「キンポコ」の「キンポコ」による「キンポコ」のための記事、第10弾にて本当のラストを迎えます。ここまで、画像も何もなく、字だけで鬼のように説明してきましたが、残念ながら最後まで字だけです。あと一息!

 

 

*以下ネタバレです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第9弾までで、「キンポコ」は中国共産党を主とする社会事情を風刺した、とんでもない映画であることがご理解いただけたかと思いますが、これでは終わりません。前回までの解説だけでは、「キンポコ」は当時の日本の対外姿勢に異を唱える批判的な意見を提示したに過ぎないからです。

 

以降に示されるのは、「それを受けて私たち国民はどうすればいいのか」という、大衆向けのメッセージです。

 

 

 

 

 

ダークを倒した後、キンキンとギンギンにしんのすけは、なぜ自分を選んだのかについて尋ねたところ、2人は、

 

キンキン「一目惚れかしらね。愛よ、好きになったってこと。」

 

ギンギン「そうそう、僕たちは伝説を作り続けている。伝説って人の物語だからね。大抵、好きになったか嫌いになったかの話なのさ。」

 

と答えました。

 

 

 

またもや意味不明な会話が飛び出してきたわけですが、ここで、「愛」という言葉に注目してみましょう。

 

「愛」と言えば、先程登場したみさえの台詞「4人の愛の力は.......」の「愛」。前述した通り、これは他国間での団結、つまり同盟のことです。加えて、キンキン・ギンギンとしんのすけを繋いだ「愛」は、日本政府と軍の連携とみなせるでしょう。あるいは、もっと一般的な意味として、他者への思いやり、哲学的・思想的観点からは五徳のうちの「仁」と読み取れるかもしれません。

 

そしてここで、本郷監督が残したメッセージであろうもう一つの「愛」が登場します。その謎を解くカギこそが、本作で散々けなされ、一部の視聴者のストレッサーにもなっていた、あのケツダケ星人です。

 

ストーリー中盤で、春日部防衛隊に「そういうのもうやめろよな」、「全然面白くない」、「寒いだけ」と罵詈雑言を浴びせられ、マックにさえ「そんなに面白くないな」と一蹴された、本作のケツダケ星人。一体これが何を意味するのか。しんのすけが日本のメタファーであることをもう一度思い出すと、その理由が見えてきます。

 

そうです!「ケツダケ星人の否定」が、「日本政府の否定」と一致するのです!

 

劇中で報道されていた政治家の汚職問題も併せて思い出してください。平成以降、自民党政権は経世済民においてこれと言った成果を上げられず、その上「政治とカネ」の問題は、国民の政府に対する不信感を増幅させていました。事実、この映画が公開されたその翌年に、民主党政権への政権交代が起こっています。投票率も、60%台であった昭和から、50%前後を漂うようになり、国民、特に若年層の政治に対する期待と関心はすり減っていく一方でした。それが、ケツダケ星人はおろか、しんのすけ自体に対する春日部防衛隊の関心の欠落という形で表されている。つまり、ここで言うもう一つの「愛」は、「しんのすけ=日本」に対する「愛=愛国心」なのではないか、と考えられるのです(さすがに、政府に対する、とまでなると少々度が過ぎるので、あくまで日本という国でとどめておきましょう)

そして、ギンギンの、「人の物語は、大抵好きになったか嫌いになったかの話」とは、人の歴史というのが、愛国心やナショナリズム、他国との親和性、同盟などを経て形作られてきたことを意味していたのです。当然、実際の歴史はそんな単純な構造で片付けられるようなものではないかもしれませんが、大方当てはまるのではないでしょうか。薩長同盟でも、結局は嫌いな者同士が嫌いな者を倒すという構図であったし、欧州の諸革命も国王の絶対王政に対する嫌悪感爆発が発端となったのですから。

 

(*少し硬いと感じた方、あるいは政治的な主張として当てはめる分には無理があると感じた方は、名作「新世紀エヴァンゲリオン」のオープニング、皆さんご存知(だと思う)「残酷な天使のテーゼ」の歌詞「人は愛をつむぎながら歴史をつむぐ」だと解釈していただければ大丈夫だと思います。)

 

 

キンキンとギンギンによって元に戻ったマタは、矛と盾、そして最後にサプライズのオカマ役として現れた銅鐸のドウドウを連れて、ドン・クラーイへ戻ることに。その直前のしんのすけとマタの会話。

 

マタ「これからも、お互いの世界を少しでも良くするために頑張ろ!」

 

しんのすけ「うん、オラ、なんとなくがんばる。」

 

マタがドン・クラーイに戻り、野原一家もア法から解かれると、春日部は再び元の平穏な日常に戻っていったところで、物語はエンディングへ。

 

(*まさかのクライマックスでドウドウが、かつてはクレしん恒例であったオカマポジションとして登場しました。マタがしんのすけにキスをしたことは、ヘンダーランドのメモリ・ミモリ姫を思い出させるし、やはり「金矛」はストーリー設定からbgm、キャラクターまで、ヘンダーランドの要素をふんだんに取り入れていたのです。)

 

 

 

 

 

 

「金矛の勇者」は、他の劇しんに類を見ない、中共独裁や国内政治といった極めて現実的な問題と、お馬鹿でお下品な本郷ワールドが密接に絡み合って生まれた、非常に重い、シリアスなストーリーでした。

それを踏まえた上で、本郷監督がこの映画を用いて発信したいメッセージは何だったのでしょう?

 

先程書いたように、中共の脅威に気を付けろ、だけではありません。それは、劇しんのテーマとして、あるいは大衆向けに発するメッセージとしてはあまりにもネガティブすぎるからです。

 

中国の脅威を引き合いに出してまで、本郷監督が伝えたかったこと、それがまさに、しんのすけへの「愛」、「愛国心」でした。

 

「愛国心」と言っても、ただ「国を愛せよ」ということではありません。

前述した通り、当時の日本では、政権交代が起きるほど特に政治に対する信用が失われていた上、迫りくる経済の課題と環境問題等々、様々なネガティブな課題を抱え、自国の行先に対する不満、不安というのが国民の中に募っていたはず。中国寄りの反日的な意見なども、その当時から出ていたかもしれません。しかし、それでも、厳しい言論統制や検閲が行われ、自国の先行きが適切に把握できないような中国と比較すれば、悪いニュースがしっかりと報道される日本は幸せな国でしょう。

 

もちろん、日本の問題を棚に上げているわけではありません。そのような問題を考える機会を与えられているからこそ、国民は愛する日本を少しでも良い国にできるよう、政治に参加し、年金問題や地球温暖化といった昨今の深刻な社会問題に向き合いながら議論していくべきで、 そしてそのためにも、「なんとなく」でもいいから頑張っていこうじゃないか。

 

 

 

本郷監督はこの映画の最後に、あらゆる問題が混在するこの世の中で不安に苛まれる国民に投げかけたい、最大限のポジティブな意見を提示したのです。当時や今の私、視聴者からしても、「そんなきれいごと言われてもねぇ」と悲観的になってしまいそうなメッセージですが、クレしんの映画としてはふさわしいメッセージですし、大切なのは、何とかしようという意志を少しでも心に留めておき、ちょっとでもいいから声をあげたり、行動を起こしたりすることだと思います(人間を動物化させる薬を開発するのはやり過ぎですが笑)。

 

 

(*私見ですが、以前、さだまさしさんの「神の恵み~A Day of Providence~」と「存在理由~Raison d'etre~」、「ペンギン皆きょうだい2020」を聴いて、この映画を想起したのは言うまでもありません。

今日、政治、経済、文化、環境.... 様々な領域においての問題が浮き彫りになる中、暗い世情に目を背けてしまう若者も多いでしょう、私の友人がそうです。そんな現代の日本を哀れみ、「この国は衰亡に向かっている」という現実的な声も少なくありません。しかし、たとえ打開策が見つからず、先行きの不安に苛まれたとしても、理論的な観測や右、左の区別に惑わされて、人間として持つべき正しい倫理観を捨ててはいけませんし、未来を生きる人々のより良い「今」を作ることに貢献できるよう、思いやりの心を持って、少しずつ、なんとなくでもいいから行動を起こしていくことが大切なんだ、そんなメッセージが明確に表れた2曲だと思います。

この他、矢島美容室の名曲「ニホンノミカタ-ネバダカラキマシタ-」にも、「キンポコ」に通ずるものがありますね。この映画の主題歌「人気者で行こう!」は、メンバーの1人、DJ. OZMAさんが歌と作詞を手掛けた曲です。)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

以上、「キンポコ」について私なりの推測を書き連ねてみました。

 

中共の悪はさておき、私は当作品に対する自分の考察を正しいとも間違っているとも思っていません。実際、今日になってようやく目に見えてきた中国共産党の影響力の大きさに、単なる鬱憤晴らしで応答しているだけではないかと、自分でも疑ってしまうほど、「キンポコ」は本当に難解な映画です。私はお頭が弱い上に、国内の政治や中国の歴史、当時の世界情勢などについて詳しいわけではなく、むしろ素人同然です。知識不足による誤った考察や、少々無茶苦茶な動機付けを指摘されても異論はありません。また、キャラクターの隠喩の仕方についてもストーリーの場面ごとにかなり変遷させたこともあり、わかり辛い説明になってしまったかもしれません。

しかし、劇中の種々の表現から見て、当作品が中国共産党の独裁をテーマに取り入れていることはまず間違いないでしょう。偶然にしては証拠が多すぎるからです。その意味では、「キンポコ」が大衆の理解を受けず、駄作として処理されるほうが都合がよかったのではないか、とも思えてしまいます。もし公になれば、クレしんを政治的な主張に使ったと批判される可能性もあった上、クレしん業界の大事な取引相手国である中国の機嫌を損ないかねないため、気付いた人も口をつぐんでいたことがあったかもれませんね。ただ、2004年には双葉社に対する著作権侵害問題が発覚したこともありましたので、中国に対する危機感あってのこの映画だったのではないでしょうか。

 

テーマがテーマだけに、22作目の「ロボとーちゃん」のようにわかりやすい形でテーマを提示することができず、一般の方が気付かないほどかなり隠喩的で、アート的な作品に寄ってしまったことは否めませんが、同時にキャラクターのデザインも凝られた、アートとデザインの両方を兼ね備えた映画だったと思います。

もちろん、ストーリーのテンポや、大人向け、子供向け要素のバランスなど、不十分な点も多く見受けられます。それでも「キンポコ」は、その高いメッセージ性から、次回作以降の社会問題を扱ったクレしん映画のパイオニアとして、大きな影響を与えました。「キンポコ」は、他に類を見ないほど挑戦的な作品だったのです。

 

誤解してはいけないのが、この映画は中国人に対するヘイトスピーチではなく、中国政府の一党独裁に対する痛烈な抗議と、現代日本人に対する注意喚起と激励のメッセージであるということです。

 

 

 

本稿の目的は、あくまでも「キンポコ」に対する新しい見方を提示し、さらなる議論を進めていただくためのプレゼンテーション、問題提起にすぎません(強いて言うならば、この映画も、その他すべてのクリエイションも、プレゼンテーションみたいなもので、それが表面だけの骨抜きな作品になるか、テーマが貫き通されたディベイタブルな作品になるかどうかはクリエイターにかかっています)。政治に詳しい方、クレしんに興味のない方、そして、今までこの映画を駄作とののしってきた方に、ぜひもう一度、ここで「キンポコ」に対しての見方を改め、今度は自分なりの考察をもって評価していただきたいと思う次第です。また、私自身も、中国共産党の歴史やマスコミの変遷などについての知識を深めながら、より正確な考察をこれからも進めていければと思います。

 

なお、この映画が大人も子供も気軽に楽しめるファミリー映画として、またはしんちゃんシリーズの映画として、本当にふさわしい物だったかどうかといった話題は、ここでは提示しないこととします。

 

 

ただ、私が最後に言えることは、上橋菜穂子さんの言葉を借りるなら、「『キンポコ』はまさに、劇しん史上最恐の『魔がさした子(アクン・メ・チャイ)』である」ということだけです。

 

 

(*似たようなテーマを有した映画に19作目「嵐を呼ぶ黄金のスパイ大作戦」があります。併せて観ておきたい、良い映画ですね。)