧誘が来ると説教をして帰らせるという妙な人間だったりします。
ただ、祖父母も父も母もキリスト教にはまりすぎているというわけではなく、
大晦日には除夜の鐘をつきにいくし、初詣には行くし、
やらなかったのはお彼岸やお盆の時ぐらいでした。
だから、わりと小さい頃から、神様はいっぱいいるし、天使もいるし、
聖人の方もいるんだな~って思って生きてきておりました。
ちょっと苦しいことがあったときに、
「神様なんていないじゃない、助けてくれないし」
と、考えていた時期も確かにありました。今だからこそ、少しは精神的に
楽にはなったのですが、さすがに楽な人生ばかりを歩んできたわけではないので、
そうやって否定的になっていた時期もありました。
ただ、その頃は神様にお願いをしたりすがっていたりするばかりで、
感謝の気持ちというのがなかったような感じでした。
感謝の気持ちを持てるようになってきたのはつい最近だったりします。
苦しくても、守護の方々が常に見守っていてくれると信じられるようになって、
初めて気づいてきた部分でもあります。
長くキリスト教を見てきた私ではありますが、どこか無神論者なところがあったのです。
だからこそ、「いると思えばいる、いないと思えばいない」。
内観による、コギトエルゴスム「我思う故に我在り」と似ているのかな。
かつての私はいないと思っていたところもあった。常にいるいないの繰り返し。
今はいるの方向性。多分これに関してはもう覆らない感じではあります。
人は自分の信じたモノを他者にも共有させたいという欲がどうしてもあります。
それがうまくいかないと、離れていくこともあります。
ただ、それが欲であるということを知らないとならないんですよね。
自分が信じていればそれでいいと。そう考えるならば何の違和感もなくなるし、
人に強要することもなくなってくる。
共有できる人と共有することが出来ればそこに固執しなくなってくるし、
信じようとしない人に信じさせようと労力をつぎ込むこともしなくなる。
まぁ、これは面倒くさがりな私が出した結論なんで、読んでる方々が
どうされるかは皆様次第と思います。
人それぞれの考え方があり、皆別々だからこその人間だし、
だからこその物質社会なんだと考えれば腑に落ちるんですよね。

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