【タイトル】
陽のあたる場所(原題:A Place in the Sun)
【概要】
1951年のアメリカ映画
上映時間は122分
【あらすじ】
貧しい母子家庭で育ったジョージは伯父チャールズの誘いで彼の工場に勤務することになる。社内恋愛を禁止されていたジョージだったが、偶然映画館で会った同じ職場のアリスと仲良くなるが…。
【スタッフ】
監督はジョージ・スティーヴンス
音楽はフランツ・ワックスマン
撮影はウィリアム・C・メラー
【キャスト】
モンゴメリー・クリフト(ジョージ・イーストマン)
エリザベス・テイラー(アンジェラ)
シェリー・ウィンタース(アリス)
レイモンド・バー(マーロウ検事)
【感想】
セオドア・ドライサーの「アメリカの悲劇」の二度目の映画化。アカデミー賞では作品賞含む9部門でノミネートされ、監督賞など6部門で受賞した(作品賞は「巴里のアメリカ人(1951)」)。また、本作の撮影は1949年だったが、パラマウント映画は「サンセット大通り(1950)」との競合を避けるために本作の公開を1951年まで待つことにした。これが結果的に多くの撮影素材を編集する時間に充てることができたとジョージ・スティーヴンス監督は語っている。
主人公のジョージにとって最初の「幸運」であり「不運」なのは伯父チャールズから仕事を紹介してもらえたことだろう。貧しい母子家庭に育ったジョージにとって就職先の選択肢があれもこれもあるとは思えない。そんな中、工場を経営している伯父のチャールズから仕事を紹介してもらえる。別にジョージから積極的にお願いしたわけではない。これは「幸運」であるのだが、ジョージが努力して得たわけではないのでその必要な努力や経験を積めなかったことになるのでその意味では「不運」だったのだろう。機会に恵まれないことは決して悪いことではないのかもしれないと本作のジョージを見て思う。また、本作はヒッチハイクする場面から始まる。自分の足では行かないが、他人の力を借りようとする努力はする。この感じは伯父のチャールズから仕事を紹介してもらうところとも重なる。
それから、禁止された社内恋愛にあっさり手を出してしまうジョージ。母親の熱心な宗教活動により「自分を抑える」ことが当たり前になっていたのだと想像することができる。だからこそ、社内恋愛は禁止と言われたのに社内恋愛にあっさりと手を出し、またその女性と関係を持ちながらも他の女性とも関係を持ってしまう。ここに苦労がなかったのもジョージにとっては不運だったかもしれない。ここで思いを寄せる女性とうまくいかなかったり、社内恋愛に発展してもバレて頓挫したりした方がジョージにとっては成長できる機会になったと思うが、女性ばかりの職場で男前のジョージは「選ばれた」のだろう。
おそらくジョージは自分の母親に母性など感じておらずどこか父性的なものを感じていたのではないだろうか。死刑執行が決まったジョージのもとを訪れた母親は息子が殺人を犯したことで怒ったり、死刑執行により死んでしまうことで悲しんだりするわけではない。感情的ではなく、理性的であり、ここでも宗教的な考えで自分の気持ちをコントロールし、他人が苦しんでいる時に掛ける言葉と同じような言葉を息子にも掛けているような感じがして、どうも血の通った親子関係というふうには感じない。唯一血の繋がった親子である二人故の距離感。
だからこそ、少し気の強いアリスと付き合っていたのだろうと思えるし、かと思えば気の強いアリスにはない優しさを持ったアンジェラを好きになったのかもしれない。車で疲れて彼女に体を預けるジョージはまるでアンジェラの子どものよう。このジョージ故にアリスとアンジェラという対極の二人を好きになったのはどこか頷けるところがある。
にしてもアンジェラはジョージに対して優しすぎないか。たとえジョージが二股をかけていようと、アリスという別の女性を殺したかもしれないという疑いをかけられようと、ジョージへのアンジェラの愛は不変である。死刑執行の直前にもアンジェラはジョージに会いに来る。「私たち、さよならを言うために出会ったのね」と言うが、そこまで惚れていたのか。自分の愛する男性が二股をかけていて、その相手を殺した疑いを持たれ、裁判では死刑判決を下されてしまった。アンジェラがジョージをそこまで思う気持ちは理解できなかったと思いつつ、母なる存在でもあるアンジェラが子供を必死に守ろうとする姿と考えれば合点がいく。
ラストは主人公が処刑される直前である。本作全体から漂う雰囲気は後のニューシネマ期のそれである。特にジョージが水難事故のラジオニュースを聞く場面。ジョージはそのニュースを聞いているところを他の誰かに見られまいとしてかドアを閉める。この一連の場面ではジョージの顔に照明が当たることはなく黒く潰れており、今後の事故を予感させるものがある。
この場面にしても他の場面にしてもジョージは素直なのだ(もちろん嘘を付くこともあるが)。自分に能力があるとも思っていないし、そのことを正直に認めてチャールズにもその思いを吐露しているし、また会社内で工夫すべき点は計画書としてチャールズに提出までしている。また、同時に二人の女性を好きになればどっちにも手を出している(褒められたことではないが、上述のように彼の境遇を考えると理解できなくもない)。
素直ではあるが向こう見ずでもあった。日に日に独占欲の強くなるアリスに圧倒されてしまったジョージはラジオから流れてきた水難事故のニュースを聞いてアリスを湖に誘うことになる。映画内の描写だけ見ればジョージはアリスを殺していないので死刑になるのはおかしい。救護義務を怠ったとは言えるのでせいぜい執行猶予付きの有罪判決がいいところだろう。ただ、裁判でも思ったことを正直に話してしまったことで陪審員が向けていた疑問の目線も革新に変わってしまったのだろう(本作では陪審員にあまりフォーカスはされていないので何とも言えないが)。
結局はどう思われるか。ジョージは周囲から自分がどう思われるのかに全く興味がないのだろう。おそらく見てくれの良さも理解していないのではないかとさえ思う。そして、裁判でも何を証言したらどう思われるかなんてお構いなしに思ったことを正直に話している。そして最後までそれが間違いだったことに気付けていない。正直さは大切だが時にそれが大切な人を傷つけ、そして自分までも追い詰めてしまうことになるのだ。
日本では旧統一教会の問題が取り上げられて久しいが、親が子を選べないように子も親を選べない。親が熱心な宗教家だった場合、それを変えることはできない。ジョージも知らぬ間に宗教活動の一端を担わされていたことだろう。そしてある日それがおかしいことに気付いた。でも母親が熱心な宗教家であるという事実は変えられないし、おそらくジョージが努力したって母親を変えることもできないだろう。そんな現実にぶち当たったジョージだからこそどこか無気力な人間になってしまったのだと思う。
また、母親のもとを離れたことでようやく彼は自由を得た。その反動はあまりにも大きかった。父の不在を母が埋めていたであろう貧しかった幼少時代。母親のもとを離れると今度は一度に二人の女性を手にしてしまう。まるで父なる厳しいアリスと母なる優しいアンジェラ。結局、ジョージにとって邪魔になってしまうのは母親に似た性格ともいえるアリスである。母親のもとを離れることで自由を得たジョージは、アリスだって何とかなると思っていたのかもしれない。ところが、アリスは一向に引き下がるどころか敵陣まで乗り込もうとしている。困ったジョージはアンジェラとつい先日デートした場所をアリスの最期の場所に選んでしまう。知った場所の方が都合が良かったのだろうが、これが却って致命傷になってしまう。
【関連作品】
「アメリカの悲劇(1931)」…セオドア・ドライサーの小説「アメリカの悲劇」の一度目の映画化
「陽の当たる場所(1951)」…セオドア・ドライサーの小説「アメリカの悲劇」の二度目の映画化。
「卒業(1967)」…本作はマイク・ニコルズ監督のお気に入りの映画であり、彼の「卒業(1967)」に大きな影響を与えたと語っている。
取り上げた作品の一覧はこちら
【配信関連】
<Amazon Prime Video>
言語
├オリジナル(英語)
<Amazon Prime Video>
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├日本語吹き替え
【ソフト関連】
<DVD>
言語
├オリジナル(英語)
├日本語吹き替え
音声特典
├ジョージ・スティーヴンス・Jr(監督の息子)とアイヴァン・モファット(製作)による音声解説
映像特典
├ジョージ・スティーヴンスと彼の「陽のあたる場所」
├ジョージ・スティーヴンスの素顔
├オリジナル劇場用予告編