豚しゃぶ「シャブシャブしてったら!」つったって、目の前の生肉食おうとする。スタッフが一息つくのは〆の雑炊のときだけ…
有限会社ぽたらかは五年経っても資本金を準備できなかったので、組織変更して株式会社ぽたらかとなった。当然、資本金もない。
当時の施設長のNが失踪している時にぽたらかの求人票を見てやってきたSという初老の男性がいる。営業畑を歩いてきたというだけあって、口がうまいのでぽたらかには今までなかったタイプであり、しばらく重宝した。
しかし、やがてぽたらかを牛耳るようになり、すぐに帰ってきたNや藤野さん、岡崎さんたち古株に対して傲慢な態度が見られ、転がり込んだ若いやくざとつるんで、私の追い出し作戦にかかった。
ついにたまりかねて取った私の方法は、彼を株式会社ぽたらかの社長にするという、逆転の発想で決断した。今まで私がNPOの代表理事で株式会社ぽたらかの代表取締役で唯一の株主であった。坊主で喪主で業者であった葬儀屋よりは、荷が重い。
追い出しても周りに迷惑をかけていく、それならば抱き込んじゃえ。責任者ならば、ぽたらか自体に禍を及ぼすようなことはしないだろうという魂胆だった。
しかし、外見を変えただけで見違えるように中身まで変わるウチの年寄りたちとは違い、彼の性根は変わらなかった。
ぽたらかが平成の大修繕を行っていた時に、そこで二年間も給料未払でこき使われている大工、電気屋、重機オペレーターの三人を拾ってきた。
NPOで面倒を見てくれという。かわいそうだから生活の世話はするが、給料はちゃんと払ってやるなと約束させて、寮に住まわせた。
ところが、何度も仕事の手伝いをさせておいて一度も人夫代を払わない、ばかりではなく、重機オペレーターの牧山さんの年金を担保に借金をさせ、その借金を使い込んでいたことがわかった。
その人たちからすればまさに泣きっ面に蜂である。それでいて、毎晩飲み歩いている。
さっそく、株主総会(私一人だけど)の議決により、社長を解雇した。さすがにもう私たちの前には現れなくなった。
さて、残された三人、電気屋の高村さん、大工の白戸さん、重機オペレーターの牧山さんはSを恨んでいるかと思えば、
「あの人がいなかったら、ここぽたらかとは巡り合わなかったからね。だからその点では感謝しているよ。」さすがに職人さんだ。潔い。
でも、彼らのリーダーである牧山さんは責任感もあっただろう、ストレスが追い討ちをかけたのか。
正月が明けたら、這うようにして病院にいった。腰が痛いという。肝臓がんで、巨大にそれは膨れ上がっていた。
すでに末期で手の施しようがない。三ヶ月の入院の後、帰ってきた。
一度、Sがいるときにいわきの私の別宅の修繕を三人に一ヶ月泊まり込んでやってもらったことがあった。
コンクリートの塀と裏の倉庫が崩れて下の畑に転がって落ちたら危険である。
震災後の入居だから、被災者に認められる瓦礫の処理を業者に頼めない。地元の業者は被災者のがれき処理で手いっぱいなのだ。
それを重機で壊し、粉砕して裏に埋めるという荒業を牧山さんがやってくれた。普段は昼間から酒を飲み、座って二人の仕事を見ているだけの人であったが、ユンボのレバーを握ったとたん、人が変わる。キラーンと。
「こいつがありゃ、なんでもできるぞ。」
ぽたらかのじいちゃん、ユンボですくって風呂に入れるとか。重機介護とか、新しい分野を開拓できそうだ。
なんて、元気だったのは倒れる一ヶ月前のことだった。ここいわきは、三十年前に来たことがある、と牧山さんは突然思い出した。
「この辺の田畑は全部わしが、重機でならしたんだ。この郵便局もよく覚えている。縁があるんだなあ。」
だから、いわきに行きたいというのが、口癖になった。大好きな釣りをして、山菜取って、そうすればこんな病気はなおると。
牧山さんのお腹は地獄草紙の餓鬼みたいに膨らんでいた。それは腹水ではなくて、癌そのものだった。
行くんだったら早いほうがいい。そこでクッションの効いた車をレンタルして、白戸さんの運転でいわきにやってきた。
牧山さんは夜中、吐いていたので、このまま逝ってしまったらと私は覚悟した。ところが朝、牧山さんは今までにないすっきりとした顔で起きてきた。
「何も食べていないのにたくさん吐いたんじゃ、するとすっきりとして、やけに元気がでてきた。わしはこのままここにいたら、いけそうな気がする。」
村社の明神様がついている。このままここにいたら、ひょっとして奇跡は起きたかもしれない。
その後、東京に帰って三ヶ月後、苦しむことなく牧山さんは静かに逝った。
息子さんと娘さんは福島にいるという。仲が疎遠ということはなく、携帯を変えたら番号がわからなくなって、そのままだと本人は言っていたが。区役所の方から連絡はいっているはずだが、牧山さんのお子さんからは連絡はない。
「会社は白戸さんに任せたからね。」と、いわきで牧山さんに伝えたら、本当に安心しきった笑顔を浮かべていた。
住むところがなく、転がり込んできた人には食事も与えて寝るところも提供する。介護の仕事はいやだという人はバイトをしながら仕事のない時間だけ食費分手伝ってもらう。
介護もOKという人は、ホームヘルパー二級(今は現任者研修)の資格を得て、介護事業所に登録してぽたらかからの収入プラス結構稼ぐことができる。
会社の仕事はゴミ屋敷の片付けと修繕、ハウスクリーニングなのでそっちを手伝ってもらうのは主に、みなはうすの外人さん。
以前は仕事がなくて住む家もない、若い人が多く来たが、今は少子化で若い失業者など都内にはいない。ぽたらかのスタッフも高齢化の波に飲まれて、もはや介護を受ける側に近くなってきている。
洗濯当番のチョウダリが辞めてからは、ハローワークに求人だそうかと思ったが、どうせ、忙しいときには休んでもらわなければいけないような人しかこないのはわかりきっている。
だから、二階にいる寮生に洗濯当番、食器洗い当番、ゴミ出し当番などをやらせて、小遣いをやっている。最初、これを提案したときに、彼らの介護をやっているヘルパーさんらが反対をした。
「要介護者を働かせるのってどうなの?」
しかし、みんなは役目を与えられて生き生きとして動いている。なにもすることなく、テレビばかり見ていたときとは目の輝きが違う。
池田さんは、昔はプロのボクサーだった。脳梗塞の後遺症で手に麻痺があり、洗った食器を階下に運ぶのに、かごに布を巻き腕を通して痛くないようにしてやった。池田さんはゆっくりゆっくり階段を慎重に降りる。大丈夫かい?と声をかけられると、「体は鍛えとかないと、なまるからね。」鍛えてるんだ。また、リングに上がるようになるかもね。
動ける人間がうちではスタッフである。
要介護1くらいなら、要介護2の人の着替えを手伝ってやる。
バチカンから外務省の招きで女性司祭様がぽたらかにこられたときがある。
その方のたっての希望で、貧困の現場が見たいという。それがなんで、外務省でぽたらかとなったのかはわからないが。
いきなりなので、電話で聞いてもそんなお方がこんなところに来られるとは、私自身も訳が分からず、スタッフに説明すらできなかった。それが失敗の一歩。
伝えられた予定の時間から、一時間も過ぎて、スタッフの夕食もお預けになっていた。
「ちょっと、黒塗りのベンツがこの辺うろうろしてるわよ。まさか、ぽたらかじゃないわよね。」
「まさかあ。」
いや、そのまさかだった。まさかこんな路地裏にあるとは、思わなかったのだろう、国賓を連れてきた外務省のベンツの運転手も。すっかり道に迷っていた。
全日仏(全日本仏教会)の事務局長さんと通訳の方を従えたその司祭様はフランクで感じの良い方だった。
やっと、事態の飲み込めた私は藤野さんにお茶を入れるように促した。遅くなって機嫌の悪い彼は、馬のションベンのような薄いお茶を淵の欠けた茶碗で、にゅっと手盆で突き出す。
私は冷や汗を欠いた。もっともこんなに偉いお方がくると知っていたとしても、彼の態度はそんなに変わらなかったかもしれないが。
しかし、司祭様はそんなことは気にもせず、興味を持って私の話を聞いてくださった。
通訳を介しての会話だった。日本語はお分かりにならないはずだったが、私の話に通訳を待たずしてときには、大きく相槌をうち、ときには手をたたいて笑う。結構、気が合った。私も女性の司祭って数が少なくて大変じゃありません?と不躾な質問をした。
司祭様は「封建的な社会ですからそれはねえ。」と、含み笑いをした。
帰り際に全日仏の事務局長さんに、
「今まで外務省にいろんなところに連れていってもらいましたが、ここが一番楽しかった。」と喜んでおられたという。
「すげえ、世界で三人しかない女性の司祭様だってよ。」興奮していう私の言葉にみんな
「……?」
「十二億人の信者のトップだぞ。」
「……??」
確かに、連中には関係ない話だ。しかし、普通のお客さんでもあの馬にションベンの茶に手盆はよくない。私の躾が悪い。
派遣村という言葉が流行語になったときも、ぽたらかに元派遣社員という男性がたくさんやってきた。多くは居着かなかったが、菅原くんのことだけは、忘れることができない。
当時、四十二歳。派遣村にたくさんの求人票が集まった。多くは農業と介護事業。それらは紙くずとなって散らばっていた。
その中でも一番条件の悪いぽたらかなんかにくるようなばかはいないだろうと思っていたら、いた。
埼玉の派遣会社の寮から、自転車で求人票の住所を頼りにやってきた。
福祉の仕事をやりたいという、願ってもない人材で嬉しかったが、難を言えば、ストイックな人だ。生真面目すぎる、融通性がなさすぎる。
ホームヘルパー二級の資格を取り、友人の介護事業所の社員となり、安定した収入になったのに、人とぶつかって、いつの間にか派遣に戻ったり。
近くのアパートに住んでいたことはわかった。いつか夏の暑い盛り、偶然出会い、
「どうしたの?元気でいるならぽたらかに顔だしなさいよ。」「はい、そのうち行きます。」
と会話を交わしたその一ヶ月後、警察から電話があった。
「菅原○○さんという方はおたくの職員さんでしたか?」
「やめてはいるけど、確かにいましたが。」
「アパートの一室で不審死となって発見されました。身元確認してもらえますか?」
「えーっ!」
さっそく、彼を登録していた介護事業所の友人の正子さんに連絡して、一緒に警察に向かった。
霊安室に案内される前に、私はいきなり猛烈な喉の渇きを覚えた。
「み、水……。」
友達がミネラルウォーターを買って来てくれた。
霊安室に案内されるとストレッチャーに白い布に覆われた遺体。警察官が顔を覆う布を取る。目は落ち窪んで髭は濃く生え、口をぽかっと開けて人相は変わっていたが、確かに菅原君だった。
私は、自分の喉の渇きにたまりかねて、彼の口の中にミネラルウォーターを流し込んでしまった。
「あ、困ります。まだ検視の前なんで。」と警察官が慌てて止めたが、遅かった。でも、私の痛いまでの喉の渇きは、一瞬に消えた。
「ああ、水断ちだね。」
正子さんと顔を合わせた。死因は衰弱死。死後、一週間だそうである。
彼の妹さんが都内におられて、彼の遺体を荼毘に付して、ご遺骨を北海道におられる年老いたお父さんのもとへ届けるという。
決して、肉親とも縁が薄かったわけではない。ただ、いつかはこういうことが起きると思っていた、と妹さんはつぶやいた。
妹さんに頼まれて、彼のアパートを片付け、貴重品は北海道に送ることになった。
部屋はほとんど物がない。生活感がなかった。しかし、ペットボトルにいっぱい水を入れて、テーブルの上に置いてあったのは異様だった。
ここ最近、異常気象で猛暑が続いていた。水道代を払っていなくて、水を飲まずに熱中症になるというならわかるが、水を目の前にして衰弱死するなんて、まるで修験者だ。
死に向かう意志の強ささえ感じる。
後で、カードを盗まれたことがショックだったらしい。とか、ぽたらかのベランダでミャンマー人の女の子に『人間て、何も食べずに飲まずにいたら楽に死ねるかなあ。』と聞いたことがあったそうだ。
『菅原君よ、死ぬって楽なもんじゃなかったろう。でもな、死んでいくものの苦しみより、残されたものの苦しみのほうが、もっともっとつらいんだよ。』
無料低額宿泊所は、寄り添い型宿泊所となって一定の条件をクリアした事業者を残して、その他は消えていく方向にあるそうだ。
まず、ぽたらかのように違法建築じゃダメ。
ぽたらかのように個室がないものはダメ。
ぽたらかのようにホームヘルパー二級の資格しか持っていない職員ではダメ。
ぽたらかのように終の住処としてはダメ。
ぽたらかのように高齢者だけじゃなく、若年者も外国人までも保護をしてはダメ
ぽたらかのように……ええい、要するに家族のないものは施設にいけと?
直ぐに解散解体するというわけにもいかない。ここで死にたいという年寄りがいる以上、追い出すわけにもいかないだろう。
それを口実に二年三年と細々とやっていこうと思っている。貧困ビジネスだと評判の悪い無料低額宿泊所だけれど、養護施設で育った統合失調症の若者がその寄り添い型に入れないだろう。
長い間一人で生きてきて、ゴミと一緒に回収されて個室に移されたら錯乱状態になり、雑居に戻されたとたんに穏やかになったじいちゃんなど、がまんできないだろう。
折笠さん親子がぽたらかに来たのは平成二十位年の十二月だった。八十歳を超えるお母さんと橋の下で生活をしていた。
保護されてお母さんは女子寮に、当時五十代前半のOさんは男子寮と分けて住んでいたが、お母さんの子離れが出来ず、ハンガーストライキをしてまで『一緒に住みたい!』と駄々をこねるので、仕方なく二人を男子寮の個室に住まわせた。
まもなく、同僚の寮生から、彼がお母さんに暴力を働いている、という証言があり、夏の暑い日にお母さんが熱中症で倒れた(部屋にはエアコンがあるが、彼が使わせなかった)のを機会にお母さんを老人施設に入所させた。その後、お母さんは老衰で亡くなる。
彼も熱中症で倒れて入院した。その時、真冬の格好をしていて、来ているものは何人も着替えたことがないような、すえた臭いを発していて、彼は典型的な統合失調症の様相を呈していた。私は車いすでぽたらかに連れて帰り、当時は外階段を上がって2階に風呂があったので、後ろから羽交い絞めで階段を上らせ、服を剥がして風呂に入れた。
しばらくは穏やかにベッド上で独り言をつぶやきながら、過ごしていたが、往診に来る精神科の先生が変わって、女の先生になると聞いてから、彼の態度が変わった。ある日、普通に散歩に行く感じで寮をでてから、帰ってこなくなった。
そして、失踪から一か月、保護が停止されてから、警察から電話があった。
「折笠さんという男性を知っていますか?」なんと、隅田川に飛び込んで水死体で上がったというのである。
事件性がないので迎えに来て欲しい、というので、軽トラックで迎えに行って、シートにくるまれたままの彼の遺体を荷台に乗せて帰った。
いなくなった当時は生活保護がでたばかりだったが、所持金はなかった。その代わり、財布には大事そうに折りたためられた領収書があった。
場所は元吉原あたりの、いかにも昭和チックなソープランド風の店の名前、金三万五千円也……。コノヤロー、がんばったな。
どおりで、ドザエモンの割にはきれいで晴れやかで満足しきった顔をしている。彼には一度だけ結婚したいと思った女性がいて、母親が反対して叶わなかったと聞いたことがある。それからずっと、この道はどこまで続くのであろうか……『道程』である。
だから、女のお医者さんがくるのがいやだったんだ。でも、最後に思いを果たしてさっぱりしてよかったね。
折笠さんの葬式代は生活保護が停止されてから後の事だったので、葬祭扶助費がでない。でも、おかあさんの年金が残っていることがわかり、結局、最後の最後まで、お母さんのおかげで無事、葬式を済ますことができた。
なお、これは余談だが、警察に運び込まれた死体はシートにくるまれている。裸だったり、腐乱してたり、中にはばらばらの遺体だってあるだろう。そのシートは警察の備品なので返さなくてはいけない。といっても、使用済みの ものは返されても困るので、つまりは現金のお志をだせという。元はといえば、国民の税金だろうが。領収書をとらない、そーいう金はどこにいくの?私は、折笠さんを包んでいた体液付きのシートを返してきた。「あの、現金のほうは…。」の声には気が付かぬふりをして。