82024年1月21日(日)。天気雨のち晴れ。

小雨の降る中、京王線「調布駅」へ。私は必ず、「トリエ京王調布」と、

「調布パルコ」の両方で買い物します。どちらかだけということは、ありません(本当かな?)。
昼食は、「調布パルコ」の「東方紅」にて。
その後、京王線で「聖蹟桜ヶ丘駅」へ移動しました。雨が降っているのに晴れているという、変な天気です。昔は「狐の嫁入り」と言ったようですが、普通に聞くことはほとんどないですね。
「川崎街道」。高幡不動方面。右角の「三菱UFJ銀行」の建物は、いかにも銀行という感じで印象的です。
「川崎街道」。稲城方面。
「nana's green tea」でデザートです。
それから、京王バス「国18国立駅行き」に乗りました。
途中で、NHKの「72h」で取り上げられた「府中国立インター」近くの「南京亭」前を通り、
「甲州街道」を通り、
JR中央線「国立駅」に到着しました。中央線高架化後は、三角屋根の旧駅舎は現役ではなくなっています。
そして、「国分寺駅」で西武多摩湖線に乗り換え、
「青梅街道駅」までやって来ました。
「青梅街道」の踏切で待機する「青梅車庫行き」の都営バス。
小平市は、1889(明治22)年に、小川村、小川新田、大沼田新田、野中新田与右衛門組、野中新田与左衛門組、鈴木新田、廻り田新田の7ヶ村が合併して小平村となり、現在の市域を形成しました。「新田」の名前が多いとおり、水利の悪い武蔵野台地は、長い間開発されないままの荒野でしたが、江戸時代に入って「青梅街道」が整備され、更に承応3(1654)年に、玉川兄弟により玉川上水の完成したことが大きな契機となって、新田開発が進みました。先ずは、現在の武蔵村山市の一部であった武蔵国多摩郡岸村の小川九郎兵衛が、明暦3(1657)年から小川新田(後の小川村)の開発に着手しました。
「青梅街道駅」の東は、享保の改革で新田開発が奨励されたことを受け、享保9(1724)年に、小川村の東側に新たに開かれた小川新田の区域にあたります。
「青梅街道」沿いにある臨済宗円覚寺派の寺院「遠渓山平安院」。新たに小川新田に入植した農家の菩提寺にしようと、小川村の「小川寺」住職や、小川新田の名主・小川弥市らが、元文4(1739)年に建立しました。
門前にある庚申塔には、「小川新田」と刻まれていますが、これは元の小川村を表すのだそうです。
「青梅街道」を東に進んで行きます。「山田うどん」は、北多摩から埼玉にかけてのまっ平らな景観に馴染みます。
道も真っ直ぐ通じています。
「青梅街道」に面して聳える「熊野宮」の大鳥居。
「熊野宮」に向かう参道の途中に、新田開発の礎となった「小川用水」が、今なおその流れをとどめています。
「熊野宮」は、小川新田の鎮守として、小川九郎兵衛と多摩郡殿ヶ谷村(現・瑞穂町)の「阿豆左味天神社」宮司・宮崎主馬とが、岸村岸組にあった社を当地に遷したのが始めとされています。
拝殿の前の二本の夫婦欅が、たいへん目立ちます。樹齢250年以上ということです。
「熊野宮」の拝殿。その奥には、榎の樹があります。
宝永元(1704)年に、一本榎の下に祠を建てられたことが「熊野宮」の始まりです。但し、その榎の樹は、代替わりをしていて現在のものは、樹齢百年ほどの三代目だそうです。
更に「青梅街道」を東に進むと、「大沼田用水」がありました。この用水も玉川上水から分かれて、大沼田新田を潤しました。
真言宗豊山派の寺院「伽羅陀山地蔵院延命寺」。元は、中藤村(現・武蔵村山市)にあった「真福寺」の塔頭の一つでした。野中新田入植者の願いにより、享保18(1733)年に当地に建てられました。

境内の一角に「多摩野神社」があります。「延命寺」よりも先に祀られていたとも伝えられます。
「小平ふるさと村」に到着しました。多摩湖から境浄水場とを結ぶ水道施設の上に整備された「小平グリーンロード」沿いに入口があります。
「小平ふるさと村」の入口にある「旧小川郵便局」の建物。1908(明治41)年築。電話交換業務も行っていました。
郵便局の窓口が復元されています。
廻り田新田にあった「旧神谷家住宅」。神谷家は18世紀後半から廻り田新田に定住していました。この建物は、前原(現・小金井市)から曳家してきたと言われています。江戸中期頃築。
「旧神谷家住宅」の内部。
大沼田新田の鈴木家の穀櫃。元は花小金井の秋山家にありました。江戸後期築。
水車小屋。これは1992(平成4)年に新築されたものです。用水が要の新田開発ですので、水車はあちこちにあったと思われます。
小川村の開拓時代の住宅を再現した建物です。小川家の文書を基に1992(平成4)年に復元されました。
この建物では、週末、小平のソウルフード「小平うどん」を販売しているようでした。但し2月は休業とのこと。