8/1(木)灼熱の京都―汗と渇きのぶらり旅 2日目〜その4~ | ちいたろうのお出かけ日記

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 ロームシアター京都は、劇場版「響け!ユーフォニアム」で関西大会の会場として登場するようです。はからずも聖地巡礼となってしまいましたが、いよいよこの旅の本番。NIE京都大会が始まります。


 会場に来ているのは、やはり学校の先生ばかり。それから、新聞社の方や一部の新聞マニアもいます。そして会場の一角には、さすが日本新聞協会の主催、今日の朝刊が各紙山盛りになっていました。紙の新聞がこんなふうに積まれているのを久しぶりに見ます。若い頃、新聞を配っていたときには当たり前の光景でしたが、今となっては懐かしい記憶です。
 開会の前に、13:00から歓迎公演として、ステージで六斎念仏踊りが披露されました。京都中堂寺六斎会・京都市立光徳小学校児童と書いてあったので光徳小学校のサイトを見てみると、この学校には「光徳子ども六斎クラブ」というのがあり、今日来ているのはこのクラブの子どもたちでしょう。また、この学校では4年生の総合的な学習の時間で六斎念仏踊りについて学習するのだそうです。
 踊りでは、音程の異なる4つの太鼓を叩きます。しかも、両手にばちを持っているのに、叩くのは片手だけ。
「反対の手は使わないのかな」
と思っていると、ちゃんと後からリズムも複雑になり、場合によっては、2つの太鼓を別の子が持って6つの太鼓を叩く子もいました。
 こういった時、体の使い方の上手な子はすぐにわかります。体の動きが周りと全然違うのです。私が見つけた子は、膝の使い方がとびきりうまい。踊りとか演奏とか、そういったことは練習次第でうまくなります。けれども、こんな風に元々身につけているものがある子もいます。
 また公演後、児童のインタビューがありました。そのうちの5年生の女の子のひと言がすごい。この念仏踊りについて、
「何事も楽しまないと続かないと思っている」
と話していたのです。体の使い方もそうですが、語る言葉や考え方にも、「この人はすごい」と思わせる人がいます。それは、大人も子どもも関係ありません。
 それと比較するわけではないのですが、張り紙でもアナウンスでも「撮影はご遠慮ください」と言われているにもかかわらず、カメラを向ける参加者の姿があちこちで見られました。
「おいおい、あなたたち『先生』じゃないんかーい」
とツッコミたくなりましたが、その人たちは先ほどの子どもたちのように一流ではなく、ただの普通の人たちだったのでしょう(意見には個人差があります)。
 13:30からの開会式では、日本新聞協会会長をはじめ、京都府、京都市の教育長のあいさつが続きます。中でもさすがだと思ったのは、主管社である京都新聞社社長のあいさつです。その一部を要約すれば、「今の子どもたちは、自分好みの心地よい情報に触れている。新聞で多様な意見や自分とは異なる考え方に出会うことが健全な民主主義につながる」と言っていました。
 新聞とは、ただの情報伝達手段ではありません。新聞というメディアがきちんと機能しない社会は、民主主義という観点からいえばかなり危険であると言わざるを得ないのです。それは他の国の話ではなく、日本にもかつてそういう時代がありました。新聞がきちんと機能しているかどうかは、現在の社会の状況を客観的に判断するひとつの指標になるはずです。
「新聞の面白さってここだよなぁ」
と、ひとりそんなことを思うのでした。
 基調講演は国際日本文化研究センター教授の磯田 道史氏で、演題は「刷り物の字が教えた日本」とあります。ところが、この導入にあたる京都の歴史についての話が長いのなんの。平安遷都から振り返り、江戸時代になってようやく刷り物の話に入って来たのですが、この京都の話の方が、私にはとても面白かったのでした。
 講演の中で、話題はAIについても及びました。AIは目的とルールが決まったものに強く、それがないものに弱いということから、「人工知能の裏をかく賢さを子どもたちに身につけさせたい」というのです。
 目標を立てるとか、頑張るといったことは、人間よりもAIの方が得意です。向こうは24時間年中無休でデータを集積し、学習しているのですから、人間が勝てるわけがありません。また、文字やデータを理解するのは、AIの方が得意かもしれない分野です。何が書かれているか、情報を分析するだけならば、AIの方が人間より速いにきまっています。
 しかし、AIは思考をしません。思考力はどこから来るのかといえば、文字やデータだけではないと言います。文字やデータを自分なりに受け止め、思考していくためには、教養が必要だというのです。
 氏によれば、教養とは体験してそれを忘れた状態だと言います。つまり、無意識の状態だというのです。
 確かに、「この人はすごい」と思わせる人は、それまでに身につけたものが豊かな人です。最初の踊りの女の子たちも、生まれてから10年ほどの間にそれを身につけたからこそ、すごいと思わせる体の動きができたり、踊りの中で人生訓のようなことを見つけられたりするのでしょう。
 そして、講演の中ではところどころに社会に対する風刺がありました。その毒が心地よいと思っていたのですが、講演の終わりでしっかりクギを刺すことも忘れません。演題が刷り物についてなのに、「文字によらない知識の伝達というのも考えていく必要がある」と言うのです。
「ここにいる人たちは大学などを出ていて、文字を通して知識を得ることが得意だった人たちです」
学校の先生というのはそういう人たちでしょう。しかし、すべての人がそうではありません。実際、学校に適応できない子どもたちが問題になっています。彼らに必要なことは何か。それは、文字によって何かを習得することだけではないはずです。
 氏は講演の中で、体験が大切だということを何度も話していました。学ぶことは、自分の体験に裏付けされることによって自分のものになるのだと言います。
 それは、幼稚園に勤めていた時のことを思い出すと、納得できることばかりです。例えば、大人になれば、「前へならえ」と手を上げなくたって、前の人の後ろに並ぶことができる。一つずつ数えなくたって大体いくつあるかを想像できるし、実際にケンカをしなくても相手の気持ちを思いやることができるようになる。でも、それができるようになるには、やはり体験は必要なのでしょう。まさに、ロバート・フルガムの有名な著書、「人生に必要な知恵はすべて幼稚園の砂場で学んだ」の通りなのだと思うのでした。