海外のミュージカルのコピーをやるよりも、レビューやショーの方が、
洋服でも、和服でも、洋楽でも、邦楽でも、
日本、日本文化、日本女性の魅力を情報発信しやすい。
オペラを宝塚歌劇団でやるのは無理だが、
ムーランルージュなどで行われているショーやレビューであれば、
宝塚歌劇団でも上演可能と判断したのだろう。
ムーランルージュ パリ
パリのムーランルージュなどから、宝塚歌劇団の白井先生が学び、
日本でショーやレビューが行われるようになりました。
小林一三先生は、宝塚歌劇団、日本劇場ダンシングチーム、日劇ミュージックホールに関わっていました。
東宝は東京宝塚劇場が元になっています。
宝塚歌劇団は阪急の経営です。
阪急と東宝との関係は、昔ほどはないように思われます。
小林先生のご長男は大阪ではなく、東京で活躍していました。
小林一三先生は丸尾長顕(「歌劇」編集者)に日劇ミュージックホールをやらせていました。
日劇小劇場時代はストリップでしたが、小林一三先生は裸をやめさせたが、観客がまったく入らず大赤字でした。
丸尾長顕は人気ストリッパーをスカウトして、ヌードショーを行い、大人気になりました。
「日劇ミュージックホール」は、小林一三先生、文化人など、
社会の名士立ちが、堂堂と鑑賞していました。
超有名な作家は、ひいきの踊り子に会うために、楽屋まで入れたようです。
長尾長顕の著書に写真が掲載されています。
「日劇ミュージックホール」は小林一三先生の一部分であり、
女性の裸の許容範囲は、ストリップはダメだが、
トップレスで踊るのはかまわないということでした。
業界人も見に来ていて、人気のある踊り子を、映画に出演させました。
小林先生は、宝塚歌劇団の基本方針は、日本の伝統文化の継承であり、
「清く、正しく、美しく」のもとに、
日本舞踊や日本のオリジナルの物語を演じて、
欧米のショー、レビュー、ミュージカルも演じることでした。
「宝塚歌劇団」で無理な衣装や演出は、「日劇ミュージックホール」でやりました。
日劇解体後、「日劇ミュージックホール」は旧「東京宝塚劇場」の上で営業していました。
男性は「日劇ミュージックホール」、女性は「東京宝塚劇場」で観劇しました。
東京宝塚劇場が建て替えられるときに、
「日劇ミュージックホール」は客はかなり入っていたのですが、
営業を終了しました。
白井 鐵造(しらい てつぞう、1900年4月6日 - 1983年12月22日)は、宝塚歌劇団の演出家。宝塚歌劇団元理事長。
レヴューの王様と謳われ[1]、宝塚レビューを形成した第一人者である。
1928年、宝塚歌劇団創始者小林の命によりレビューの本場パリへ渡欧。
本場のレビューに圧倒された白井は約2年間の修業を積み、
1930年、帰国後第1作に『パリゼット』を発表。
全20場・上演時間1時間半の大作であり、ダチョウの羽を使った羽根扇、タップダンス、それまでは白塗りだった舞台メイクがドーランになり、足を高く挙げる振付のラインダンス[2]などが日本初登場した。
また、この作品の主題歌で白井が作詞を担当した「すみれの花咲く頃」「おお宝塚」などの現在まで歌い継がれている愛唱歌も誕生した。
その後再度渡欧し、『ローズ・パリ』『サルタンバンク』『ブーケ・ダムール』『ラ・ロマンス』『花詩集』などの大ヒット作品を次々に発表。
また、宝塚初の一本立て作品『虞美人』や、『源氏物語』などの著名な作品も残している。
1941年には秦豊吉と東宝国民劇を創始した[3]。