刈り取りの法則 | バイブル・カフェ

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ハレルヤカフェのアキラの信仰生活から
神様への愛と喜びと感謝に
溢れる日々の学びや気付きを書きます。
読んでくれた方の希望や励ましになれば嬉しいです。

2015年 6月 25 日 ハレルヤ!
愛するあなたへ! 今日も命が与えられ、一日が与えられました。全てを私たちの神である主に感謝して、いつも喜んで、絶えず祈り、主と共に歩みましょう!


『神の激しい愛』素晴らしい証しです。祈りによって最悪の街が変えられ犯罪が無くなっていく奇跡がイエス様によって起こっています。ぜひ観てください。
http://www.youtube.com/watch?v=Dm72AgSlmls&sns=em


今日の聖書箇所はエゼキエル書43とコリント人への手紙第二9章です。共にデボーションしましょう。


☆今日のみことば☆

「農夫にまく種を与え、そのあとに、食べるための収穫物をふんだんに与えてくださる神様は、あなたがたにも、まく種をもっとたくさん下さり、それをふやしてくださいます。 すると、あなたがたはその収穫の実をもっともっとたくさん、人に与えることができるのです。」
‭‭コリント人への第二の手紙‬ ‭9:10‬ ‭JLB‬‬
http://bible.com/83/2co.9.10.jlb


☆コラム☆
昨日と同じく、捧げる者への祝福が書かれています。
献金の事です。
新しくイエス様を受け入れ聖書の学びをしている人もいるので、この献金の勧めは書く方も信仰がいります。

しかし、聖書に書かれている真理はちゃんと伝えなくてはなりませんので、信仰持って言います。

豊かに蒔く者は豊かに刈り取ります!
神は喜んで与える人を愛してくださいます!
捧げるものさえ、神様からの贈り物です。



『神様は、必要なものは何でもあり余るほど与えて、不足がないようにしてくださいます。 それで、必要が満たされたあと、なお十分な余裕があるので、他の人々に喜んで分けることができるのです。 聖書にこう書いてあるとおりです。 「神を敬う人は、貧しい人々に惜しみなく与える。 その良い行ないは、永遠に名誉となる。」』 (‭コリント人への第二の手紙‬ ‭9‬:‭8-9‬ JLB)


『そうです。 神様からたっぷりいただいたあなたがたは、人にもたくさん贈ることができるのです。 そして、私たちが、その贈り物を必要としている人々に届ける時、そこには感謝が満ちあふれ、あなたがたの援助のゆえに神様への賛美がわき上がるのです。 そういうわけで、その贈り物は、二つのすばらしい結果を生み出します。 すなわち、困っている人々が助けられること、そして、彼らの神様に対する感謝の念が満ちあふれることです。』 (‭コリント人への第二の手紙‬ ‭9‬:‭11-12‬ JLB)


祈り…主よ、私達が持ってるものの多い、少ないではなくて、全てが主から与えられたものである事を感謝します。それを心で決めた通りに喜んで捧げる事ができますように。そのことにより、みことばが約束している通りに、この奉仕の技により、私達があらゆる点で豊かになって必要を満たし、神への感謝が満ち溢れることを宣言します。アーメン



あなたの上に主の豊かな恵みと平安が今日もありますように ☆あきら☆



しゅんさん版『刈り取りの法則』
■S:今日の聖書の言葉
コリント人への手紙 第二 9章7節
★ 私はこう考えます。 少しだけ蒔く者は、 少しだけ刈り取り、 豊かに蒔く者は、 豊かに刈り取ります。
■O:今日のコラム
今日のみことばにはシンプルな法則が書かれています。 少しだけ蒔く者は、 少しだけ刈り取り、 豊かに蒔く者は、 豊かに刈り取るということです。アタリマエのことですね。たくさんの収穫を得たいと期待するなら、その分たくさん種をまく必要があります。種も蒔かずに多くの収穫を期待するのは少しおかしく思えます。
しかし、ここで重要なのはどういった種を蒔くかということです。朝顔の種を蒔いて、「ああ、はやくメロンが実らないかな!?」と言う人がいたら、その人に「それだったらメロンの種を蒔く必要がありますよ!」と言うでしょう。
パウロはここで、奉仕という種を蒔くことをすすめています。その種はどういった動機から巻かれる必要があるかが、7節に書かれています。
「ひとりひとり、 いやいやながらでなく、 強いられてでもなく、 心で決めたとおりにしなさい。 神は喜んで与える人を愛してくださいます。」
ここでは、具体的にどれくらいの種を蒔けばいいとは語られていません。それは一人ひとりちがうのです。ある人は5タラント、ある人は3タラント、またある人は1タラント蒔く力を持っているかもしれません。どのような人でも、心に決めたとおりに蒔くのでいいのです。
しかし、心の姿勢は明確に書かれています。いやいや蒔くのでもなく、強制的に蒔くのでもないのです。必要なのは自発性です。いやいやの種を蒔くなら、いやいやの実を刈り取るでしょう。強制的な種を蒔くなら、強制的な実を刈り取ることになるのです。
パウロは奉仕を通して、悪い実を刈り取ることが無いよう、愛を持ってこのように書いているのではないかと思います。ですから、私たちは人々に仕える時には良い心の態度を持って仕えるようにしたいものです。もし動機が不純なものであれば、必ずその実を刈り取ることになります。
もし、「自分には奉仕をすることができない」と思う人がいたら、主に願ってみましょう。主は求めるものには与え、探すものに見つけ出させ、叩くものには開かれるお方です。8節に書かれているとおりです。
「神は、 あなたがたを、 常にすべてのことに満ち足りて、 すべての良いわざにあふれる者とするために、 あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。」
もし、わずかしか種を持っていないと思う人がいたら、その種を持ったままにしてはいけません。わずかでもそれを蒔く必要があります。種は蒔けば芽を出し、多くの実を実らせるのです。そして、多くの収穫を得ます。その多くの収穫の種をまた蒔くことで、さらに増え広がっていきます。それが収穫の法則です。10節にこう書かれています。
「蒔く人に種と食べるパンを備えてくださる方は、 あなたがたにも蒔く種を備え、 それをふやし、 あなたがたの義の実を増し加えてくださいます。」
では、なぜ種をまく必要があるのでしょうか。私たちが満足するためでしょうか。その目的は自分の必要を超えたところにあります。11節を見てみましょう。
「あなたがたは、 あらゆる点で豊かになって、 惜しみなく与えるようになり、 それが私たちを通して、 神への感謝を生み出すのです。」
たとえ僅かであっても奉仕という種を蒔くことで、私たちがあらゆる点で豊かになることが出来るだけでなく、人々に惜しみなく与えるようになって、さらには私たちを通して、神様への感謝を生み出すことが出来るというのです。まとめると、奉仕の種は神への感謝を生み出します。12節にはこのように書かれています。
「なぜなら、 この奉仕のわざは、 聖徒たちの必要を十分に満たすばかりでなく、 神への多くの感謝を通して、 満ちあふれるようになるからです。」
奉仕の種を蒔くなら、私たちも満たされ、神の家族も満たされます。これが真の奉仕です。よろこんで自分に出来る範囲で奉仕の種を蒔いていきましょう。豊かに蒔くものは豊かに刈り取ることが出来ます。
■A:考えてみよう
自分にできる奉仕は何だろうか?それは喜んで与えることができるものだろうか?
もし、自分の力で働きを進めていくのなら、いつかは疲れてしまいます。神様に愛されたいから奉仕をするのであれば、それは奴隷と主人の関係です。そうではなく、私たちは主から愛されてるから感謝があふれて奉仕をしたくなるのです。これは友の関係です。主に喜ばれ、また自分を、そして神の家族を満たす奉仕をするためにも、ますます主を慕い求めていきましょう。
■P:祈り
イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。アーメン。
【しゅん】


■■ God Bless You !!! ■■

今日も皆様の祝福を心からお祈りしています。