「キンポコ」の「キンポコ」による「キンポコ」のための記事、第10弾にて本当のラストを迎えます。ここまで、画像も何もなく、字だけで鬼のように説明してきましたが、残念ながら最後まで字だけです。あと一息!

 

 

*以下ネタバレです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第9弾までで、「キンポコ」は中国共産党を主とする社会事情を風刺した、とんでもない映画であることがご理解いただけたかと思いますが、これでは終わりません。前回までの解説だけでは、「キンポコ」は当時の日本の対外姿勢に異を唱える批判的な意見を提示したに過ぎないからです。

 

以降に示されるのは、「それを受けて私たち国民はどうすればいいのか」という、大衆向けのメッセージです。

 

 

 

 

 

ダークを倒した後、キンキンとギンギンにしんのすけは、なぜ自分を選んだのかについて尋ねたところ、2人は、

 

キンキン「一目惚れかしらね。愛よ、好きになったってこと。」

 

ギンギン「そうそう、僕たちは伝説を作り続けている。伝説って人の物語だからね。大抵、好きになったか嫌いになったかの話なのさ。」

 

と答えました。

 

 

 

またもや意味不明な会話が飛び出してきたわけですが、ここで、「愛」という言葉に注目してみましょう。

 

「愛」と言えば、先程登場したみさえの台詞「4人の愛の力は.......」の「愛」。前述した通り、これは他国間での団結、つまり同盟のことです。加えて、キンキン・ギンギンとしんのすけを繋いだ「愛」は、日本政府と軍の連携とみなせるでしょう。あるいは、もっと一般的な意味として、他者への思いやり、哲学的・思想的観点からは五徳のうちの「仁」と読み取れるかもしれません。

 

そしてここで、本郷監督が残したメッセージであろうもう一つの「愛」が登場します。その謎を解くカギこそが、本作で散々けなされ、一部の視聴者のストレッサーにもなっていた、あのケツダケ星人です。

 

ストーリー中盤で、春日部防衛隊に「そういうのもうやめろよな」、「全然面白くない」、「寒いだけ」と罵詈雑言を浴びせられ、マックにさえ「そんなに面白くないな」と一蹴された、本作のケツダケ星人。一体これが何を意味するのか。しんのすけが日本のメタファーであることをもう一度思い出すと、その理由が見えてきます。

 

そうです!「ケツダケ星人の否定」が、「日本政府の否定」と一致するのです!

 

劇中で報道されていた政治家の汚職問題も併せて思い出してください。平成以降、自民党政権は経世済民においてこれと言った成果を上げられず、その上「政治とカネ」の問題は、国民の政府に対する不信感を増幅させていました。事実、この映画が公開されたその翌年に、民主党政権への政権交代が起こっています。投票率も、60%台であった昭和から、50%前後を漂うようになり、国民、特に若年層の政治に対する期待と関心はすり減っていく一方でした。それが、ケツダケ星人はおろか、しんのすけ自体に対する春日部防衛隊の関心の欠落という形で表されている。つまり、ここで言うもう一つの「愛」は、「しんのすけ=日本」に対する「愛=愛国心」なのではないか、と考えられるのです(さすがに、政府に対する、とまでなると少々度が過ぎるので、あくまで日本という国でとどめておきましょう)

そして、ギンギンの、「人の物語は、大抵好きになったか嫌いになったかの話」とは、人の歴史というのが、愛国心やナショナリズム、他国との親和性、同盟などを経て形作られてきたことを意味していたのです。当然、実際の歴史はそんな単純な構造で片付けられるようなものではないかもしれませんが、大方当てはまるのではないでしょうか。薩長同盟でも、結局は嫌いな者同士が嫌いな者を倒すという構図であったし、欧州の諸革命も国王の絶対王政に対する嫌悪感爆発が発端となったのですから。

 

(*少し硬いと感じた方、あるいは政治的な主張として当てはめる分には無理があると感じた方は、名作「新世紀エヴァンゲリオン」のオープニング、皆さんご存知(だと思う)「残酷な天使のテーゼ」の歌詞「人は愛をつむぎながら歴史をつむぐ」だと解釈していただければ大丈夫だと思います。)

 

 

キンキンとギンギンによって元に戻ったマタは、矛と盾、そして最後にサプライズのオカマ役として現れた銅鐸のドウドウを連れて、ドン・クラーイへ戻ることに。その直前のしんのすけとマタの会話。

 

マタ「これからも、お互いの世界を少しでも良くするために頑張ろ!」

 

しんのすけ「うん、オラ、なんとなくがんばる。」

 

マタがドン・クラーイに戻り、野原一家もア法から解かれると、春日部は再び元の平穏な日常に戻っていったところで、物語はエンディングへ。

 

(*まさかのクライマックスでドウドウが、かつてはクレしん恒例であったオカマポジションとして登場しました。マタがしんのすけにキスをしたことは、ヘンダーランドのメモリ・ミモリ姫を思い出させるし、やはり「金矛」はストーリー設定からbgm、キャラクターまで、ヘンダーランドの要素をふんだんに取り入れていたのです。)

 

 

 

 

 

 

「金矛の勇者」は、他の劇しんに類を見ない、中共独裁や国内政治といった極めて現実的な問題と、お馬鹿でお下品な本郷ワールドが密接に絡み合って生まれた、非常に重い、シリアスなストーリーでした。

それを踏まえた上で、本郷監督がこの映画を用いて発信したいメッセージは何だったのでしょう?

 

先程書いたように、中共の脅威に気を付けろ、だけではありません。それは、劇しんのテーマとして、あるいは大衆向けに発するメッセージとしてはあまりにもネガティブすぎるからです。

 

中国の脅威を引き合いに出してまで、本郷監督が伝えたかったこと、それがまさに、しんのすけへの「愛」、「愛国心」でした。

 

「愛国心」と言っても、ただ「国を愛せよ」ということではありません。

前述した通り、当時の日本では、政権交代が起きるほど特に政治に対する信用が失われていた上、迫りくる経済の課題と環境問題等々、様々なネガティブな課題を抱え、自国の行先に対する不満、不安というのが国民の中に募っていたはず。中国寄りの反日的な意見なども、その当時から出ていたかもしれません。しかし、それでも、厳しい言論統制や検閲が行われ、自国の先行きが適切に把握できないような中国と比較すれば、悪いニュースがしっかりと報道される日本は幸せな国でしょう。

 

もちろん、日本の問題を棚に上げているわけではありません。そのような問題を考える機会を与えられているからこそ、国民は愛する日本を少しでも良い国にできるよう、政治に参加し、年金問題や地球温暖化といった昨今の深刻な社会問題に向き合いながら議論していくべきで、 そしてそのためにも、「なんとなく」でもいいから頑張っていこうじゃないか。

 

 

 

本郷監督はこの映画の最後に、あらゆる問題が混在するこの世の中で不安に苛まれる国民に投げかけたい、最大限のポジティブな意見を提示したのです。当時や今の私、視聴者からしても、「そんなきれいごと言われてもねぇ」と悲観的になってしまいそうなメッセージですが、クレしんの映画としてはふさわしいメッセージですし、大切なのは、何とかしようという意志を少しでも心に留めておき、ちょっとでもいいから声をあげたり、行動を起こしたりすることだと思います(人間を動物化させる薬を開発するのはやり過ぎですが笑)。

 

 

(*私見ですが、以前、さだまさしさんの「神の恵み~A Day of Providence~」と「存在理由~Raison d'etre~」、「ペンギン皆きょうだい2020」を聴いて、この映画を想起したのは言うまでもありません。

今日、政治、経済、文化、環境.... 様々な領域においての問題が浮き彫りになる中、暗い世情に目を背けてしまう若者も多いでしょう、私の友人がそうです。そんな現代の日本を哀れみ、「この国は衰亡に向かっている」という現実的な声も少なくありません。しかし、たとえ打開策が見つからず、先行きの不安に苛まれたとしても、理論的な観測や右、左の区別に惑わされて、人間として持つべき正しい倫理観を捨ててはいけませんし、未来を生きる人々のより良い「今」を作ることに貢献できるよう、思いやりの心を持って、少しずつ、なんとなくでもいいから行動を起こしていくことが大切なんだ、そんなメッセージが明確に表れた2曲だと思います。

この他、矢島美容室の名曲「ニホンノミカタ-ネバダカラキマシタ-」にも、「キンポコ」に通ずるものがありますね。この映画の主題歌「人気者で行こう!」は、メンバーの1人、DJ. OZMAさんが歌と作詞を手掛けた曲です。)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

以上、「キンポコ」について私なりの推測を書き連ねてみました。

 

中共の悪はさておき、私は当作品に対する自分の考察を正しいとも間違っているとも思っていません。実際、今日になってようやく目に見えてきた中国共産党の影響力の大きさに、単なる鬱憤晴らしで応答しているだけではないかと、自分でも疑ってしまうほど、「キンポコ」は本当に難解な映画です。私はお頭が弱い上に、国内の政治や中国の歴史、当時の世界情勢などについて詳しいわけではなく、むしろ素人同然です。知識不足による誤った考察や、少々無茶苦茶な動機付けを指摘されても異論はありません。また、キャラクターの隠喩の仕方についてもストーリーの場面ごとにかなり変遷させたこともあり、わかり辛い説明になってしまったかもしれません。

しかし、劇中の種々の表現から見て、当作品が中国共産党の独裁をテーマに取り入れていることはまず間違いないでしょう。偶然にしては証拠が多すぎるからです。その意味では、「キンポコ」が大衆の理解を受けず、駄作として処理されるほうが都合がよかったのではないか、とも思えてしまいます。もし公になれば、クレしんを政治的な主張に使ったと批判される可能性もあった上、クレしん業界の大事な取引相手国である中国の機嫌を損ないかねないため、気付いた人も口をつぐんでいたことがあったかもれませんね。ただ、2004年には双葉社に対する著作権侵害問題が発覚したこともありましたので、中国に対する危機感あってのこの映画だったのではないでしょうか。

 

テーマがテーマだけに、22作目の「ロボとーちゃん」のようにわかりやすい形でテーマを提示することができず、一般の方が気付かないほどかなり隠喩的で、アート的な作品に寄ってしまったことは否めませんが、同時にキャラクターのデザインも凝られた、アートとデザインの両方を兼ね備えた映画だったと思います。

もちろん、ストーリーのテンポや、大人向け、子供向け要素のバランスなど、不十分な点も多く見受けられます。それでも「キンポコ」は、その高いメッセージ性から、次回作以降の社会問題を扱ったクレしん映画のパイオニアとして、大きな影響を与えました。「キンポコ」は、他に類を見ないほど挑戦的な作品だったのです。

 

誤解してはいけないのが、この映画は中国人に対するヘイトスピーチではなく、中国政府の一党独裁に対する痛烈な抗議と、現代日本人に対する注意喚起と激励のメッセージであるということです。

 

 

 

本稿の目的は、あくまでも「キンポコ」に対する新しい見方を提示し、さらなる議論を進めていただくためのプレゼンテーション、問題提起にすぎません(強いて言うならば、この映画も、その他すべてのクリエイションも、プレゼンテーションみたいなもので、それが表面だけの骨抜きな作品になるか、テーマが貫き通されたディベイタブルな作品になるかどうかはクリエイターにかかっています)。政治に詳しい方、クレしんに興味のない方、そして、今までこの映画を駄作とののしってきた方に、ぜひもう一度、ここで「キンポコ」に対しての見方を改め、今度は自分なりの考察をもって評価していただきたいと思う次第です。また、私自身も、中国共産党の歴史やマスコミの変遷などについての知識を深めながら、より正確な考察をこれからも進めていければと思います。

 

なお、この映画が大人も子供も気軽に楽しめるファミリー映画として、またはしんちゃんシリーズの映画として、本当にふさわしい物だったかどうかといった話題は、ここでは提示しないこととします。

 

 

ただ、私が最後に言えることは、上橋菜穂子さんの言葉を借りるなら、「『キンポコ』はまさに、劇しん史上最恐の『魔がさした子(アクン・メ・チャイ)』である」ということだけです。

 

 

(*似たようなテーマを有した映画に19作目「嵐を呼ぶ黄金のスパイ大作戦」があります。併せて観ておきたい、良い映画ですね。)

 

 

「キンポコ」の布教を目的とした本稿第9弾、終わりまであと僅かとなりました。ここまで来ても、本郷監督の社会風刺は留まることを知りません。

 

いよいよ本当のラスボス戦。視聴者が理解しがたい、一連の台詞についても私なりの解釈を提示します。

 

 

*以下ネタバレです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

前回記しました、強大な権力の前に1人取り残され、最悪のシナリオの真っ只中に放り出されたしんのすけ。そんな彼の救世主となったのは、クロこと、銀の盾「ギンギン」でした。

ダークの攻撃をも防ぐ銀の盾の防御力を手に入れたしんのすけは、ダークを倒すために金の矛を探すことに。ダークの攻撃や雑魚敵の追跡を逃れながらも、しんのすけは二階へとたどり着き、タンスにしまわれていた物差しを掲げます。右手と左手とのギャップに唖然とするダークの前で、物差しは金の矛「キンキン」へと成り変わる。二人に分裂したダークに苦戦しながらも、しんのすけはキンキンとギンギンの力を借りて「ちょーしんのすけナイト」となり、見事にダークを討ち取るのでした。

 

 

 

さあ、ようやく「矛と盾」の劇中における意味について説明していきましょう。

 

 

キンキンとギンギンがしんのすけに放った台詞がこちら。

 

キンキン「私たちは確かに道具よ。使う人次第でどうにでもなる。使う人によって力を与えられる。」

 

ギンギン「僕らは、しんちゃんのためなら、力を貸してあげられるよ。しんちゃんは今、僕らを必要としてくれている。」

 

この一連の台詞について、まったく意味がわからないと首を傾げた視聴者は大勢いるでしょう。しかし、これまでの考察の経緯を考慮すれば、大方の予想ができるようになりますよ。

矛と盾は伝説の武具、つまり悪の国家と戦うための武器、武力である。そして、しんのすけ自身が日本国のメタファーであることから連想されるのは何か。もうおわかりですよね。

 

そう、盾は日本の自衛隊、矛は(在日)米軍なのです。日本の集団的自衛権の行使がまだ認められていなかった当時、日本を他国の武力から守る防衛体制は、個別的自衛権によって動く自衛隊と、沖縄を主に日本各地に駐在する米軍。これら二つを如何に利用するかが、中国を牽制するための切り札となるかならないかを決める、そしてそれを利用するのは日本、つまりしんのすけ、選ばれし者です。先に説明した選ばれし者の条件を交えて考えると、中国共産党の侵略に対抗するためには、日本が目先の利益に囚われず(かつ悪は悪としてきっぱりと切り捨てながら)、在日米軍と自衛隊を駆使することが必要であると、この映画は提唱していることになります(当然ながら、これは戦争をせよということではありません)。

。映画公開当時も、アメリカや日本などの国が、中国の野望に気付くことなく、これまでに膨大な投資を行ってきた結果、中国は着々と力をつけ、12年たった今、トランプさん曰く、WHOを操り人形にするほどの財力と権力を手に入れるに至りました。本郷監督は、このような結果を招かぬためにも、12年も前から既に警告を発していたのです。

 

 

 

 

 

こんなにもシリアスな問題と、「キンキンがギンギン」だの「キンポコ」だの、クレしんお馴染みのお馬鹿な下ネタを結び付けた監督のセンスと覚悟には頭が下がるばかりです、あくまで私の脳内でのみですが......。

 

しかーし、これで終わらないのが我らが「キンポコ」。次回こそが真のラストスパートになります。

 

本郷監督はこの映画で私たちに何を伝えたかったのか?

 

次回、第10弾、駄作と評された「キンポコ」、その核心に迫ります!

 

 

「キンポコ」もいよいよ終盤へと向かっていきます、第8回目です。

終盤に近づいていることもあり、ここからこの映画が包含しているメッセージが徐々に顕在化していきます。それに伴い、政治的な問題に対する批評、かつそれを模索しようと導き出された強引な考察が出てきますが、本稿の目的はあくまで「キンポコ」ですので、あまり硬くならずに読んでいただけると嬉しいです(笑)。

 

 

*以下ネタバレです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

プリリンを撃破した野原家+1は、いよいよ批判の多い問題のアセ・ダク・ダーク戦へ。

 

周囲が一気に陰険な空間へと置き換わり、眼前に現れた巨大な舞台より、上から目線であいさつを交わすダーク。「こっちの世界も暗くしてあげよう。」と言ってニタリと笑うや、始まったのは筋肉自慢でした。それから、彼を独裁者たらしめる台詞。

 

「貧乏人や馬鹿者だらけの下層民は、私の指示通りに生きるのが幸せなのだ。お前たちは何も考えなくていい、私に従え!」

 

 

上記の台詞が、まさに中国共産党の一党独裁の本音をストレートに表している一方で、マックも言い放っていた「そっちも暗くしてやろう」というのは、「そっちも独裁の下に置いてやろうか」という、シャレにならない脅しであることが読み取れます、おお怖え。

 

(*ダークや雑魚敵の色が白黒であることから、中国の「陰陽」を想起できますね。パンダの色です。)

(*独裁者としてダークを演じた銀河万丈さん、「ジーク・ジオン!!」という言葉が脳裏をよぎったのは私だけでしょうか)

 

ダークはストーリー冒頭に登場した巨大なドラゴンに変身して野原家を圧倒しますが、野原一家はマタの力を借りて「野原メンX」に変身、家族の平穏を乱す奴は許さない、と言わんばかりの攻撃を仕掛け、見事(あっけなく)ダークを倒すことに成功します。

 

 

喜ぶ野原一家とマタ、いつものアクション仮面のポーズを披露するしんのすけであったが、ハッピーなムードは一変。ひろしとみさえ、ひまわりがア法の影響を受け、再び空間が闇に包まれてしまいます。そして不気味なほくそ笑みが聞こえ、しんのすけとマタが振り向いた先には、なんと倒されたはずのダークが。ダークは術を使ってマタを石化させた後、しんのすけにこう迫ります。

 

「確かに、お前の家族とマタは強かった。だが、たった一人になったお前に何ができる?もうお前を助ける者は誰もいない。」

 

しんのすけが唱えた封印の呪文も効果がなく、ケツダケ星人をすることもできないほど恐怖に怯えるしんのすけを、ダークとその手下たちは容赦なく追い詰めるのでした。

 

 

 

 

 

ダークが倒されるシーンは、確かに尺の不足による投げやりな戦闘シーンと受け止められても仕方がありません。そうでないにしても、あの戦闘のまとめ方、ネット上の評価の言葉を借りるなら、悪役の「竜頭蛇尾」感が否めないことは、制作者側も当然把握していたはずです。こんな設定にしなくとも、野原メンXが倒され、1人だけ立ち上がったしんのすけが矛と盾を使って立ち向かう、という流れもあったはず。

 

では、なぜダークは野原家に一瞬で倒されなければならなかったのか、なぜ、しんのすけの前に再び現れる設定になったのか。

 

これについては色々と難儀する点はあるかもしれませんが、筆者の一つの見解としては、最良のシナリオと、最悪のシナリオを同時に描きたかった、ということがあげられます。前半では、両親や妹、そして味方である反逆者と共に力を合わせ、言い換えると、内部の告発者の力や他国との同盟を利用し、その結果、一党独裁政権に勝利するハッピーエンドを表現する。後半では、他国の力もなく、内部告発者も粛清され、独裁国家の前にたった1人孤立してしまった挙句、容赦のない侵略を被るバッドエンドを表現する。

 

この際、ダークを中国共産党としたとき、マタが中国国内の告発者、野原家におけるしんのすけは日本、両親は欧米諸国、妹は韓国 etc. 、といったニュアンスと受け止められるのが、おわかりいただけたでしょうか。

 

根拠としては、前半終了後のひろしとみさえの会話。とりあえず記述しておくと、

 

ひろし「家族が団結すれば、どんな困難だって乗り切れるのさ。そう、年金問題だって、地球温暖化だって、」

 

みさえ「4人の愛の力は、何者にも負けないのよね。」

 

この時、なぜひろしが家族の団結で地球温暖化まで解決できるんだと豪語したのか、疑問を抱いた方もいるでしょう。しかし、この「家族」を「国家」としたとき、「国同士が団結すれば、国際問題の解決はスムーズになる」という理想論を語っているように読み取れるのではないでしょうか。大国アメリカが戦後政策以来、日本の親分であるとよく言われている(というより、日本はアメリカの嫁、シングルマザー的な振る舞いをしていると言われることもありますが)ように、国家間の関係、特に日本と他国の関係を家族に見立てても不思議はありません。

 

ただし、それはあくまで理想論です。気候変動枠組み条約の失敗に見るように、環境問題はもっと複雑で深刻ですし、ましてや年金問題など、家族の愛はおろか、国家間の団結でどうこうする問題ではありません。よほどのことがない限り、事情の異なる国同士で一致団結して問題に取り組むことは難しい。それはもちろん、ダークがあっけなく倒されたように、簡単に問題が解決されてほしいと誰もが願うでしょうが、そんな都合のいいこと自体、現実的にあり得ないのは自明の理です。

 

つまり、前半と後半、2つのダーク戦の流れを考えた時、ダークのあっけない敗北と再登場というのは、他国で一致団結して問題を解決しようという理想論に待ったを突き付けるためのものだったと考えられるのです。

 

 

さすがに私自身、この見解については懐疑的な見方をせざるを得ませんが、あくまでも1つの推測として捉えていただきたいという次第です。

 

 

 

次回、ついに物語のクライマックスへと迫っていきます。そして、もう忘れられかけているであろうその1に提示した、「矛と盾」のもう一つの意味についての説明もようやく登場しますので、もう少しだけ、辛抱のほどお願いします。

 

 

ボイン姉、死す」、予告通りの第7弾ですが、今回のメインはボイン姉よりも、その前のシーンです。しかし、がっかりしてはいけません。私たちの目的は「ボイン」ではなく「キンポコ」だからです(笑)。

 

 

*以下ネタバレです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

異変に気が付いた野原一家は家族会議に突入、問題の「下敷き発言」を経て、マタの封印を解く流れに入ります。復活したマタとの和解後、ひろしとみさえは些細ないざこざでまたも目の前の問題を忘れてしまいそうになり、マタに制されながら、選ばれし者の伝説についての説明を受けます。

 

 

正直このシーンに、あまり深い意味はないのではないかと思えてしまうのですが、ひろしとみさえが途端に口論し出す、一見尺の無駄とも思えるシーンは、再び2人が先のストレス社会のシーンの状況に引き戻されかけていることを表現していると見ることもできます。忍び寄るドン・クラーイ(=中共)の恐怖を感じてもなお、自分たちの問題に目がくらみかけている、そんなひろしとみさえに待ったをかけたのが、マタの一声(と軽やかな宙返り)だったのです。

 

また、しんのすけが選ばれし者に選ばれた理由として「偶然の産物、しかし偶然は必然でもある」というマタの意見からは、「たしかにしんのすけが選ばれたことは運かもしれないが、しんのすけは選ばれるべくして選ばれた」ということがうかがえます。しんのすけは、マックの金による誘惑にも乗らず、劇しん19作目を手掛けるにあたり歴代映画を総当たりした増井壮一監督が言うように、「言いたいことは言いたい放題に主張する性格」であるしんのすけは、ドン・クラーイ世界に平和をもたらす選ばれし者として不足ない人材だったのかもしれません(もう少し単純に考えるならば、正義の味方であるアクション仮面が好きなしんのすけ、そして、これまでの映画でも散々正義のために戦ってきたしんのすけだったからこそ、というのもありかと..... むしろこっちの方が良い気がします(笑) )。言い換えるなら、中国政府に対抗しうるのは、目先の利益に囚われず、悪い物は悪いと自己判断できる人材である、という具合。

 

このシーンは、そのことを伝えたいのではないかと考えられますが、少々無理があるかもですね(笑)。

 

(*ちなみに、ひろしとみさえが、ファンタジーか否かについて論議している部分がありますが、これはまるで、自身の作品「金矛」がヘンダーランドのような単なるファンタジーではないことを暗に揶揄しているように感じます。上記の増井監督の引用は、映画19作目のDVDに同封されていたインタビューからです。)

 

 

 

マタとの会話がひと段落したところで、本性を露わにしたプリリンが「プリリン・ザ・スピードキング」に乗って野原家に襲い掛かります。対する野原家も、マタが変身した「マッタ轟(ごう)」に乗ってプリリンとカーチェイスを繰り広げた挙句、プリリンを崖の壁面に激突させて倒しました。

 

当シーンはプリリンの作中での役割を考えると、スパイ映画のカーチェイスのようにも思えます。このマッタ轟、タツノコプロのアニメ「マッハGoGoGo」の「マッハ号」がモデルみたいです。昔のアニメを知らない私には馴染みがありませんが、しん電といい、マッタ轟といい、語呂合わせがいいですね。

 

 

今回はここまでです。ここのところ短い記事が多いですが、次回は、問題の多いラスボス戦についてじっくりと説明していきます。次回以降、政治的な話題の提示が今まで以上に顕在化してきます。暗い話が続く上、私なりの少々無茶苦茶と捉えられるような解釈が飛び出してきますので、苦手な方はご注意ください。

 

「キンポコ」と一緒に社会問題を考えていくシリーズへとなりかけている本稿6弾です。

いよいよ、大勢の視聴者をムラムラ(=モヤモヤ)させている例のシーンの解説に入ります。その2、その3で書いたものについても簡単にまとめて記述してありますので、どうぞ気軽に進めてください。

 

 

*以下ネタバレです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

マタがいなくなった後、地球におけるドン・クラーイの支配の影は一層顕著に現れるようになります。朝のニュースでは、いきなり「年金問題解決」といったあり得ないようなプラスのニュース、続いて「日本マナー法」とかいうとんでもない悪法の成立、そして唐突に日本国をべた褒めし始めるアクション仮面....... テレビに映る不可解な事象に野原家は困惑するしかありません。外に出ても、男性専用車両を真の男女平等と高らかに笑う意味不明な会社員、会社では一気に重役にまで出世してしまうひろし、幼稚園では笑っているだけで「細かいことを気にしすぎ」、「これでいいと思う」とのたまう防衛隊の4人。そんな外界の変化に、野原一家はただただ違和感を覚えるばかり。

そして、帰宅したしんのすけが窓に埋め込まれたパズルのピースを外した瞬間、黄昏色に染まった景色がたちまち崩れ、夜の光景が姿を現しました。その時みさえとひろしは、しんのすけが連日話していたことが真実であることにようやく気付くのです。

 

 

 

この一連のシーンは、これまで視聴者の中に鬱憤を貯めこませていた、ストレス社会の日常のシーンと見事な対比を成しています。ここで、もう一度それぞれのシーンをおさらいしながら説明していきましょう。

 

先のその2、その3に書きましたストレス全開のシーンでは、家事や通勤、勤務、夫婦喧嘩など、個人のことで精一杯で、しんのすけ以外、誰も背後に迫る脅威に対して目を向ける者はおらず、真実を語るしんのすけに耳を貸す者はいませんでした(みさえを困らせるほど泣くようになったひまわりだけは異変を感じていたはずですが)。加えてテレビでは、政治家の汚職事件や環境問題、経済問題、家庭問題などが大々的に報じられ、まさに世紀末といった描写がなされています。

それが、後のシーンではネガティブなニュースは一切消え、テレビの番組には政治家が登場するようになり、些細な罪で死刑になるような法が通り、子供向けのヒーロー番組はプロパガンダ的な番組へと急変。我々視聴者から見ても絶対に不自然なのに、「これぞ真の男女平等」、「これでいいと思う」と、一般市民は不平を一切言いません。

 

これらが意味することは実に明快です。前者は報道の自由が守られ、民主主義、個人主義にまみれた日本を、後者は報道もまともにできない、民主主義も人権も糞もない、人民が政府に逆らうことを許されない共産主義の中国を表しているのです。現在のコロナウィルスに関する報道の両国の違いを例にとると、日本は野党が意味のない批判を繰り返している様子や、政府の対応の甘さなど、マイナスのニュースもしっかりと報道しているのに対し、中国はというと、コロナの収束や経済の復興といったプラスのニュースは報道しますが、中国政府に不利な情報は報道しません。そして、武漢におけるコロナウィルス発生の最初の兆候を匂わせる記事に限らず、今度はウィルスが中国由来であることすらももみ消そうという中国政府の姿勢。このような言論弾圧、事実隠蔽、厳重な検閲など、(一部北の国を除く)他国に類を見ない中国の監視体制が日本に反映された状態、それが、後者のシーンで描かれていることなのです。そして、最終的には社会がそうなっていることに誰も気付かぬまま、日本は闇に包まれていた、という流れになります。一見無駄だと感じていたシーンの連続が、日本における中国共産党のサイレントインベージョンを克明に表現していたのです。

 

このように並べてみると、社会問題といったニュースをしっかりと報道してくれているシーンの方に逆にありがたみを覚えるかもしれません(日本のメディアに関しては偏向的なところも多いですし、ネトウヨや政治家による表現の自由の侵害もありますが... )。そして、それこそが本郷監督のメッセージを裏付けるものになるのですが、それはまた後程。

(*前者の影響がドン・クラーイによるものなのかどうか、現時点では私にもわかりません。少なくとも、当時の日本人にとって中国のサイレントインベージョンというのは、ドンクラーイの脅威を語るしんのすけに対する組長先生の反応のように、夢、果てはサンタクロースやなまはげ、ツチノコのような存在だったのでしょうね。)

 

 

 

今回も少し短くなってしまいましたが、この映画が単なる現代社会の皮肉を表現した作品でないことはおわかりいただけたでしょうか?あくまでもアニメ映画ですので、かなり誇張された表現になってはいます。それでも「キンポコ」は、現代社会の実情がふんだんに描かれた、日本式「サウスパーク Band in China」であったとも言えるでしょう。

 

次回、「ボイン姉、死す」!