発電所は広い芝生の中に建てられ、柵の外側には石碑や胸像、以前使われていた水車などが展示されている。桜も何本か植えられ、バス停にもなっていて、地元の人たちにはちょっとした誇り高いような場所となっていると思われる。

 

胸像はもちろん福澤桃介であるが、これは昭和43年(1968)に復元されたもの。当初は昭和5年(1930)建立されたが、おそらく金属製だったのだろう、戦争のために供出されている。(写真/桃介の銅像越しに中央アルプスの峰を意識して背景に入れる。そう山の向こうには桃介が開発した木曽川が流れているからだ) 

 

運転開始当時の発電用水車はスウェーデンのボービング製、発電機はイギリスのブラウンボベリ製で、当時の世界最高水準の設備が投入されている。しかし、展示されているのは昭和47年(1972)から昭和63年(1988)まで使用されていた出力16,412kWのフランシス水車。重さは5㌧もあるという。 

 

南向発電所は昭和4年(1929)1月に主要工事が完了し、翌月には送電線が完成し運転を開始している。当時、南向発電所から綱島変電所(神奈川県)に伸びる亘長286㎞の大同電力天竜東幹線で東京電燈に供給されていたようだ。154㎸の高い電圧での送電は、伊那谷において初の試みであった。さらに昭和12年(1937)には日進変電所(愛知県)に接続する亘長87㎞の天竜西幹線にも電力が供給されている。(写真/建屋の正面から放水される) 

 

発電所から放水された水は再び暗渠の放水路を通り天竜川へと流れていく。そこは渡場のいちょう並木と呼ばれて、若葉の頃から紅葉までは美しい景色が広がるようだが、その下を放水路が通っていて、空気抜きが数基ポツンと佇んでいる。

 

幅5.22㍍、高さ4.55㍍の放水路=延長690.6㍍=を流れ天竜川に放水される。(写真/上流側をみて暗渠から出るトンネル部を望む) 

 


南向ダムおよび同発電所もよく地形をよく計算し尽くして造られている。10㎞以上も上流にえん堤を設け、二段構造の河岸段丘を流れ落ち、電力を生んだ後、再び天竜川へと放水される。こうした先人の発想にはいつも感心させられる。南方発電所は、その後、大久保発電所とともに矢作水力株式会社、日本発送電株式会社を経て、現在中部電力株式会社が継承している。(写真/天竜川に戻る水たち)
 


南向ダム・南向発電所 END