「キンポコ」についてギンギン、ではなくガンガン解説していくシリーズも、いよいよ後半戦に突入です!今回は少し短めですが、あのボイン姉が本領発揮するシーンについて解説します。私がこの映画を観ていて最も恐怖を感じたシーンの1つです。

 

 

*以下ネタバレです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

マックが倒された後、一家団欒で食事をとっていた野原一家に玄関のベルが。しんのすけが慌てて向かうと、あのプリリンが現れます。初っ端からメロメロのしんのすけがリビングに招き入れると、なんとそこには、ピタリとその場で止まった家族の姿がありました。プリリンは自らのア法を用いてその罪をマタになすりつけるために、しんのすけにマタが悪者であることを吹き込みます。またもや騙されたしんのすけは駆けつけたマタを敵扱いしてしまい、プリリンのどエロい封印の呪文に乗じてマタを一枚の下敷きにしてしまいました。すべてが片付いた後、プリリンはしんのすけにご褒美としてこれまたどエロいぱふぱふをプレゼンして去っていきます.....

 

 

ここでも、ハニートラップにかかってしまうおバカなしんのすけが描かれていますが、実は中国共産党批判の別のメタファーが隠されていたのです。

 

この映画を何度も視聴されている方の中で、マタがなぜ下敷きに変えられたのか、考えたことのある方はどのくらいいるのでしょうか。「何かに下敷きにされた」という一種の駄洒落だと感じた方も多いかもしれません。しかし、この「下敷き」を、中国のタブーである天安門事件の風刺に結び付けた方はほとんどいないでしょう。

このシーンを中国のメタファーとしてもう一度考え直してみます。構図としては、独裁者側のプリリンが、反逆者のマタを封印する、簡単に言えばそうなりますね。この「封印」を、「鎮圧」という言葉として受け取るならば、独裁体制の刺客が反逆者のデモ活動を鎮圧しに来た、というニュアンスに繋がるのではないでしょうか。実際の天安門事件では戦車が出動し、関連するドキュメンタリーでは、当時戦車に轢かれて大けがを負った中国人が、四肢が不完全の姿で取材に応じているのを見かけたことがあるかもしれません。マタが「下敷き」になったのは、まさにその隠喩であると考えられるのです。それを踏まえた上で、この後のシーンにおいてしんのすけがみさえにマタの所在を聞かれた時の、「下敷きになってどっか行っちゃった。」という台詞を聞くと、本郷監督の巧妙な表現に思わず総毛立ってしまうのも無理はありません。

 

 

 

今回は、理由付けにやや無理があるかもしれませんが、見方を変えれば怖い話として紹介しました。まさか国民的なファミリー向けアニメが、中国におけるタブーをブラックジョークで表現しているとは思わないでしょう。疑問に思う方は、「一体何の下敷きになったのか」を少し考えてみれば、他に思いもよらない答えが見つかるかもしれません。

 

次回は、その2、その3と散々引き延ばされてきた、あの日常のシーンについて、対比を用いて説明していきます。今まで尺の無駄だと思われてきた場面に、実は意味があったことを理解していただけると思いますのでよしなに。

 

「キンポコ」をとことん掘り下げていく(意味深)シリーズ4つ目です。

ここでは、あの変態野郎との戦闘に加え、本作の人気キャラ「マタ」の知られざる重要性についてダラダラと書いていきます。

 

 

*以下ネタバレです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

扉が開かれ、ついに地球人に触れることが可能となったダークの陣営はしんのすけの身柄確保を目的に行動を開始します。

夜中、野原家の寝室に侵入したマックは、ア法を用いてしんのすけに近づき、捕えようと迫ってきました。そこへ駆けつけたマタがしんのすけを連れて逃げようとするも、寸でのところでマックの術「ヘンジル」によってマックの作った空間に閉じ込められてしまいます。そこで、マタもヘンジルを利用して戦闘機「しん電」となって逃れようとしますが、対するマック達も戦闘機となって2人に襲い掛かります。マック機率いる複数の敵機に苦戦しながらも、2人はマタ(しん電)の機動性を利用し、見事勝利を収めました。

 

 

この時のしん電のモチーフは、本作品のwikiに掲載されているように、旧日本軍の戦闘機「震電」ですが、ドン・クラーイが中国を模したものであると考えると、このモチーフの採用には俄然納得がいくのではないでしょうか。敵の雑魚機には、「爆走〇〇」といった具合に赤色で漢字が記されています。筆者も以前までは、なぜ漢字が書かれているのか理解ができませんでしたが、今はなんとなく、中国を表すためのものであったと理解できます。今の穢れた私にとって、この空中戦のシーンは少々長すぎて退屈でしたが、当時この映画を繰り返し観ていた、ピュアなちびっ子の私からしてみれば十分に満足できる、迫力のあるシーンだったなと感じている次第です。

(*マックが部屋に登場したシーンのbgm は、4作目のbgm のアレンジとなっています。かっこいい。)

 

 

マックとの死闘を乗り越え、一息つくしんのすけに、戦いは始まったばかりと告げるマタ。それでもしんのすけを守ると誓うマタに親近感を覚えたしんのすけが、マタの胸を叩いたとき、マタが男性ではなく、女性であることが判明するところでそのシーンは終了します。

さらにその翌日の夜には、マタが電柱の上で挿入歌「小さな鳥の見る夢は」(作詞:本郷みつる、作曲:若草恵、歌:堀江由衣)を歌いました。

 

 

 

 

さあ、ようやくここでメインヒロインの解説に突入しましょう!「マタ」というキャラクターは一体何者なのか。その答えは、この映画のテーマの核となる中国政府、中国共産党による独裁にありました。

 

 

もし、ドン・クラーイを中共の独裁を受けた国と比喩するのであれば、マタ親子はその反逆者、つまりは民主主義と平和を唱えるデモ活動家です。その姿は、民主主義の歴史上最悪の事件の一つである天安門事件の学生運動家を思い起こさせるでしょう。マックがマタを知っていたことから、マタはダーク陣営から矛と盾を奪取する父親に少なからず協力していたと言えます。ひょっとすると父親のマタ・タビは、娘のことでダーク達から脅迫されたこともあったかもしれません。

 

そして、併せて考えていただきたいのが、なぜマタは男のふりをしているのか、ということ。3作目「雲黒斉の野望」の「吹雪丸」をモチーフとしている可能性も考えられます。しかし、この映画が中国をテーマとしていると考慮した時、マタのもう一つのモチーフについて、察しの良い方は気付いているかもしれません。そう、中国の女戦士「ムーラン」です。2019年に実写版が公開されたことは記憶に新しいですね。老いた父の娘であるムーランは、徴兵に駆り出されそうになる父の代わりに、男に扮して軍隊に参入し、鍛錬によって得た力と、男にはない知恵を駆使して隊内でも頭角を顕していく。ストーリー的にはともかく、愛する父を持つ点と、男装をしている点といった共通点から、マタのモチーフはムーランであると考えることもできるのではないでしょうか。私はどちらかと言えば吹雪丸派ですが...... 。

 

ここで、マタの服に施されたリンゴの装飾について疑問を抱いた方も多いかもしれません。中国のことが頭に入っている今であれば、Googleで調べることも容易でしょうが、リンゴは中国で「平和、安全、平安」を意味する「平安」の中国語発音の語呂合わせから、成就祈願の願掛けとして境内の木に短冊と共に吊るされたり、クリスマス・イブには「平安な夜」を表す果実としてプレゼントに用いられたりします。平和を願うマタにはぴったりの装飾です。

 

さらに、マタは平和の使者である、そう考えると、先程登場した、今作のもう一つの挿入歌「小さな鳥の見る夢は」の意味もだいたい掴めてくるのです。片方の挿入歌に意味があったのであれば、もう片方になければ不自然ですから。説明にあたり、歌詞のほとんどを引用しなければならなくなりますので、ご存知の方は歌詞を思い出しながら読んでみてください。

歌い出しはアカペラ、それまでの声から一変した女性の声です。ここで言う、「小さな鳥」とは、何を表しているのでしょうか?マタが平和を願う少女であることを想像すれば、この「鳥」から連想されるのは、日本における平和の象徴「鳩」です。小さな鳥とは鳩、平和そのもの、もしくは平和を願うマタ自身を表していると考えられるのです。

BGMが入り、歌詞は「だけど胸に希望はいっぱい 空に向かって飛び出した」とあり、中略して最後は「自分の力でそうしよう」となります。つまり、平和を願う気持ちは心の中にあふれており、それを手に入れるためには自分の力で羽ばたいていくしかない、と歌っているのです。絶大な権力の下では、マタのような市民は小さな鳥のようなか弱い存在でしかない、それでも、希望のために立ち上がらなければいけない。戦後の民主主義に馴染んできた我々日本人には実感が湧かないことかもしれませんが、これが、平和のために戦う決意をしたマタの心情なのです。

 

マタの過去や心情をあまり深く描かなかったのは、映画の尺の問題もあるかもしれませんが、この、誰でもわかる言葉で表現された短い歌からマタが何を思ってきたのかを想像することができると、制作者側も考えたからでしょう。独裁者の肩を持つマックが歌う「金、金、お金」、そして、独裁に反対し、平和を愛するマタが歌う「小さな鳥の見る夢は」、この2つの挿入歌の対比が実によく表されていますね。

 

このように、マタがドン・クラーイの平和の使者、平和のために戦う戦士であることをイメージしておくと、マタだけでなく、彼女を育て、平和のために奮起した父親、ひいてはこの映画に対する見方がガラリと変わることでしょう。

 

(*マタのデザインが暖色のオレンジ主体から寒色の水色主体に変更されたことに関しては、ネット上では男の子っぽさを出すためと言われていますが、ひょっとしたらそれに限らず、平和のために戦う戦士として清純で誠実なイメージを持たせたかったのかもしれません。帽子の色合いも、トーンを合わせた心理3原色に変更されている点に注目です。その上、髪の毛の緑色も、服の色と丁度いい具合にマッチしています。こうしたデザイン性に加え、声優の堀江由衣さんによるアフレコが、マタの人気の理由となっているのでしょう。)

 

 

以上、今作のメインヒロインに関する説明でした。彼女のモチーフについて、異論はあるかもしれませんが、中共独裁に当てはめれば、マタというキャラをより一層理解できるのではないでしょうか。

 

次回はあの母音×2なシーンです。豊満な胸に目が行き過ぎて、裏に隠された強烈な風刺を見逃さないようにしましょう。

 

「キンポコ」についてグダグダ語っていくシリーズ第3弾。今回は、本作のヴィランの一人であるお姉さんについての解説と、しんのすけの味方となるキャラクターについてのイントロをメインに進めていきます。

 

 

 

*以下ネタバレです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

変態との逃走劇から二日後の深夜、地球時間で午前1時20分頃、玄関から「しんのすけくーん」と呼ぶ声がするのを聞きつけたしんのすけが扉を開けたそこには、ボン・キュ・ボン、ダイナマイトボディのお姉さん、2番目の刺客である「プリリン」が立っていました。プリリンがしんのすけに、レンタルビデオ屋までついてきてほしいと頼むと、その美貌に魅了されたしんのすけはまんまと騙され、地球とドン・クラーイとを繋ぐ扉を開いてしまうのでした。

 

この一連のシーンにおいて、プリリンのファンタジックなデザインや、レンタルビデオ屋まで歩いていくという一見普通の設定などから、気付くことが難しいかもしれません。しかし、この映画の中核に中国政府があることを知っていれば、容易に想像がつきます。いわゆる、「ハニートラップ」です。これまで多くのスパイ作品や刑事ものなどで描かれ、実際の事例も報告されているこのハニートラップは、スパイ戦においては時に、国家にとって重大な情報を明け渡してしまうことになりかねない、恐ろしい戦術です。不朽の刑事ドラマ「相棒」のシーズン17最終話でも、研究所で開発された致死性の強い鳥インフルエンザウィルスの奪取に、他国の女スパイによるハニートラップが一役買いました。中国が他国より優位に立つための手段、その2つ目がスパイ戦、ここで描かれるハニートラップなのです。

 

ちなみに、マックやプリリンが、地球の住人にまだ触れることができないという描写がこれまでのシーンでなされていますが、これは序盤のシーンでのプリリンの台詞「今は我々も影としてしか向こうへ行けませんが」に起因します。これをメタファーとして捉えた場合、地球の世界、つまり他国の支配の活路が見出せない今は、まだ表立って行動することはできないという意味になることにお気付きいただけたでしょうか。中国による姿の見えない支配の手、サイレントインベージョンを、影や夜の闇として忠実に表現した本郷監督の想像力は、ヘンダーから12年経過した後でも健在だったのです。そもそも中国と「北の偉い人」の国の存在自体、別の惑星みたいなものですから、「地球とは別の暗黒世界」というのはあながち間違いではないのかも....

 

その後、結局眠れず用を足していたしんのすけの前に、今作の味方キャラである「マタ・タミ」が現れます。マタは、「選ばれし者」であるしんのすけを助けるため、しんのすけに、敵や、敵の使う法術「ア法(ヘンダーでいう「スゲーナスゴイデスのトランプ」)」について簡単に説明した後で、「君は僕が守ってあげる、それがパパとの約束だから」と言い残し、夜明けと共に消えてしまいます。

 

マタ親子のうち、父親の「マタ・タビ」は、アセ・ダク・ダークによる独裁からドン・クラーイを救うために伝説を利用しようと考えました。そして「金の矛」と「銀の盾」を奪い、ダークの手から逃れさせるため、命がけで地球へと武具を送った。その意志を継いだマタ・タミが、こうしてしんのすけの前に姿を現したのです。

マタは、その登場のタイミングの遅さや登場回数の少なさ、設定の深堀のなさなどから、ただデザインの良い、かわいい、かっこいいキャラとしての印象がほとんどですが、実は本作のメッセージを理解するうえで不可欠な、トッペマの代替とは言い難いほどの最重要キャラクターなのです。後程、このキャラクターについて説明するのに必要なシーンが登場するので、その時に詳しく解説します。

 

(*マタも敵も夜にしか行動できないという設定から、ヘンダーランドにおいて、悪役に呪いをかけられたトッペマが夜にしか出現できなくなるというのを連想した方も多いのでは。)

 

そのマタのシーン終了後から、物語は再び、昼間の日常のシーンへと立ち返ります。ひろしは出世の道を逃し、みさえは子育てに負われ、汚職疑惑の政治家はそれっぽい口先だけの台詞を吐くだけ。しんのすけの話は相変わらず夢だと一蹴され、お得意のケツダケ星人までも冷ややかなコメントではねのけられる始末。環境問題に経済問題、家庭問題といったネガティブなニュースは連日報道され、野原夫婦もぎくしゃく。そんな中で一人取り残されていくしんのすけの様子が描かれたシーンは、先程のシーンと同様、視聴者のストレスを煽りましたが、実はこの映画のメッセージに直結する大事な要素です。特にケツダケ星人は要注目、まじで。

夫婦喧嘩の件数まではさすがにやりすぎだけども(笑)。

 

 

度々先延ばしにして申し訳ありませんが、「キンポコ」は主幹となるテーマから枝が分かれ、ストーリーが進むにつれてその枝が再び幹に戻ってくるような構図となっているので、こうせざるを得ません。伏線回収の際にはリマインドできるようにするので、どうかお付き合い願います。

 

次回はいよいよ、敵との本格的な戦闘に入ります。マタの重要性もふんだんに説明していきますので、どうぞよしなに。

 

さて、前回は冒頭だけでさっと終わってしまいましたので、今回はじっくりと解説していきます。長身腕長の変態が登場するシーンです。

 

 

*以下ネタバレです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

恒例の粘土アニメによるオープニングを経てから、映画はいつも通り野原家のシーンに移ります。アクションソードの玩具が物差しに変わっていたり、謎の黒い犬であるクロを家に迎えたりしながら野原一家の日常が切々と描かれ、そして問題のシーンへ突入。

 

深夜、ゴーンという鐘の音にふと目を覚ましたしんのすけは、鐘の音の数を13回数え、今が13時であることに疑念を抱きます。そして、外の様子に違和感を覚えたしんのすけが玄関の扉を開けた先には、見たこともないような不思議な町が広がっていました。驚きながらも楽し気に町の中を走り回る彼の前に、スーツ姿をした長身の男「マック・ラ・クラノスケ」、そしてその相棒のイタチの「チタイ」が現れました。「ヘンダーランド」で言うところの「クレイ・G・マッド」ポジションです。マックはしんのすけが選ばれし者であることを確認し、仲間に引き入れるため、お金をエサとして契約書を書かせようと歌と踊りまで披露しながら迫ります。金銭に特段興味のないしんのすけは子供らしく断り、マックの怒りを買うも、間一髪で逃げ切りました。

 

 

ダラダラと書き連ねてみましたが、このマックがしんのすけを誘う際に歌った挿入歌「金、金、お金」(作詞:本郷みつる、作曲:荒川敏行、歌:宮本充)、この歌詞の意味を、多くの人は一般社会に対する皮肉であると単純に考えてしまっています。中には、中国のことを歌っているのではないかという意見の人もいるのですが、実はまさにその通りで、この挿入歌は、中国政府が各国に供出している「チャイナマネー」の危険性を克明に記したものなのです。もちろん作詞は本郷監督であるので、この歌が監督が発信したいメッセージに直結することは明白なのですが。以下は、中国の支配力の影響を記した著書「サイレントインベージョン~オーストラリアにおける中国の影響~」の著者クライブ・ハミルトンが、日経ビジネスのインタビューに答えた際の記事から引用したものです。

 

「2005年、オーストラリアに亡命した在シドニー領事館の中国人外交官は『中国共産党がオーストラリアに深く入り込んでいる』と既に警告していました。ただ当時は誰も注意を払わず、具体的な対策が取られることもありませんでした。何年も経ってようやく、彼の警告が正しかったことが分かってきたのです。」

 

(2018/6/29, 飯山辰之介. 中国の「静かなる侵略」は阻止できるのか. 日経ビジネス

https://business.nikkei.com/atcl/interview/16/062100026/062600003/)

 

この、「深く入り込んでいる」の2005年当時に意味するものはなにか、日本ではどうであったか、詳細はわかりませんが、記事から読み取るに、チャイナマネーによる政治家の買収などでしょう。このようにサイレントインベージョンの脅威は、実は2000年代から知られていたことでした。静かに迫りくる中国の影の脅威が、まさかの「クレヨンしんちゃん」という一般向けファミリーアニメの劇場作品で歌われていたことについては驚嘆の域を超えます。何しろ、欧米各国が中国のサイレントインベージョンに対し本腰を入れて対処し始めたのはつい最近のことだからです。そんな馬鹿なと思われるかもしれませんが、率直に申し上げれば、散々中国の話題を取り上げた上で、この挿入歌が単なる社会を皮肉ったものであるとは到底考えられないのです。

 

この歌詞のうち、「戦車もテレビ局も政府も」、「お金儲けが悪いことですか」という歌詞は実に恐ろしいですね。現実に、中国の新型コロナ感染に関する情報隠蔽問題でも、各国の政府やマスコミ、さらにはWHOのテ泥(ドロ)ス事務局長まで、チャイナマネーを理由に中国の擁護や他国の批判をせざるを得ない状況に置かれているのですから。中国防衛大学の教授が2019年、朝日新聞のインタビュー(2019/5/15, (インタビュー) 米国超え、中国の夢 中国防衛大学教授・劉明福さん. 朝日新聞) に対して、「米国を追い抜くことは犯罪ではない」と述べたように、「お金儲けが悪いことですか」という考えが、こうした中国の外交戦略の正当化を支えていることは想像に難くありません。日本はおろか、アメリカでさえも気付かなかった、まさに公開当時から今日に至るまで経済大国へと成長を遂げていく中国の狡猾な外交戦略の展望が、この歌では表現されていたのです。

 

*余談ですが、13時時計は早稲田予備校に設置された実際に存在する時計で、見ると別の世界にいるような感覚になる、といったコメントがネットに流れているように、異世界の物であることを感じさせるためこの映画で採用されたアイディアだと考えられます。マックが時計を見て「ちょうどいい」と口にしたのは、ドン・クラーイと地球の時差が時計で修正されていたからです。ドン・クラーイでは、1日が26時間、つまり半日が13時間なので、マックが訪れた際の地球との時差は1時間。つまり、マックがしんのすけの前に示した時計の時刻は地球時間で午前1時15分であったと思われます。前日からマックが視察に来ていたことを考えると、ひょっとしたら3時間ずれて、地球時間で午前3時5分である可能性も否定できませんが、前者の方が、この後のもう一人の悪役初登場シーンの時刻に近いので有力でしょう。この辺りはあまり深く考えるとややこしくなるので、あくまでも「しんちゃんの世界」の設定であるという程度にとどめておくこととします。短針と長針を同じ長さにしたのも、そうした視聴者や制作者側の混乱を防ぐためかもしれませんね。

 

この日から、昼間の世界、野原家の日常と共に、現代社会の負の要素が描写されるようになります。政治の汚職問題の報道から家族間の些細ないざこざ、満員電車でのストレスまで、一般の人々なら見覚えのあるような光景が描かれています。そして、しんのすけが夜の間に体験した話を誰かにしても、信じてもらえないというシーンが続く。このようなシーンが、視聴者の映画に対する見方を錯綜させてしてしまう原因となっているのですが、この後繰り返し登場するので、後程説明します。

 

次回は、今作のもう一人の悪役である、スタイル抜群なお姉さんの登場シーンをメインに紹介しながら説明していきます。

 

2008年4月19日に公開された双葉社創立60周年記念作品、映画クレヨンしんちゃん16作目「ちょー嵐を呼ぶ 金矛の勇者」。映画の公開記念に販売されたチョコビ いちご味(バンダイ×東ハト)、付録の映画限定シールは私の記憶にも依然顕在です。

 

Amazon 映画クレヨンしんちゃん ちょー嵐を呼ぶ 金矛の勇者

 

しかし、この「キンポコ」は、クレしんファンにとっては「劇しん切っての駄作」と称されるほど強烈な批判を受けました。ストーリーのテンポの悪さや支離滅裂性、悪役の弱体化など、理由は様々です。劇しん1作目から、本作のベースであり、かつ人気の高い4作目「ヘンダーランドの大冒険」を手掛けた本郷みつる監督の作品とは思えないという批評もちらほら。デザイン性やアクションなどを評価する視聴者もいる一方、久しぶりにクレヨンしんちゃんを観て、外れを引いたと吐露する視聴者も少なくなく、むしろ「アンチ・キンポコ」の主張が目立つ感じがしますね。実際、Amazonにおける評価もこの映画のみダントツで低いです。

 

 

 

このようなことから、双葉社創立記念のために制作されたはずの映画は、2020年現在に至るまで劇しん界の恥としてけなされ続けてきました。

 

 

本当にそんな作品を本郷監督が望んで制作したのでしょうか。望んでいなかったにしても、これまでの監督の実績を考慮すれば、このような結果にまでなるのは逆に不自然です。私も、この映画の重要性について模索しようと何度も試みてきましたが、私の小さなお頭では、そのメッセージ性を正確にとらえることは困難でした。結果的に「キンポコ」は、劇しんの中でも唯一、筆者の脳内でモヤモヤしたまま残存する悩みの種と化したのです。

 

そんな時、昨今のコロナショックに伴う世界情勢の変化が、この映画のメッセージ性を捉える糸口を提供してくれました。改めて考えてみれば、なぜ今まで気付かなかったのか、と思えるほどに単純なヒントがいくつも隠されていました。そうやって自分の洞察力のなさに幻滅する一方で、本作品が、公開当時の、ひいては現在の国家や国際問題に関するトピックを巧妙に包含していることに総毛立つのを覚えました。筆者を含めた視聴者は、透明な主幹の周りに浮かぶ枝をただただ眺め、拾い集めていたにすぎなかったのです。その透明な幹が見えるようになった時こそが、過去最低の駄作が、一気に次回作以降の作品をも凌ぐ歴代最恐のトラウマ映画に成り上がった瞬間でした。

 

本稿は、本作のストーリーの各所について様々な動機付けを行いながら徹底解剖した結果を、数回に分けて順番にだらだらと記していくだけのものです。先に忠告しておきますと、この話は日本の、そして、あの悪名高いお隣の赤い国の闇の部分、この映画なりに言えば「ドンクラーイ」部分を明確に記すものなので、政治的な話が苦手な方は要注意を。また、以降はすべて、私が本作品を視聴しながら延々と理由付けを行った結果に過ぎないので、あまり鵜呑みにするのも推奨しません。その他、私が考察する本作の主題とあまり関係ない部分はなるべく省いていくようにしますが、コラムとして少し紹介することもあるのでどうぞよしなに。

 

*以降、すべてネタバレですので、先に映画を視聴されてから読み進めることを推奨します。原則として映画に関する画像は貼り付けませんのでご了承ください。場合によっては歌詞の引用もありますが、何しろ歌詞自体が少ないので、引用の域を超えないようになるべく努力したいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

まず、冒頭から紹介される「金の矛と銀の盾と選ばれし者」に関する伝説。

ストーリー終盤でオカマ役の「ドウドウ(銅鐸)」を演じる屋良有作さんのナレーションから、ドン・クラーイ世界の王「アセ・ダク・ダーク」と、反逆者である「マタ・タビ」の戦闘シーンで映画はスタートします。

 

 

当作品の重要アイテムである「金矛」が、この時点で登場していますが、そもそもこの矛の役割とは何なのでしょう。

ご存知の通り、「チ〇ポコ」という下ネタとの語呂合わせであることに変わりはありません。しかし、それにしてもなぜ本郷監督が矛と盾を題材に用いたのか、ということの論理的な説明にはなりません。

 

思い出してほしいのは、中学でも習ったことのある、「矛盾」という中国の格言です。この映画は、「矛盾」という漢文をモチーフにした伝説から始まっている、これが意味することはただ一つ、「この映画は中国に関する話である」という、基本的な話題の提示です。戦闘シーンで描かれる雲も、どこか東アジアの宗教画っぽいタッチになっていることにも注目してみると、「この作品は中国を題材としているんだよ」というメッセージが、映画の冒頭で提示されていることがよりよくわかるはずです。

 

なお、矛と盾の作中での意味について、さらにもう一つ別の見解がありますが、それはストーリー終盤において解説しますので気長にお待ちください。

 

 

今回はひとまず、最初の入りとしてここまでにしましょう。次回では、映画の中では人気のある、あの挿入歌が登場するシーンについて、詳しく記していきますね。