野戦病院 | ぽたらか

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ぽたらかは20年の歴史を閉じます

そんな連中でも、介護ができるスタッフがいる無料低額宿泊所はそんなになかった時代である。

「どこでもいいからねかせてください。」

定員いっぱいですといってもこうやって連れてくる、保護課。生活保護を申請に窓口にくる人だけが対象ではなかった。行き倒れている人が救急搬送で病院から最寄りの役所に連絡が入り、保護決定する。そのまま、入院することもあるが、病院に迎えに行くということもよくあった。

 二階だけでは間に合わず、次々と寝るところを増やして多い時は定員十八名の時もあった。元々、無料低額宿泊所は生活困窮者の就労支援を目的としているので、他の宿泊所は昼飯を出さない。自分のことは自分でやる。

だから施設長が一人というのが、普通であった。

 ぽたらかでは働く上でも住所不定では不利なのでできるだけ、住所を設定させる。すると必然的にここが宿泊所ではなくて、アパートのような扱いになる。だから、在宅介護サービスも受けられるようになった。

 しかし、前の住所もわからない、戸籍も覚えていないような人に住民票は与えにくい。そういう場合は区役所を住所地とする奥の手があるらしい。介護保険証にはそれとわかる番号がある。

 介護認定結果がでるまでには、早くて一ヶ月はかかる。排泄、更衣、移動全介助の人でもヘルパーが来てくれるようになるまで一ヶ月はかかるわけである。その間は我々がやる。

 ヘルパーが入る前に他の施設に入ることもあれば、介護事業所は手を出せない。そういうのに限って、ものすごいのが入寮してくる。

 特に年末年始は病院も役所も休みなわけで、騒ぐ暴れる、放尿脱糞、そういうのを一人二人は必ず面倒を見させられる羽目になる。それでもそれなりに落ち着いたかという頃になってほかの施設にいく。それが恒例だった。

 最初の頃は年寄りといえば佐藤のじいちゃんだけだった。二階は十二畳の広間があって、大きい炬燵があった。佐藤さんはうちに来たとき、「やあ、畳の上で寝れるんだ。柔らかい布団で寝れるんだ。ええなあ。」と布団をなでなでしていたくせに、吉田さんが寝起きが辛くてベッドを入れたら、「わしもベッドにしてくんろ。」とふくれた。喉元過ぎれば熱さ忘れるとはこういうことだ。

 その佐藤のじいちゃんが迷子になったときがあって、交番に届けて行き違いになってはいけないから、必ずこの交番にまた集まろうということにして、みんなで手分けをして探し歩いた。そして、再びその交番に立ち寄ったら、佐藤さんがちょこんと座っている。みんなも集まってきた。佐藤さんはよほど心細かったのが、みんなの顔を見て泣き出した。その時、名前と生年月日を届けたら、後になってじいちゃんの家族が捜索願を出していることがわかった。

 じいちゃんは帰るのを嫌がっていた。なんでも息子の嫁さんが意地悪をするという。でも、捜索願まで出して探してくれてるんだからとみんなで説得して帰るようにした。 

 でも、じいちゃんはその後もまた飛び出して新宿にいたらしい。

 あの時、「先生はもう帰って。後はじいちゃんを連れて帰って寝かせるから。」とみんなで仲良く手をつないで夕闇の中を帰る後ろ姿を未だに思い出す。家族ってこういうのかも。

 そんな頃、八反田さんという人がいた。山谷対策でホームレスを対象にホームヘルパー二級養成講座が開催され、最後まで受講する人も少なく、資格をとっても就職する人もない中で、彼だけはやる気はあるんだけれど雇用してくれる事業所がないということで頼まれたのだ。柴山さんによく似ているので、まさかという予感は当たった。酒に酔って万引きする癖まで似ていた。

 柴山さんの時とは違って酒の失敗は三回までは許すことにしたが、さすがに三回目は叩き出した。しかし、なかなか出ていこうとしないのでパトカーを呼んで「どこか遠いところに捨ててきてください。」と頼んだが、彼もようやくもう許してもらえないと悟ったらしく、観念してパトカーに乗った。しかし、警察は管轄外に放置するわけには行かず、近くの橋の下で降ろされたらしく、彼は見知らぬマンションに入り込んで住居不法侵入で今度はあっけなく御用。余罪もあってしばらく音信不通となった。

 それから風の便りで彼は隅田川沿いのベンチに座って、誰彼となくぽたらかに帰りたい、でも帰れないよなあと愚痴っていたそうだ。こちらから連絡がとれないので帰りなと伝えられないのがもどかしい。

 ぽたらかは来るものは拒まず去る者は追わずをモットーとしている。失踪したり、追い出したり、それでも帰ってくれば、どこに行ってたかなんて聞きもしない。いつでも「お帰り。」だけである。

 最初のうちは黙っていなくなったり、人のお金を使い込んだり、裏切られたらその度にくよくよしていた。お金の工面もあって夜も眠れないこともあった。しかし、ある時悟った。こいつらこういうものなんだって。

騙されたり裏切られたりみんなのお金を金庫ごと持って行かれたって、自分に自惚れはなかったか、隙はなかったかって考えたら、くよくよする方がおこがましいと思えるようになった。引いてみるとけっこう楽しい。

福祉をやっている人間は自分が立派なことをやっていると思っている鼻持ちならない人が多い。いくら面倒を見てあげても裏切られたり、騙されたらそりゃ腹も立つ。しかし腹も立って仕返しを考えているときもこれで楽しいものである。

 金庫まるごと持って行ったのは、まだ若い子だった。

山谷(日雇いの街)無料診療所で相談したら、うちを紹介されたといってやってきた。着の身着のままだった。親に捨てられ育ててくれたのが、たまたまヤクザだったと聞いた。誕生日に名前入りの手作りの誕生ケーキを作り、夜勤明けに炬燵でうたた寝している彼の前にご馳走を並べて、起きたら吃驚させようとみんなで待っていた。

 目が覚めて「まじっすか、おれ誕生日祝ってもらったの生まれて初めてっすよ。まじっすか。」あまりの喜びようにこっちが吃驚してしまった。

 もっと彼にふさわしい仕事があればこういう別れでなくてもよかったかもしれない。

 数年後、彼とぽたらかの近くですれ違ったことがあった。随分見た目が変わっていたが、私の姿を見たら、慌てて顔を隠したのでそうではないかなと思う。

 入寮者もスタッフもぼろぼろになって来るところが、ここぽたらか。外はまさに戦場である。

 最初の頃は元ホームレスが圧倒的だった。やがて、アパート生活をしていて独り住まいができなくなり、特養は入居待ちがいっぱいという現実で無料低額宿泊所へという人が増えた。共通して言えることは結婚したことがあっても別れたかで家族がない。あるいは経済的な理由から結婚したことがない。また、配偶者と死に別れて子供がない、捨てられた、要するに身寄りがないということ。

 違う点はホームレスの中には借金の連帯保証人になっている人が多かった点か。自分の借金なら自己破産することもできるが、借金している本人の行方がわからないので、逃げ通すより仕方がないという人が多かった。

 どちらにしても、生活保護なり他人の世話になるのはいやという人が殆どだった。それは生活保護制度の性格によるものが大きいと思う。住居に困っていれば住居に、医療費に困っていれば医療費に食費は地元の商店の買い物券にとみんな現物支給にして、もっと気軽に活用できる制度になれば国や地方自治体の予算をこんなに圧迫することもないだろうにと思うのだが。

 墨田区福祉課のケースワーカーの仕事は過重である。他の区だっていくらホームレスの少ない区でもいないことはない。ところが、保護課にいったら五百円を渡されて墨田区に行けと言われたとその五百円玉を見せてくれたホームレスがいた。これは事実である。

 ただでさえ、生活保護受給者の多い墨田区なのに他から越境して来られたらたまったものじゃない。墨田区だと一人のケースワーカーは平均百人を担当する。だから、夜の七時半にバスに乗ったら、知っているワーカーに出会った。「大変ですね、今までお仕事ですか。」と声をかけると「いえ、これから訪問です。」えーっ、給料低いのに。

ホームレス支援団体には責められ、やくざの保護受給者には暴力をふるわれ、上からは不正受給を認めるなとうるさくいわれ、私だったらとっくに穴をまくっている。私みたいに「じゃてめえやってみろ!」ってどなりまくってみたいだろうなあ、可愛そうだ。